新しいナニー
なんて動きが速いのか。
これは、茶会の後、屋敷に戻ってすぐに書状の手配をしたとしか考えられない。
「ラーラ宛てではなくて?」
一応確認する。しかし、ラーゲンは緩く首を振り、書状の表書きが良く見えるように盆を傾けた。
はっきりと花文字で記される、『ローザリンデ・ザン・シャンダウス』の名前。
内心侯爵夫人の行動力に舌を巻いた。
前の時は、ローザリンデがゲオルグの子を懐妊するまで、会うこともなかったのに。
いや、しかし状況がまったく変わってしまったのだ。
前の時とは違い、今日、ローザリンデはガッデンハイル公爵家の茶会という、ある意味特別な社交の場で、あんなに目立つ立ち回りをしてしまったのだから。
執事が捧げ持つ銀盆から書状を受け取り、一緒に乗せられていたペーパーナイフで開封する。
取り出した二つ折りの書状には、カスペラクス侯爵家の紋である双頭の一角獣が刻まれ、特注で作らせているインクの、嗅ぎなれたシナモンのような香りがした。
侯爵夫人がいつも使っている筆耕の流麗な文字が、貴族的な長ったらしいあいさつに始まり、簡単な言葉で本題を記している。
『明後日の一門の晩餐に、どうぞおいで下さい』
カスペラクス家では、月に一度、傍系の主流な者までも集め、侯爵主催で晩餐会を催していた。
それがちょうど明後日あるのだろう。そして、そこにゲオルグの婚約者の義姉でしかないローザリンデを招くと言うのだ。
かつて、その晩餐会を差配していた身としても、ありえない招待客。
恐らく、ラーラとて、まだ招かれたことはないはず。
「ラーラにも、同じような書状は来ていますか?」
こめかみを揉みながら確かめると、ラーゲンがうなずきながら、「今、他の者がお持ちしております」と答えた。
きっと、公の場に婚約者としてゲオルグにエスコートされたことのないラーラは、身内だけの場だとしても、この晩餐会に喜んで足を運ぶだろう。
それに、おまけのローザリンデが断りの返事を入れられるわけがない…。
「ラーラの返事の書状は、明日わたしが一緒に書くことにします。勝手に送ることのないよう、よく気を付けておいて」
稚拙な言葉遣いの返信が容易に想像できて、ローザリンデは執事にしかと命じた。
巻き戻った世界で自分がすべきは、ゲオルグとラーラ、正統な婚約者同士を無事に婚姻に導くことだけなのに…。
すでに、カスペラクス侯爵家だけでなく、ガッデンハイル公爵家やチュラコス公爵家という、それをしのぐほどの家門との関りが出来てしまっている事態に、頭が痛くなる。
けれど、今は早くこのマスタードイエローのドレスを脱いで、レオンのミルク交じりの匂いを胸いっぱい嗅ぎたいと、ローザリンデは二階の自分の部屋へ向かった。
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子ども部屋では、レオンがケイティに子守歌を歌いながら寝かしつけられていた。
静謐で暖かい空気に、ローザリンデはほっと息をつく。
「お嬢様、大丈夫でしたか?」
朝早く、ガッデンハイル公爵夫人に連れ去られたところまでしか知らないケイティが、心配そうにささやき声で労わってくれた。
「大丈夫よ、ありがとう。ケイティも、レオンのお世話を任せっぱなしにしてごめんなさいね」
すると、ケイティは頭を振った。
「レオンぼっちゃまのお世話しかしなくて良いですから、ずっと暖かい部屋でかえって楽ちんでした」
にこりと笑うその顔に、ガッデンハイル公爵家で、ケイティにもブリアナのような落ち着きがあれば…などと考えたことを後悔した。このハウスメイドは、使用人同然だったローザリンデに、最初から二心なく接してくれた使用人だったのに。
しかも、前の時から、ケイティが邪な心を持たず、素直で忠義心に溢れる女性であることを知っている。
そう思った瞬間、ローザリンデは決めた。
「ケイティ。あなたの役目を、ハウスメイドからナニーにしようと思うのだけど、どうかしら?」
その言葉に、ケイティは目を見開いた。
それは、普通では考えられない、破格の昇格だった。
通常、ナニーは最初からその役目で募集をして、裕福な紳士階級の人間から採用される、上級使用人の仕事。
「いや…無理です。お嬢様。わたしなんて、農家の出で、字もろくすっぽ読めないのに!第一、周りが認めません」
ケイティは、うろたえて、つい大きな声で返事をする。
途端にレオンが「ふえっ」と泣き出し、ケイティは慌てて可愛いぼっちゃんのお腹の上で、優しくリズムを取った。
しばらくすると、また緩い寝息が聞こえ始め、ローザリンデとケイティは、顔を見合わせてクスリと笑う。
「ほら。レオンもあなたが良いって」
レオンに、現状ナニーがいないのは、伯爵夫人が夫の食指が動きそうな年齢の女の雇用を避け、ローザリンデにその役目を負わせたからだ。
しかし、昨日今日の状況を考えれば、明日からだって、ローザリンデが落ち着いてレオンの世話をすることは難しいだろう。
かといって、そのために新たにナニーを雇う気は毛頭なかった。
こうして、すでにレオンのことを慈しんでくれるケイティという存在があるのだから。
「でも…」
ケイティが渋るのも分かった。
ローザリンデの一存でナニーに据えても、周りの使用人たちに認められなければ、ただの手伝いの身分でそばにいる今の方がやりやすいくらいかもしれないからだ。
「分かったわケイティ。じゃあ、聞き方を変える。あなたに、レオンのナニーになるために、努力をする気があるかどうかを、尋ねるわ」
その言葉に、ケイティが口をぽかんと開けた。
「ど…りょく?」
「そうよ。あなたさっき、字も読めないと言っていたわよね。それなら、字を勉強しないこと?それなら、困った時に育児書も読めるし、毎日レオンのために、絵本を読んであげることもできるわ。そうして、その努力は、他の使用人たちに、あなたがレオンのナニーだと認めさせるものになるでしょう」
ケイティは、ぱちぱちとまばたきをした。
しかし、それは決して後ろ向きな表情ではない。
「わたしに…、できるでしょうか?」
呟くようなそれに、ローザリンデは大きくうなずき返す。
すると、ケイティは、一瞬顔をくしゃりとさせ、またしても大きな声で返事をした。
「したい!したいです!どりょく!レオンぼっちゃまに、絵本を読んで差し上げたいです!」
今度こそ、大きな声で眠りを妨げられたレオンは、「ふぇ~!」と大きく抗議の声を上げた。
慌ててケイティが抱き上げ、その姿をローザリンデは目を細めて見つめる。
そうだ、何としても、ケイティを一人前のナニーに育てるのだ…、と心に刻みながら。
前の時、ケイティに、つらいお願いをした。ゲオルグがラーラの元をちゃんと訪れているのかを知らせてと。彼が罪悪感から、愛する人を切り捨ててしまうことを恐れていたからだ。
ゲオルグが自分のせいで愛する人を諦めてしまうことも嫌だったけれど、その実一番恐れていたのは、そうされたラーラと伯爵夫人が、シャンダウス家の醜聞を世間に公表してしまうことだった。
結局、ローザリンデのしたことは、我が身可愛さ故の所業だった。
なのに、ケイティは、そんなローザリンデを労わってか、『ゲオルグ様はいらっしゃいましたけど、いつもお一人でさっさと夕餉を召し上がって、お嬢様が使っていらした半地下のお部屋でお休みになられています』と、わざわざ侯爵家を訪ねて教えてくれた。手紙を書けないケイティは、そうするしかないから。
反対にラーラからは、『ゲオルグ様が毎晩眠る暇もなく褥から離してくれない』と、閨でひそかに読まれる物語もかくやというような、破廉恥な手紙が頻繁に送られて来ていた。
どちらが真実だったのかなんて、今となっては確かめようもない。もしかしたら、ケイティの話の方が本当だったのかもしれない。
けれど、ゲオルグに恋しながら、彼のそばで眠ることに恐怖を覚え、受け入れられなかったあの時の自分には、ラーラからの手紙の内容は心を抉られるほどつらく、それと同時に、自らを罪悪感から救ってくれるものでもあった。
だから、そちらを信じたくて信じたのかもしれない。
今度はケイティに、あんな役目を負わせなくて済むようにしたい…。
せめて、侯爵家の使用人用の門で、肩身狭い思いで寒空の中、ローザリンデを待つことのないように…。
ケイティを、ブリアナのような上級使用人に育てよう。
ローザリンデは心にそう決めた。
読んで下さり、ありがとうございます。