釘を刺す
「お母様!どうなさったの?ローザリンデなんかに何を言われたって、レオンを生んだお母様に盾突ける者などいないではないですか!」
使用人たちがいなくなっても、青白い顔で立ち尽くす伯爵夫人に、ラーラがローザリンデを睨みつけながら話しかけた。
「しかも、わたしはゲオルグ様の婚約者。お義父様があてにならないなら、カスペラクス侯爵家から、ローザリンデに物申してもらえば良いのですわ!かねてよりゲオルグ様には、ローザリンデがいかにひどい義姉かを、毎回お話ししてありますから!」
どんなことを言っているのかは、前の時にパトロラネ夫人から大体聞いて知っていた。
どれも、ラーラの主観だけで『ローザリンデのせい』にされた話で、実際には何もしていない。
けれど、この義妹の頭の中では、デビュタントのドレスが希望通りにならなかったのも、王立学院に自分が通えなかったのも、この屋敷の執務を自分や母がさせてもらえないのも、すべては『ローザリンデのせい』なのだ。
カスペラクス侯爵家から、その義姉に物申してもらう?一体何をどう説明して、どう物申してもらうと言うのか?
伯爵夫人のように、ただ無条件に義娘は義母に従うべしなどと、侯爵家の誰がその内容にうなずいて、ただ息子が婚約しているだけの他の家門に口出ししてくると思っているのか。
ローザリンデは、ラーラの今後のためにも、今すぐ一本釘を打つことにした。
カスペラクス侯爵家が、ゲオルグの婚姻相手を、ラーラからローザリンデに挿げ替える時に使った、この母娘の口をつぐませたネタのうちの一つを使って。
「ラーラ、婚約者に言いつけたければ、なんでも言えば良いわ。ただね、あなたにも先ほどの話の続きをしなくちゃいけないと、思っているのよ」
本能だろうか。義妹が体をぎくりと震わせた。
先ほどまでの威勢はどこに、立ち尽くす母のドレスのスカートをつかみ、その陰に隠れようとする。
引っ張られた伯爵夫人は、ソファに座るラーラの横に、どさりと腰を下ろした。
不安気に見上げる視線と、まだ反撃の炎が燃える瞳を並び見て、ローザリンデは続ける。
「それより、あなたに聞きたいことがあるの。さっき、わたしが誰か、という話をしたわね。あなたの母であるその人は、『シャンダウス伯爵の夫人』。そしてわたしは、『シャンダウス伯爵家の令嬢』。では、あなたは?」
そう問われて、ラーラはローザリンデにうろんな視線を這わす。
それでも、疑うべくもなく、自信満々に答えた。
「そんなの、あなたと同じ『シャンダウス伯爵家の令嬢』以外、何だっていうのよ」
しかし、その横に座る伯爵夫人は、弾かれたように顔を上げた。
蒼白なその顔色。そして、口元だけで、小さく「なぜそれを…」と呟いた。
ローザリンデは、そちらをちらりと見て、続ける。
「そう…。そうね、あなたはそう思っているでしょうし、周りもそのようにあなたに接するでしょう。でも、あなたに送られてきた、王立学院からの書状には、あなたの名前は何と書かれていたのかしら?」
そう言われて、ラーラは初めて視線をさ迷わせた。
自分が真実だと思っていた足元の硬い地面が、突然池に浮かぶ水草のような錯覚に襲われて。
デビュタントのような社交界の場面では、『シャンダウス家』としてローザリンデとともに遇された。しかし、学びの場である王立学院では、『ローザリンデ』と『ラーラ』は別の個々の人間として、当然扱われるのだ。
ラーラは、だがその書状を自分では見ていなかった。ただ伯爵夫人から『王立学院になど入学しなくとも、あなたの美しさなら、素晴らしい家門からすぐに求婚されるわ』と、言われただけ。そして、伯爵夫人も、その『入学不適』として送られてきた書面を見て初めて、ラーラの正式な身分を思いしらされたのだ。
そこには、ラーラのこの国での、正式な籍での名前が綴られていた。
『ラーラ・ビョルンソン』と。
そう。ラーラは、シャンダウス伯爵から、正式な義娘として、貴族籍に入れられていなかった。
だから、王家より貴族に与えられる、『ザン』の称号もない。
『ビョルンソン』は、ラーラが生まれた時にその籍に娘を加えた、実父の姓。
伯爵夫人が最初に嫁いだ、裕福な準男爵の男の姓だった。
それは、『シャンダウス家の後妻の連れ子』として、社交界で貴族令嬢として振舞っているラーラの、決して誰にも知られてはならない、大きな秘密。
平民にも門戸が開かれている王立学院で、ラーラが『入学不適』となったのはその実力通りだが、それによって、彼女の正式な身分が『平民』であることを誰にも知られることなく済んだと思えば、悪いことばかりではなかった。女の幸せが、容姿の美醜と嫁ぎ先で決まると思っている伯爵夫人にとって、学ぶ機会が奪われたことなど取るに足らないことなのだ。
もちろん、愛する娘のため、レオンを生んだ、一番立場の強いタイミングで、伯爵にラーラをシャンダウス家の養女としてもらえるよう頼みはした。
しかし、伯爵の返事は『王立学院に入学する時には、平民の姓ではまずいだろうからそうしようと思っていたけれど、その必要はなくなったのだろう?』という思いもしないものだった。
さらに、嫁ぐ際には、相手の家格に応じて、きちんと持参金は持たせてやると言われれば、財産分与の部分では実子同然の扱いで何も言えなくなった。
『実』は取れた。
しかし、貴族社会で『実』よりも大事な『名』を、伯爵からは与えてもらえなかった。
結局、伯爵家で養育されながら、最低王立学院に入学できる程度にまでラーラを育てることが出来なかったことは、こうして重く圧し掛かって来たのだった。
しかし、ラーラは知らない。何も、母親から知らされていない。
どこでも、カスペラクス侯爵家との婚約契約書ですら、何の疑問も持たず、『ラーラ・ザン・シャンダウス』と署名してきたし、だれもそれに疑問すら持っていなかった。
ただ今は、見たこともないほど顔色をなくし、つい先日まで使用人同然にこき使っていたローザリンデに、一言も言い返せない母を見て、言われた書状に、一体何と自分の名前が書かれているのかが、とんでもなく気になるだけだった。
「お義母様。ラーラをこのまま貴族の令嬢として、幸せにカスペラクス侯爵家に嫁がせ、『ラーラ・ザン・カスペラクス』とするのか、それとも、このままシャンダウスの家にとどめておくのかは、これからのお義母様のお考え一つなのだと思われませんか?」
ローザリンデは、優し気に伯爵夫人に語りかけた。
伯爵夫人が、充血した、ラーラと瓜二つな青い瞳を上げる。
シャンダウスの名を背負い、今日、ローザリンデがガッデンハイル公爵家の茶会で、皆の前で宣言したことは、確実に履行しなければならない。貴族として、家門を守るためならば。
見下ろす義娘からの圧に屈するように、伯爵夫人が「どうしろと言うの…」と、小さな声で返事をする。
ここぞと、ローザリンデは口を開いた。
「ラーラは、明日にでもマダム・ヘジリテイトの花嫁学校に入学させます。そして、それ以外の時間は、わたしが選んだ家庭教師から、決して逃げることなく、嫁ぐまでの一年間で、軍閥で権勢を誇る家門にふさわしい、知識と教養を身に着けてもらいます。よろしいですね」
伯爵夫人は力なくうなずいた。
それに驚いたラーラが、「なんですって!!」と癇癪を起しても、バーゼル夫人を呼んで、ひきずるように屋敷の三階に連れて帰って行った。
ローザリンデは、少々良心が痛んで、暖炉に残る小さな火を見つめる。
しかし、心は決まっている。
今度こそ、ラーラとゲオルグを幸せに結ばせるのだ。
そして、カスペラクス侯爵夫人がおかしな気を起こさないように、きっちりラーラを躾けるのが、自分の役目なのだ。
本能が十七歳に近付こうとも、記憶の中のゲオルグはいつだって鮮明だ。
(ゲオルグ様…)
そうして、ぎゅっと目を閉じた時だった。
門番から、来客を告げるベルの音が、エントランスに小さくこだました。
すぐさま、ぱたぱたと下僕が対応する足音が聞こえ、やがて、執事の落ち着いた靴音が。
「ローザリンデお嬢様、急ぎの書状が届いております」
その手に持つ銀盆には、深緑の封蝋がされた白い封筒が乗せられていた。
それだけで分かった。
その書状が、カスペラクス侯爵家からのものだと。
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