女主人
パトリックに送られ、そしてそのパトリックを見送り、やっと心の緊張が解けたローザリンデは、エントランスの古いソファーにそのまま崩れるように、腰かけた。
昨日の朝、ここに巻き戻って来た。
そして、二日目の夜が終わろうとしている。
このたった二日の濃密なこと!
だが、今日という日がそのまま平穏に終わるはずがなかった。
執事のラーゲンが、「お茶をおもちしましょうか?」と、主人の疲れを慮った声をかけたところに、階段の上から、キーキーという金切り声が聞こえて来た。
「ローザリンデ!あなた!お歴々の方々の前で、ちょっと親し気にしただけのラーラが、まるで躾がなっていない娘かの物言いをして!マダム・ヘジリテイトの花嫁学校なんて!馬鹿にしているの?!」
「パトリック様は?もしかして、もう帰られた?あんたを送るついでに、わたしに会いに来たんでしょう?」
ローザリンデは、今日何度目かの、天を仰いだ。
あの場で、あれだけ体面を傷つけられる思いをしたはずなのに、この二人のあまりの心の堪えなさに、ある意味感嘆した。
しかし、いちいちそれに返事をするのも億劫で、ローザリンデはラーゲンに「おねがいね」とだけ答えて、ソファに座りなおす。
そんな彼女の前のソファーに、ばふっばふっと音を立てて、恥も外聞も関係のない母娘が勢いよく座ると、それ以上の勢いでしゃべり出した。
「あんたのせいで、公爵夫人に社交界での後ろ盾になってもらい損ねたじゃないの!」
「ねえ、パトリック様はわたしのこと可愛いって言ってなかった?言ってたでしょ?」
「ラーラは、体さえ丈夫なら、王立学院であんたよりも優秀な成績だって取れてたのよ!」
「チュラコス公爵家の茶会、あんたが招待されたなら、同じシャンダウス家のわたしだって行けるわよね?」
どこから返事をするべきか。
ローザリンデは、素早く執事が差し出したお茶を手に取り、口に含む。
公爵家の茶葉よりも、親しみやすい味がして、自分の舌には合う気がした。
「おっしゃりたいことは、それで終わりですか?」
「なっ!!」
眉一つ動かさずに返答したローザリンデに、伯爵夫人が絶句する。
「まず、公爵夫人に夜会の招待状がどうのこうのとおっしゃっていましたけれど、そもそも招待状が送られてこないのは我が家の格が問題なのではございません」
「なんて口の利き方!一体だれにものを…」
まだこのローザリンデを、どこかで好きなように出来ると見下している伯爵夫人が性懲りもなく反論した。
しかし、そう言いたいのはこちらの方だと、ローザリンデはその間違いを訂正することにする。
「だれ?それでは、逆にわたしはだれなのかと聞かせていただいてよろしいでしょうか?」
すると、伯爵夫人は自慢の大きな胸をそびやかして、答えた。
「は!生意気な!分からないようだから、よく言って聞かせてやるわ!あんたは、わたしの義娘のローザリンデ。そしてわたしはあんたの義母!娘なら娘らしく、親の言うことには大人しく従いなさい!」
自信満々に伯爵夫人が嘲笑の表情を浮かべる。
ローザリンデは、(この人は、大きな声や怖い顔で脅すしか、やりようを知らないのかしら)と思いながら、手元の紅茶をもう一口、含んだ。
「何とか言いなさいよ!ぐうの音もでないのね!」
(また大きな声…)
ちらりと目の前の二人を見れば、伯爵夫人はいつもはなるべく無表情でいることで隠している、額の皺が思いっきり刻まれ、その横のラーラは、ローザリンデがやり込められていると思い、ニヤニヤしながら公爵家から身に着けて来たマスタードイエローのドレスをなめるように見ていた。
(あとでこのドレスも取り上げようとか思っているのでしょうね)
ローザリンデはかちゃりとカップをテーブルに置いた。
そして、まっすぐに目の前の伯爵夫人の額の皺を見つめながら口を開く。
それに気が付いた夫人が、慌てて釣り上げていた眉を下げ、表情を消した。
ふっと鼻先でした嘲笑は、計算ずくだ。
「お義母様はそうおっしゃいますけれど、社交界でわたしのことを尋ねて、真っ先にお義母様の義娘であると答える人は、恐らくお一人もいないでしょうね」
思い切り呆れた表情で発せられたそれに、伯爵夫人はせっかく伸ばした額の皺を再び深く刻む。
「なんですって?!」
思った通りの反応にローザリンデはおかしくなって、笑い出さないように気をつけながら言葉を続けた。
「尋ねれば、皆さまおっしゃるはずですわ。わたしの身分は『シャンダウス伯爵家のご令嬢』だと」
「それが何だと言うの?」
間髪入れず反論しても、ローザリンデには応えない。
「あら、お分かりになりません?わたしの身分を証明してくれるのは、お義母様の義娘であるということではなく、このシャンダウス伯爵家の血統なのだと」
伯爵夫人は、ぐっと言葉につまり唇をかんだ。彼女が思うところの、上手い反論が咄嗟に浮かばない。
ローザリンデはそれを逃さず、ここぞとばかりに畳みかける。
「ですから、シャンダウス伯爵家がある限り、あなたがお父様の妻であろうとなかろうと、わたしには何の関係もない、ということ。つまりは、あなたによって脅かされるものは、わたしには何一つもないのです。世間でいわゆる『母娘』と扱われることはあったとしても、正式には、あなたはわたしに関する権利を何も有していない。ですから、社会通念的な『娘』としての扱いをあなたからされていないわたしは、あなたを『母』だと敬う必要もありませんし、あなたとわたしの間に、口の利き方を云々するような立場の上下など、どこにもないのですわ」
伯爵夫人が、口をはくはくと動かしながら、ソファーから立ち上がりかけて、再び座った。
なんと反論して良いか、分からなかった。
彼女の常識では、子どもは無条件に親に従うものなのに、それがこの義娘には通用しないと言われた。
そんなバカな。
そうだ、伯爵様に泣きついて、この生意気な娘を何とかしてやろう。
そう考えついた時、再び義娘がゆったり紅茶のカップを掲げながら、話しかけて来た。
「そうそう。お父様に泣きつこうなどとお考えなら、おやめになって方が良いと、お義母様のために進言いたしますわ。その前に、わたしが学院退学後、この家でどんな風にあなたに遇されたのか、誰かが領地の家令にでも、世間話のついでに話してしまうかもしれませんからね」
頭の中でも見えているのか。
伯爵夫人は、初めてこの義娘を怖いと思った。
無関心な伯爵にローザリンデが直接何を言いつけようと、この家の存続にかかわること以外、伯爵が動くことはないと高を括っていた。
しかし、それが使用人から使用人へ噂として伝えられ、そして伯爵の耳に入れば…。
使用人に軽んじられる女主人を、貴族らしく、矜持だけは山より高い伯爵が、そのままその席に据え続けるとは、どう考えても思えない。
「お前のためにそんなことをする使用人が、この家にいるものですか!!」
しかし、思わずそう叫んだ伯爵夫人の視界には、そんな彼女を無表情に見つめる、執事と下僕の姿が目に入った。
「ラ…ラーゲン!勝手は事は許しませんよ!」
その表情の冷ややかさにうろたえて、思わず大きな声で、執事を怒鳴りつける。
しかし、執事は、それに何も返答しない。
怒りの持って行き場がない伯爵夫人が、その態度に思わずソファーから立ち上がると、ローザリンデも同時に立ち上がった。
そして、告げる。
「昨晩、お話した『リューベッソン家の悲劇』のお話、もう一度必要でしょうか?」
伯爵夫人は、立ち上がったまま、唇をかんだ。
「ラーゲン。お前たちはお下がりなさい。あとは、わたしがお義母様に、よく話しておきますから」
伯爵夫人の言葉に微動だにしなかった執事たちが、ローザリンデの言葉ひとつに従い、丁重に彼女に向けて礼をしてその場を去った。
愚かな伯爵夫人にも、やっと、この王都屋敷の女主人は、昨日から今日の間に、自分ではなくこの義娘に変わったのだと、思い知らされたのだった。
読んで下さり、ありがとうございます。