プロローグ 2
母の死によるルードルフのやり場のない感情は、いつしか、いつまで経っても姿を見せない父に対して向けられていた。いっそ悲しみよりも怒りの方が勝るほどに。
そして、とうとうその日の夕刻、自ら騎士団まで赴き、事の真偽を確かめた。
しかし、何度確認しても、副総長は休暇を取っておられると言われる。
秘書官に探りを入れれば、「母上から聞いておられませんか?旅行に行かれると、確かに馬車で迎えに来られた奥方と、旅装で騎士団を出発されました」と返答され愕然とした。
「一体、どこの『奥方』だ…!!!」
母の死でダメージを受けた心に、さらに追い打ちをかける、騎士である自分にとって神にも等しい、尊敬する父の裏切り。
家に帰り、主のいない執務室で執事を問い詰めれば、あっけなく答えが返る。
「ローザリンデ様のご実家には、使いを送っておりません。しかし、そこに使いを送れば、きっとゲオルグ様に伝わるでしょう」
「どういうことだ?!」
「騎士団の方がおっしゃった『奥方』とは、きっとローザリンデ様の妹様でいらっしゃるからです」
しれっと返答するヨハネスに怒りが湧いた。
しかし、見返せば、そのまぶたの垂れた瞳の奥には、仄暗い怒りの炎が揺れていた。
そして、みるみる瞳が揺れる。
「ローザリンデ様は、立派な方でありました。ゲオルグ様と妹様のご関係は、ご結婚前からずっと続いていたと聞いております。それにもかかわらず、この厳しい侯爵家に嫁いで来られた。そして、ほとんど家に帰って来られないゲオルグ様に代わり、この王都屋敷の差配や前侯爵様の介護、四人のお子様方の育成に尽力されました。我々使用人にも温かいお心をかけて下さり、現侯爵ご夫妻がご領地をしっかり守ることができるのも、ローザリンデ様が王都を守って下さったからです!」
普段冷静で無口な老執事の、一気に溢れだした激白に、ルードルフは思考が停止する。
知らなかった。
そんなこと、まったく知らなかった。
そこに、長女のクラウディアがたった一日で何歳も年を取ったかのような顔で現れ、ルードルフの前に立つ。
「お兄様、本当にご存じなかったの?」
ローザリンデが必死に守っていた秘密も、多感で察しの良いクラウディアにはいつしか漏れてしまっていた。
「こんなこと、お父様の気配あるお部屋で話したくないわ。どこか別のところに行きましょう。お母様のいらっしゃるお部屋からも遠いところで…」
結局ルードルフの部屋に行く。
「お前はいつから気が付いていたんだ?」
扉を閉じるや否や、ルードルフがクラウディアに尋ねる。
「三年前、お父様がワッツイア城塞から帰還されたときですわ」
「そんなに前から…」
クラウディアは泣きはらして腫れあがったまぶたの上の眉だけを動かし、肯定の意を伝えた。
「帰還されて、すぐの夜。談話室で、お母様に二人で湯治場に行こうとお父様が誘われていたのを偶然聞いたの。お父様がお母様にそんなことを言われるなんて、見たことも聞いたこともないから、つい興味を引かれて…」
確かに、ルードルフもそんなことは見たことも聞いたこともない。
「そしてその時、そこは今の時期、木蓮の花が見ごろで綺麗だってお父様がおっしゃって…。そうしたら、お母様が『お義父様が、最近お加減が良くないので、家を離れるのは心配ですわ。だから、以前木蓮の花を一緒に見た方と、またそこに行っていらっしゃいませ』ってお返事されたの」
今ならルードルフにも分かる。
父が友人や部下と湯治場に行ったりしたはずがない。ましてや、騎士連中がわざわざ美しい木蓮の花を見るために訪れることなど…。
誰か、他の『奥方』と行ったことがある場所に、母を誘ったのだ。
母が亡くなり、悲しみに暮れる夜のはずなのに、ルードルフの頭は怒りでどうにかなりそうだった。
「お母様はそう言って、部屋を出てしまわれた。そのお顔が、本当に無表情で…。そして、それを見送るお父様のお顔も、すべての感情が抜け落ちてしまったような…どきりとしてしまうような表情で…、とても奪還の英雄として帰還された人には見えなかった…」
クラウディアはその時を思い出したのか、ふるりと体を震わせた。
「それがきっかけよ。それから、そういう目で見てみれば、いくつも隠されていた事実に気付いたわ。わたし達の前では仲睦まじそうなお父様とお母様だったけれど、相変わらずお父様は屋敷に帰って来られないし、たまに帰って来られた時も、騎士団ではつかないような香りをかすかにまとっていたり、どんどん疑惑は確信に変わった…。公爵家に嫁ぐ前、お母様のお心が心配で、ヘレネを捕まえて思っていることを突き付けたら、何も言わなかったけれど、否定しなかった…。本当はお兄様にも相談したかったけれど、騎士であるお兄様はお父様のことをとても尊敬してらっしゃるから言い出しづらくて…」
母に守られ、無邪気に父を神格視していた過去の自分を怒鳴りつけたい。
そして、妹にまで気遣わせて…。
ルードルフはヨハネスに向き直ると、きっぱりと言った。
「伯爵家には使いをやらなくて良い。父上抜きで、葬儀は、わたしたちで行おう。きっと伯父上たちもこのことをご存知なのだろう?それなら、何も咎められはしない」
ヨハネスは無言で頭を下げ、その命に従うことを示した。
翌日、ローザリンデの葬儀が、侯爵家の王都屋敷の祈祷室で行われた。
本来なら、貴族の、特にカスペラクス侯爵家や、叙爵された辺境伯のような高位貴族の葬儀は王都の大聖堂で執り行われる。
先月執り行われた、前侯爵夫人の葬儀もそうだった。
しかし、流行り病で亡くなったローザリンデの骸を、大聖堂に連れ出すことは憚られるとの理由で、ルードルフは祈禱室に司祭を招くことにした。
だが、それはただの口実。
実際は、父親抜きで母を見送りたかった。
しかし、大聖堂のような衆目のある場所での葬儀であれば、内実が如何様であろうとも、体面を重んじる貴族としてそれは不可能だった。
カスペラクス侯爵家の現当主であるゲオルグの兄は、ここから馬車で二日かかる領地にいるが、伯母がその代理として、何も言わずこの葬儀を了承してくれた。
王都の侯爵家の社交を、華々しくはなくとも堅実に担っていたローザリンデには、王家の方々も含めた様々な交友関係があるが、そちらには、流行り病を理由に後日、伝えることとなった。
列席者は、ローザリンデの子どもたち。義姉である侯爵夫人。そして、クラウディアの夫。
「こちらでございます」
扉の外でヨハネスの声がする。司祭を案内してきたようだ。
かちゃりと音を立て、開かれた扉の外には、ガッデンハイル枢機卿が立たれていた。
予想していなかった、次期教皇と呼び声高い、すさまじい神力を持つと言われる高位の聖職者の登場に、ルードルフ達は息を呑む。
枢機卿は、白に近い銀の長い髪をひらめかせ、細身の体を音もなく部屋に滑り込ませると、真っ先に棺の中のローザリンデの元に歩みを進めた。葬儀を執り行う司祭、ではなく、旧来の友人が、複雑な想いを抱え、耐えがたい痛みを耐えるかのような表情で。
棺の中のローザリンデは、苦痛を感じることもなく、まだふっくらとした、でも真っ白な死に顔。
「リンディ…」
枢機卿が、少女を呼ぶように母に話しかけたのは空耳だったのだろうか。
ルードルフがそう感じた瞬間、枢機卿は、くるりと皆に振り返った。
その表情は、大聖堂で教皇の隣にたたずむ、いつもの清浄な空気をまとった偉大なる枢機卿のもの。
「さあ、穢れなき、聖女のごとき稀有な魂を、みなで見送りましょう」
葬儀はしめやかに、しかし誰もが亡くなった人への愛で、苦しみに近い悲しさを解消しきれない空気の中、執り行われた。
枢機卿を馬車寄せまでルードルフが見送ると、「困ったことがあれば、いつでも頼っておいでなさい」と、声を掛けられる。
不思議な面持ちで、その神々しい顔を見返すと、
「母君とわたしは、幼馴染なのですよ」
と、小声で返された。
驚いて顔を上げれば、枢機卿はもう馬車の中。
窓から見えるその横顔は、何の表情も浮かべていないにもかかわらず、なぜか空気の全てを凍らせるような冷気と緊迫感をはらんでいるように見えた。