箱の中 2
パトリックの苦悩の表情に、ローザリンデはあの頃の自分の感情までも思い出し、胸がずきりと痛む。
実際あの時、ローザリンデは様々なことに傷ついていた。
父や義母、ラーラは言うまでもなく、ゲオルグによっても。
何より、一縷の望みを抱いていた子まで成した相手に、愛ではなく、子どもへの責任として二人は結婚すべしと言われてしまったのだ。
ローザリンデは貴族の娘でありながら、婚姻により得られる伴侶という存在に、大きな憧れを抱いていた。親からの無償の愛を得られなかった自分を、愛してくれる人がいるとすれば、それは自分の夫となる人物なのではないかと夢見ていた。
だからこそ、ラーラの伴侶となる予定のゲオルグに、持ってはならない恋情を抱いてしまったのだ。
しかし憐れな少女の精神は、『ホルツの家』で純潔を捧げたゲオルグに置き去りにされ、その後、義母らによって半地下の部屋へ軟禁された頃から少しずつおかしくなっていったのだろう。そして望まぬ妊娠が判明し、カスペラクス家の本格的な介入が始まり、最後にゲオルグによって放たれたのが、
『生まれてくる子のためにも、わたしたちは結婚しなければ』
というとどめの言葉だった。
ローザリンデはしかし、結局この婚姻を承諾した。
ゲオルグの言う通り、今後はこの子どものために生きて行こうと思ったのだ。
夫となるゲオルグをラーラと共有し、カスペラクス家の望む家門の妻となり、子を育てる。
それがローザリンデに与えられた、他に選びようのない選択肢。
そして、義母とラーラに支配されたシャンダウス家からの、唯一の逃げ道。
けれど、やがて子が宿る腹に手をやれば、ささくれた心が穏やかになることが分かった。
そして、その子こそが、母として子として、互いに愛を交わし合える唯一の相手に違いないという期待で、頭がいっぱいになった。
だから、パトリックの手を拒んだ。
パトリックの中にあるのは、純粋な怒りと憐れみだと思っていた。
ローザリンデは、自分の代わりに激しい怒りを見せた幼馴染に感謝した。けれど、憐れみの感情の方はいらなかった。欲しかったのは、愛だった。
そして、それを与えてくれるのは、聖職者であるパトリックではなく、腹の中の子どもだと考えていた。
だから、まさかその拒絶が、それほどの絶望をパトリックに与えていたとは、想像もしていなかった。
しかもその時、すでにパトリックは教皇によって生殖器官を奪われていたという。
成人もしていない者へのあまりの非道に、ローザリンデはわなわなと震えた。
その後も、二人は手紙を何通も交わしたのに。
自分はそんな幼馴染の状態を察することさえなかった。
それだけではない。パトリックから送られてくる、国教会の少し青みがかった便箋の行間からあふれる友愛に、あの日、その手を拒絶したことは、間違いではなかったと自分に言い聞かせた。
もしあの時、パトリックの手を取っていればと、ローザリンデ自身は悔やみ続けていたとしても。
けれど、自分は読み違えていたのだろうか。
婚姻式の控えの間で、自分の手を取ったパトリックが抱いていたのは、憐れみではなかったというのだろうか。
ローザリンデは、目の前のパトリックを見た。
あの日、彼がどんな顔をしていたのかを、思い出そうとして。
今よりも、ずっと線の細い、神官のローブを羽織っていたパトリックの姿。
そうだ。彼は怒っていた。パトリックは負の感情に支配され、その形相はローザリンデの周囲のすべてへの激しい憤りを伝えていた。
あの日のことを、二十年近く経つ今も、こんなにも克明に覚えている自分自身に、ローザリンデは驚く。
それと同時に、自分の手を握ったパトリックの表情が、怒りだけではなかったことに、今更ながらに気が付いた。そこに浮かんでいたのは、何かを覚悟したような、聖職者とは違う、男の顔…。
その記憶に、ローザリンデは思わず目を見開いた。
そして、再びパトリックを見る。
ところで今、パトリックは何と言っていただろう、と考えながら。
そうだ。彼は、『子どもを授けることが出来なくなった自分に絶望した』と言ったのだ。
ローザリンデは、自分が都合よく解釈しているのかもしれない可能性を恐れて、慎重に口を開く。
「ねえ教えて。あの時、わたしが子どもを理由にパトリックを拒まなければ、どうしていたの?」
その問いに、翡翠色の瞳が泣き笑いのような表情を浮かべた。
彼の反応に、ローザリンデの鼓動が速くなる。
そして、パトリックが口を開いた。
「きっと、ローザリンデを説き伏せて、あの場から連れ出していただろう。ぼくは子どもを授けることは出来ないけれど、ゲオルグ殿との子を二人で育てながら、夫婦としてこの国の隅っこで生きて行こうと」
その答えに、ローザリンデは胸を突かれる。
前の時の、あの瞬間のパトリックが抱いてくれた覚悟に。
反対に、自分のことしか考えていなかった自分の愚かさにも。
そう言いながらパトリックは、テーブルの上の玻璃の箱に手を伸ばした。
軽く指でつつき、揺らす。
今告げよう。そう思って。
玻璃の箱から指を離す。
そして、すぐ目の前にある、シャンダウスのヘーゼルを真っ直ぐに見た。
「そこまで思ったのには理由がある。ぼくはあの時やっと自覚したんだ」
二人は瞬きもせずに、見つめ合う。
「リンディのことを、愛しているって。誰にも傷つけさせたくない。何事からも護りたい。リンディのすべてを独占したいって」
それは初めてパトリックが口にした、ローザリンデに告げる、愛の言葉だった。
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