勅令
記憶通りの教皇の執務室に、パトリックは足を踏み入れた。
重厚なマホガニーで統一された調度に、金彩が施された神具の数々。
あえて小さく取られた窓にすら分厚いビロードの幕が垂れ下がるこの部屋は、オイルランプやろうそくが無ければ、漆黒の闇にも陥ることが出来るだろう。
巻き戻ってからここに来たのは、神学校を休学することを教皇に伝えるために訪れた一回だけ。
今思えば、あの時抱いた教皇への違和感は、間違いではなかったのだと思い返す。
教皇は常に自分の感情を、分厚い慈愛の表情で覆っていた。
それは、パトリックに対する時、特に慎重に幾重にも重ねられていたのだろう。だから前の時、三十五歳になるまで、パトリックは最側近として教皇の手足となりながら、その違和感に気付くことはなかった。
けれど、自分が神学校の休学を願い出た時の教皇の表情には、一瞬ではあったが、はっきりと感情が浮かんだ。『不快』、だと。しかしその直後、今度は優し気な微笑みを浮かべ、鷹揚に許しを与えて来た。だがその瞳に浮かんだ、侮りの色までは隠しおおせていなかった。
巻き戻った直後のパトリックは、その表情に、逆に自分が敬愛する教皇を不快にさせてしまったことに心が騒めいていた。だから、その視線の意味を、あの時は見誤ってしまったのだ。
きっと、まだ子どもだった自分には、ああして時折仮面の下の感情を見せていたのだろう。
盲目的に慕っている子どもに対する油断を、今の自分が見逃すことはないが。
だから、今もその瞳に浮かべている。
かつてのように、洗脳にも近いやり方で、自分を誰よりも崇め慕うように育てて来たパトリックが、最終的に自分を糾弾することなどあるはずがない、という油断と侮りを。
パトリックは執務机の数歩前で立ち止まると、騎士団のように胸の前に右腕を掲げ、声を発した。
「国教会教皇トピアス三世、我は国王陛下よりの勅使、パトリック・ザン・ガッデンハイルである。これより陛下よりの勅令を申し伝える」
その声に、トピアス三世はじっと微動だにせずパトリックを見つめる。
教皇は王家の臣下ではない。故に、勅使に臣下の礼を執る必要はないが、かといってその尊大な態度は、これが王宮の謁見室であれば、許されるものではないだろう。
だが、教皇は、まるで国教会とは無関係の人間のように振舞うかつての愛弟子を、威圧的な空気をもってじっと見つめた。
一年前の、いや、巻き戻るまでのガッデンハイル小神官であれば、あの視線ひとつで狼狽えたかもしれない。
しかし、今のパトリックには、その視線はただの老人の虚勢にしか見えなかった。
この一年で、多くのことを経験し、ただ教皇の決めた未来だけを見るよう誘導されていた視野は、無限に広がり様々なことを知ることが出来た。ガッデンハイル家の手の者が入手した手紙に端を発した、教皇の内通の事実は、パトリックの目を塞いでいたものを、徐々に徐々に剥がして行ったのだ。
ローザリンデの死に直面し、まったくの私的な感情だけでその執行を決めた『時戻し』。
あくまで口実であった、前の時の王権争いと亡国の危機の回避が、まさかこんな風に自分と教皇の関係を変えるものになるとは、あの時には想像すらしていなかった。
パトリックは懐から、王家を象徴するハイバラツツジが織り込まれた巻物を取り出す。
それの一方を持ち、繊細な銀の留め金を外せば、巻物はバラりとほどけ、一枚の書状となった。
それを手に、パトリックは告げる。
「教皇トピアス三世、貴族籍名レイジオ・ザン・マーシャシンク。隣国と内通し、王国を混乱に陥れた謀反の罪により、死刑とする」
感情の籠もらない声。そして、それを告げられたトピアス三世も、微動だにしない。勅令には続きがあった。
「また、聖ヨハンデール修道院など、組織ぐるみでの謀反行為も露見したことから、国教会は、国王の名の下、この時を持って解散とする」
それは恐らく、想像以上に厳しい罪への対価であった。
しかも、これは裁判所の判決でも、貴族院での議決でもない。この国の専制君主から、直々に下されてしまった断罪の結末。そのため、この裁定を覆すことも減刑を嘆願することも叶わない。
パトリックはそれ以上何も言わず、書状を再び元の形に戻すと、ずかずかと教皇の前に歩み出て、それを執務机にとん、と置く。そして、わざと横柄な口調で「王家よりの伝文は以上だ」と言葉を投げた。
かつてその姿を見るだけで敬愛の気持ちがあふれ出た教皇の姿は、もはやパトリックにはただの老人に、いや、その身の内に醜悪なものを抱える見知らぬ者にすら見えてくる。
一向に何の言葉を発しない教皇に、パトリックはまさか覚悟を決めていたのかと訝しんだ。しかしそれならば、あっけなく終わったこの刑の宣告をさっさと終わらせ、本題に入りたい。そう思った時だ。
ずっと微動だにしなかった教皇が、ぼつりと言葉を発した。
「お前はそれで良いのか」
パトリックはその問いを無視する。
すると、再び唇が動いた。
「本当に良いのか?初代ガッデンハイル教皇が創られた国教会を解体し、輝かしい教皇という未来を捨ててしまって、お前は本当に良いのか」
脅すようなその声音に、パトリックは目の前の老人を見る。
暗い室内で自分を睨目あげる濁った白目が、血走っていた。
「本望です」
淡々とそう返した途端、教皇は椅子から立ち上がり、その脇に置いていた大聖権杖を手に取り振りかざすと、大きな声を上げる。
「血迷ったか!ガッデンハイル小神官!八歳の齢より、わたしが目をかけ薫陶を授けて来たと言うのに、お前はわたしが!国教会が!このような扱いを受けて何とも思わぬのか!」
しかし振りかざされた権杖を、ただ体を横にずらすだけで避けたパトリックは、憐れみを込めた瞳で言葉を返した。
「あなたの薫陶?それは本当に、ぼくのためだったのでしょうか」
その言葉に、教皇はさらに杖を振りながら大きな声を上げる。
「己をなんと心得る!お前なぞ!ただ膨大な神力を持っているだけの子ども。それを預かり、一人前の神官にしてやろうと手塩にかけたのは誰だと思っている!その証拠に、ここを離れるまで、お前はわたしを誰よりも信頼し、従順に付き従ってきたではないか!まったく!公爵家なぞに戻るから、俗世の下らぬことに惑わされ、わたしの真価を、言葉の意味も分からなくなるのだ!」
そうして教皇は、祈りの言葉を口にしながら、大聖権杖に神力を籠める。
「お前のいかれた頭を治してやる!」
教皇は、宝璽から神力の気配が無くなってから、ずっとそれを使うことを避けて来た。自分がそこらの神官より、多少神力が強いだけの能力しかないと、誰にも知られたくなかった。
けれど理性を失った今、抑えきれずに溢れ出る神力の光を全身にまとうパトリックを前にして、教皇は錯覚してしまった。宝璽が、かつてのように自分に神力を与えてくれるのではないかと。
でなければ、宝璽自体、ただの石ころになってしまう。今こそ目の前の生意気な子どもを懲らしめなければならない。そうして、自分の役割を正確に思い知らせれば、その時はきっと、これまで盲目的に慕っていた教皇の神力の一部になれることを、泣いて喜ぶに違いないのだ。
追い詰められ、劣等感と妬みと憧憬と羨望と、様々な感情に支配された老人が、口の端から泡を出しながら、呪いをかけるかのように祈りの言葉を息継ぎもままならないほどの速さで口にする。
そして、渾身の力を籠め、教皇の証である、金彩大聖権杖を振りかざした。
「はぁ!!!!」
がっっっっ!!!!
しかし杖を振るったその瞬間、教皇の腕はそのままビクとも動かなくなる。
乱暴にふるった権杖を、パトリックが右手で掴み、左手は教皇の腕を掴んでいた。
薄暗い室内で、衰えた視力ではるか上を見上げる。
そこには、よく知っているはずの少年が、眇めた視線で自分を見下ろし、その麗しい美貌に似合わぬ侮蔑の表情を浮かべていた。
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