シャンダウス伯爵の返事
ローザリンデが父へ書き送った手紙の返事は、シャンダウス家の家紋の透かしが入った便箋ではなく、驚くほどの速さで違う形でやって来た。
「お父様!」
手紙を出してたった四日後の夜、伯爵自らが王都の屋敷へやって来たのだ。
エントランスで出迎えた父は疲労の色が濃くにじみ、普段の洒落者の姿はどこへ、身に着けた流行の旅装はうすら汚れてしまっている。
それを見て、領地からここまで、御者と馬だけを変えながら馬車を飛ばして来たことがすぐに分かった。
ラーゲンとヘンドリックに抱えられるようにしてエントランスのソファーへ座ったシャンダウス伯爵は、自身がくたびれ切っているにもかかわらず、久しぶりに見る娘の顔を見て、「痩せたのではないか?」と、呟いて「水を」と、手を上げる。
そこへちょうど、メイドが水差しとグラスを運んでくるのが見えた。
ラーゲンは素早くそこからグラスを取り上げると、瞬く間に水を注ぎ、主に差し出す。
それを伯爵は、まるで甘露のように飲み干した。
そんな父の様子を、ローザリンデはじっと見つめる。
自分がレオンと共に領地で暮らしたいと書き送ったことが、これほど父に切迫した行動を取らせるとは想像もしておらず、未だに驚きから冷めやらなかった。大階段の吹き抜けには、慌ただしく伯爵の主寝室を整えに走る使用人たちのバタバタとした物音が響き、そこであの『シャンダウス伯爵』のあごに、うっすらと無精ひげが生えていることに気が付く。
父が自分の身なりすら後回しにしたことなど、これまで何度あっただろうか。
そう思えば、じんわりと目の奥が熱くなった。
「はあ、王都の水をうまいと思ったのは初めてかもしれないな」
立て続けに水を二杯飲み、伯爵はグラスをラーゲンに返すと、嬉しそうにそう言う。
そうして、傍らで目を潤ませて自分を見つめる娘を見上げ、ソファーの隣をポンと叩いた。
「どうした。座りなさい。ああ、その前に湯あみがいるかな。こんな匂いをさせていては、さすがに淑女に隣に座れとは言い難い」
どうしても馬車の中にまで入り込む土埃がまとわりついた上着の袖を、くん、と嗅ぎ伯爵がそう言う。
しかしローザリンデは、すぐさまその隣に腰を下ろすと、父に向き合い声を大きく上げた。
「いいえ!お父様がわざわざ来て下すったのに、何をおっしゃいますの?嬉しさの方が勝って、匂いなんて気にもなりませんわ!」
そんな娘の態度に、伯爵は面映ゆそうに微笑を浮かべると、「しかしやはり先に湯だ」と言って立ち上がる。それはまるで、照れ隠しのような動きだった。
「湯を使い、食事をしたらお前と話がしたい。それまで起きていられるかな?」
そう言った父からの言葉に、ローザリンデは即座に「大丈夫です」と答える。
わざわざ王都まで来てくれたのだ。
きっと父は、自分とレオンを連れ帰ってくれるつもりに違いない。
少しの時間待つぐらい、どうというほどのこともなかった。
父が階段を登り、ラーゲンがその後ろに付き従う。
今頃使用人用の階段は、部屋を整えるメイドや湯を運ぶ下男でごった返しているだろう。
食事の準備はどうだろうかと、ローザリンデはダイニングに向かう。
すると、廊下まで父の好物であるそら豆のスープの匂いが漂って来て、有能なコック長に自分の口出しは不要だったと思い直す。
どうやら自分がうろうろしていても邪魔なだけだとローザリンデは気が付いた。
それならばレオンの顔でも見ようと、大階段を上がって、右翼にある伯爵の主寝室とは反対側の、子どもの部屋が並ぶ左翼に足を向ける。
しかしそこへ行きつく前に、執務室の扉が少し開いているのが目に入った。
以前、かつての義母がまだ屋敷にいた頃は、執務室の鍵は常にラーゲンが身に着け、ローザリンデとラーゲン以外はそこに入ることが出来ないようになっていた。
けれど今は、いつでも鍵が開いている。大切な印章などは、かつても今も、鍵のかかる引き出しにしまわれていたが。
執務室の扉を開け、中を覗く。
そこはオイルランプが点けられ、机の上には封筒が置かれていた。
夕方、他家からの招待状に返事を書いていた時にはなかったそれに、恐らく今、父が持って来たものだろうと察しをつける。
ランプが灯されていることからも、きっと父が後でここで自分と話をするつもりで、部屋の準備を言いつけていたのだろう。
ローザリンデは中に入ると、見るとはなしに机の上の手紙に目をやった。
目に入ったのは、自分が書き送った手紙。シャンダウス家の家紋がエンボスされた見慣れたクリーム色の封筒。
改めてその手紙を読み返そうと取り上げた時、かさりと何かが机の上から滑って床に落ちた。
自分の手紙以外にも何かあったのかと、慌てて床に手を伸ばして、ローザリンデはぎくりと動きを止める。
その封筒の封蝋に押されている家紋が、そうさせた。
『アザミと長剣』
ガッデンハイル家の家紋。
ローザリンデは目を凝らす。しかしそれは見間違いなどではなかった。
それは二つのことを示していた。
ひとつはガッデンハイル家の誰かが、領地の父へ手紙を書き送ったこと。
そしてもうひとつは、馬車を飛ばしてやって来た父が、それを領地から王都までわざわざ持って来たこと。
ローザリンデに見せるために?
頭の中心から、ヒヤリと何かが抜けるような感覚に襲われる。
少し考えて、伸ばしかけた手をそのままひっこめた。
そして、床に落とした手紙をそのままに、踵を返して執務室を後にする。
父に呼ばれる前に、冷静になる時間が必要だと思った。
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ガッデンハイル公爵家の東の棟。現公爵夫妻が住まう西の棟の対の場所には、代々、次代の公爵夫妻が住まってきた。その『夫のための部屋』には、長らく家を空けていた嫡男が、北部から領地を経て戻ってきて以来、独り身にもかかわらず、寝起きするようになっている。
そして今日も夜遅くまで、居間にはオイルランプが灯されていた。
なにか書き物をしていたのか、手に持った羽ペンが動きを止め、仄暗いランプに照らされた横顔が、虚空の何かを見つめている。その表情は険しく、明日に迫った教皇との対面が厳しいものになることを思わせた。
「必ず取り戻す…」
それでもパトリックは、教皇から、かつて国教会に捧げた物を返してもらわなければならなかった。
もう、我慢は限界だった。
読んで下さり、ありがとうございます。