プロローグ 1
病の床で、ローザリンデはひたすらただ一人の人を待っていた。
しかし、その人が帰って来ないことも分かっていた。
一昨年に舅である前侯爵を、そして、先月姑である前侯爵夫人を天に送るまで、一日も休まず介護をし続けた体は、ひどく疲れ、そして張り詰めていたようだ。
姑の葬儀が終わった次の週から、ローザリンデは気丈な性格にも拘わらず床に就くことが多くなり、しかもあっけなく流行り病にかかってしまう。
同じ病にかかった二十歳の長男ルードルフは、たった三日ほどで全快したというのに、ローザリンデはもう二週間も、熱と、そのたびえずきそうになるしつこい咳に体力を奪われ続けていた。
「母上、少しでも良いので何か召し上がって下さい」
まだこの病にかかっていない幼い弟妹を何とか部屋に入れぬよう監視役も兼ね、今日も咳き込む母の背中を、ルードルフが大きな手でさすってくれていた。
何度部屋から出るよう叱っても、奥様のおそばを離れませんと看病を続けてくれているメイドのアネット、ヘレネ。
前侯爵夫人の葬儀の後、一度領地に帰ったにもかかわらず、侯爵領でしか採れない薬草を携えて見舞ってくれた現侯爵である義兄夫婦。
一日に何度も励ましの手紙をくれる、十歳の次男ケイン、七歳の次女ハイディ。
嫁ぎ先の公爵夫人と、「わたくしたちはもうかかりましたから」と、家の差配を助けてくれている十八歳の長女クラウディア。
(こんなにたくさんの人がわたくしのことを心配し力を貸して下さるなんて…。今まで孤独だと思っていたけれど、そんなことなかった…)
ローザリンデの嫌な音を立てる胸。しかしその中は、温かく潤んだものでどんどん満たされていく。いつしかそれはぽろぽろと溢れ、涙となって右の頬を伝う。
ただ…、一番待っている、待ち続けているその人が、その人だけが、ローザリンデの部屋を訪れることはない。しかし、それを口にすることはできない。すべては『自業自得』だから。
目を閉じ、横になる母が眠っていると思ったルードルフが、誰に言うとはなしに吐き捨てる。
「こんな時にも父上は、仕事が優先か…!!」
ふふ…、と、それを聞いていたローザリンデは、脳裏でだけ笑い声を漏らした。
ローザリンデと使用人たちが、必死になって子どもたちと外部に漏れぬよう隠してきたことは、きちんと守られている。それに満足して。
一介の騎士から、第一騎士団団長、そして昨年から騎士団の副総長となった夫、ゲオルグ・ザン・カスペラクス。カスペラクス侯爵家の次男。
三年前のベンダウラン峰の戦いでは、第一騎士団を率い、たった五日でワッツイア城塞の奪還に成功したこの国の英雄。その時の武功により、騎士爵であったゲオルグは、国防の要、アッザンの辺境伯領を、今年の新年の祝賀の席で国王より賜った。二年以内に副総長の職を辞し、辺境伯として領地に向かう予定になっている。
辺境伯領は、王都から軍馬でも十日はかかる。
そこにゲオルグが赴くときには、もうローザリンデの苦しみの日々は終わるのだと、それだけが、心の支えであったのに…。
(その前に、わたくしの命の方が終わってしまう…)
そうなれば、まだ四十歳の若い辺境伯には、後添いがあてがわれるだろう。
幼いケインとハイディもいる。
もう何年も会っていない、だからこそ、まだ若く美しいままの女の姿が、ローザリンデの閉じている瞳の奥に映った。
その横に寄り添うように立つ、今のルードルフとよく似た面差しの、若き日のゲオルグの姿も。
(その時こそ、ラーラが…)
子どもたちは、ゲオルグが毎晩寝ているのは、騎士団の副総長室の狭い仮眠用の寝台だと信じて疑わない。
それで良い。
ゲオルグは、口数こそ少ないが、立派な軍人、良き父なのだ。
たとえ、本当は、妻の実家の別邸で、その妹の寝台で毎夜眠っていようとも。
そこまで考えた瞬間、ローザリンデは激しく咳き込んだ。
まるで、ゲオルグと妹ラーラの恨みが、ローザリンデに止めを刺すかのように。
「母上!」
ルードルフが慌ててローザリンデの体を抱き起す。
そして、言葉を失う。
ローザリンデが震える唇を抑えた指の間から、真っ赤な血が、ゴボリと流れ出たからだ。
「お…奥様…!!!!!」
アネットが寝台に駆け寄り、ヘレネが医師を呼びに部屋を飛び出す。
だが、騎士として、戦場も経験しているルードルフには、呼ぶべきは医師ではないことが分かってしまった。母から香る、濃厚な死の気配を嗅ぎ取ってしまった。
「…アネット、今すぐ、ケインとハイディを呼んで来てくれ。そして、騎士団とクラウディアにも使いを…。それに母上の実家の伯爵家にも…!!」
ゴボリゴボリと、瞬く間に真っ白な夜着が赤く染められていく。
幼い子供たちが、泣きながら母の足元に縋りつく。
クラウディアは間に合った。
義姉である現侯爵夫人も、訪問していた実家の伯爵家から急ぎ戻り間に合った。
内政省に勤めるクラウディアの夫も間に合った。
しかし、ローザリンデの実家の伯爵家の人間は間に合わなかった。
そもそも、執事ヨハネスは、ルードルフの指示に従わず、そこに使いを出してすらいなかった。
そして、夫である、ゲオルグも間に合わなかった。
いや、とうとうその日、最後まで顔を見せることはなかった。
騎士団にやった使いは、『副総長は先週から休暇を取っておられます』、という、ルードルフにとって、訳の分からない返答しか、持って帰って来なかった。
ルードルフは焦れた。しかし、ローザリンデの命の灯は、彼の予感に違わず、あっという間に細く、弱くなっていく。
最期の時は、あっけなく来た。
ローザリンデは、彼女を愛する家族に囲まれ、惜しまれながら、この世を去った。
まだ三十八歳だった。
最後、あまり苦しまずに、家族の顔をぐるりと瞳だけで見まわし、ルードルフの顔の上で止まったかと思った瞬間、何かを呟き、眠るように事切れた。
ケインが「ゲオルグ様」と言っていたように見えたと言ったけれど、誰も沈黙し、それに同意をしなかった。ハイディはずっと泣いていた。