白い光 3
院長の私室へ通じる扉は、ゲオルグとウルガーが飛び出した反動だろうか。上の蝶番が外れ、ぶらりとぶら下がっている。そして、私室への視界を塞ぐ墨黒の帳を開ければ、すぐ目の前に、ついさっきまで自分が寝かされていた寝台が見えた。
ほんの少し前まで、あの寝台の上で、身じろぎするのも辛いほど、みぞおちがズキズキと熱を発していたのに、今はわずかな痛みすらない。
そして、灯りのない暗い私室の奥、院長室のから射す朝陽の中に、床に横たわる人影。
光を反射する銀の髪は、パトリックだ。
ローザリンデは慌てて駆け寄った。
パトリックの足元には、髪を振り乱した女司祭が、ぶつぶつと何かを口の中で唱えながら平伏している。
危害を加える気配はないが、ローザリンデはそれとは反対側に回り込み、ぼんやりと天井を見上げる幼馴染の髪をそっと撫でた。
「パトリック、わたしが分かる?」
ぼんやりと焦点が合わない瞳。
クライネフにここから連れ出された時、パトリックはクスリの毒に侵され、呂律が回らなくなっていた。その上、この奇跡というしかない術を執行したのだ。わずかに胸が上下して、危機的状況ではないことは分かっても、虚空を眺めている翡翠色の瞳が、彼が万全ではないことを示している。
手の感触か、声なのか、パトリックが反応して、のろのろとこちらに顔を向けた。
そして、ふわりとほほ笑む。
「リンディ…。体、痛くない?」
その笑みに、なぜかローザリンデはたまらなくなり、ぶわりと涙が両の目に込み上げた。
そして、パトリックの胸にそっと顔を伏せると、「無茶をしないで…」と言ったきり、肩を震わせる。自分の胸元をどんどん湿らせる幼馴染の頭を、パトリックは両手で抱き締めた。
その二人の姿に、女司祭がゆらりと立ち上がる。
その気配にローザリンデが顔を上げると、女司祭は憑き物が落ちたような表情で、院長室の執務机に向かった。
そして言う。
「わたしは、もう、逃げも隠れもいたしません。今、目にした、小神官様の神聖なる御業の前に、如何に自分が愚かで取り返しのつかないことをしでかしたかを、思い知りました…」
そうして、自分の両の手の手首を合わせ、机の上に並べた。
「このまま縄で縛ってください。椅子に括り付けていただいても構いません。騎士団に身柄を引き渡していただければ、このまま王都の貴族院裁判所で、すべての罪をお話いたします」
そのあまりの変わりように、ローザリンデは戸惑う。
しかし、私室の隅からラーラを縛っていた縄を拾うと、「失礼します」と言って、女司祭の手首を縛り、そのまま椅子に括り付けた。
人は、自分の想像をはるかに超えるものを目にした時、それに畏怖し、己の存在の小ささに気付くのだろうか。
その様子を見ていたパトリックが、やっと夢から覚めたように体を起こす。
「パトリック!起き上がって大丈夫?」
駆け寄り、その腕を自分の肩にかけさせると、パトリックが「大袈裟だなぁ」と、やっといつもの調子で返して来た。そのまま体を支え、院長室の客用椅子に腰かけさせると、ほっと息を吐く。
そして言った。
「ちょっと、色々と力を使い過ぎてしまったようだ。体力も…、そして、神力も、ね」
その言葉に、やっぱりとローザリンデは思う。
一体何をしたのだろう。
ゲオルグやウルガー、そして自分のケガが治癒されたのは、間違いなくあの白い光の力だ。
だが、前の時、パトリックが神力を『治癒』に使ったという記憶はない。
通常国教会で言う『神力』とは、怪我の治療や病の回復を司る力を言う。女司祭も『神力』を持ち、主に怪我や軽い病気の回復を行っていた。この中で、命にかかわるほどの重い病の治療ができる神官はさらに希少だ。それは国教会の中でも数えるほどしか存在しない。
その中で、すさまじい『神力』を持つと言われながら、パトリックがそのような『治癒』活動を、前の時行っていたという記憶はない。あまりに高位の神官ゆえかと思っていたのだが、今こうして、確かにあり得ないほどの力を見せつけられれば…。
「パトリック。ありがとう…。あなたの力のおかげで、わたしは、いいえ、この国は救われたわ」
椅子に腰かけるパトリックの足元にひざまずき、ローザリンデは敬虔な気持ちで、かつてのガッデンハイル枢機卿を見上げた。
そんなローザリンデをパトリックが慈しむように見つめる。
「もう、体は痛くない?」
「さっきも言ってたわ。これが、どこかが痛そうな人に見える?」
そう言って明るく答えれば、翡翠色の瞳が嬉しそうに細められた。
「良かった…。だけど、今の白い光は、意図して出せたものじゃない。結果として、ここ数時間で負った傷を無かったことに出来ただけで…」
その説明に、ローザリンデは首を傾げる。
すると、パトリックはひざまずくローザリンデの手を取り、自分の横に座らせると、少し辛そうにその肩に銀の髪を乗せた。
「大丈夫?横になる?」
その問いに、髪をぱさぱさと振ると、パトリックが話し始める。
「リンディは、この国で『神力』と呼ばれるものが何か、分かる?」
突然の質問に、ローザリンデは「明確には分からない」と答えた。
「だよね」とパトリックが呟き、ふと頭を動かす。その方向をローザリンデが見れば、女司祭が神妙な顔でこちらを見ていた。
「今からする話は、ぼくが何年もかけてやっと理解した、『神力』の正体だよ」
ローザリンデはその言葉に、こくりとうなずく。
この国の誰もが、『神力』とは人々の病とケガを治す『治癒力』だと思っているが、パトリックは違うと言うのだろうか…。
「リンディ、『神力』とは、間違いなく、『時を操る力』のことだ」
その言葉に、ローザリンデは目を見開いた。
それからすぐにあの秘術が連想された。
女司祭がいるここでは、口に出しては言えないが…。
しかし、今パトリックは言った。
『時を操る力』、それが『神力』の正体だと。
だから、その『神力』を膨大に持つ者だからこそ、パトリックは『時戻し』を執行することが出来たのか。ローザリンデは、どこかで『時戻しの術』は、治療に使われる神力とはまったく別物のように考えていた。
けれど、その『神力』が同じものだというならば、『時戻し』と『治癒』では、それはあまりにかけ離れている。
ローザリンデの表情に、パトリックは幼馴染の頭で渦巻く疑問が手に取るように分かった。
「混乱しているよね。今まで『神力』は『治癒力』だと思われて来た。それは、『神力』を持つ者たちの多くが、その『時を操る力』を、怪我の治りの速度や病の回復を速めることに特化して使っているからだ。そして、稀に多くの『神力』を持つ者は、速めるのではなく、戻すことが出来るんだ。だから、重い病の進行の時を戻し、死期を遅らせて来た、のだと思う」
その解釈に、ローザリンデは言葉もなくパトリックを見た。
だが、その瞳がすべてを物語っている。
「そうだ。ぼくはすさまじい量の『神力』を持っている。だから、戻すことが出来たんだよ。リンディの思う通りに」
女司祭が、縛られた両手を合わせ祈り始めた。
目の前で白い光と共に奇跡を見せられた女司祭にとって、パトリックこそが『神』であるかのように。
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