女司祭の部屋 4
パトリックの声に、ローザリンデは必死に顔を上げようとする。
しかし、肩を押さえていたクライネフの左手が、今は鼻から下を覆い尽くし、声を出すことも叶わない。
それでも、この部屋に入って来た足音は少なくとも二人以上。
「この匂い…。パトリック殿、ここの空気を大きく吸い込んではダメだ!」
「院長室の窓を開けて参ります!」
ローザリンデの耳に、聞き覚えのある声が聞こえる。
あれはゲオルグ。そして次に聞こえたのは、パトリックの護衛騎士ウルガーのものに違いない。
「小神官様!この部屋には何もございません!ラーラ・ビョルンソンなる修道女は『祈りの塔』で懲罰を受けております!さきほどは勘違いして、『伯爵令嬢』と口にしましたが、そのような者はおりません!」
「では、あの寝台に横たわっているのは、誰だと言うのだ?!」
女司祭とパトリックの声が重なる。
今のやり取りで、ローザリンデはこの事態をめまぐるしく推測した。
恐らく三人は、教皇内通の証拠を掴む過程で、ラーラに関する情報を得たのだろう。そして、それこそが、ここ聖ヨハンデール修道院が隣国に捧げられた拠点であることを証明すると思ったか、女司祭が隣国側と通じているとことを明白にすると考えたのに違いない。
それゆえ、危険を犯して、その証拠を掴むために、どのような手段を使ってか、隣国人だらけのこの修道院の院長室まで辿り着いたのだろう。そして、そこで院長室で女司祭と行き会い、女司祭は隣室を隠しつつ敬愛するパトリックを逃がそうした。だが、パトリックたちは女司祭が洩らした『伯爵令嬢』という言葉に、この部屋に飛び込んで来たのか。
「リンディ!」
パトリックの声と、駆け寄る足音。
寝台に左手一本で沈み込まされているローザリンデの視界に、クライネフがゆっくりと右手でマントの奥から剣を抜き出すのが見える。
ローザリンデは、必死に大きな手の平の下でもがきうめき声を上げた。
「パトリック殿!待て!」
ゲオルグの声が飛ぶ。
しかし、それは一瞬。
光が空に一閃したと思った瞬間、「うわあ!」という悲鳴。
パトリック!
ローザリンデが声なき声を上げた時、当の幼馴染の悲痛な声が響く。
「ウルガー!!!」
クライネフは、左手でローザリンデの顔を覆ったまま、目に見えぬ速さで剣を繰り出していた。
右手に持たれたその剣が、ローザリンデの視界に入る。
それは赤い血をまとっていた。
「これはこれは、この国の序列第一位の公爵家のご令息にして、国教会の至宝でもある、ガッデンハイル公爵令息パトリック様ではありませんか」
そして、その赤い血が、ぽたり、とローザリンデのあご先に落ちる。
今やその切っ先は、真っ直ぐにローザリンデの真っ白な喉笛を狙っていた。
その姿勢のまま、クライネフは続ける。
「ですが、いくら愛しのローザリンデ嬢に会えたからといって、カスペラクス副団長の言葉を無視して飛び出してはいけませんな。だから、大事な護衛騎士が、あなたに代わって傷ついてしまうのですよ」
ローザリンデから見えるのはクライネフだけ。
しかしその目線から、パトリックが自分のすぐそばにいることが分かった。
そして、さっき聞こえたうめき声が、あの護衛騎士であることも。
そのクライネフの言葉にすぐさま反応したのは、パトリックでもゲオルグでもなく、女司祭だった。
「ちゅ…中将!!今の言葉を訂正しなさい!小神官様がそこの小娘に浮ついた感情を持っているかのような発言をするなんて、不敬ですよ!小神官様は、女人や俗世の禍々しいことに囚われず、一生を神に捧げられるのです!!」
それがまさに、女司祭が求めるパトリックの在り方なのだろう。
その発言に、クライネフが舌打ちをする。
「少し大人しく出来ませんかねぇ。先ほど申し上げましたよ。あのことを、ご令息にお知らせしても良いと言うことですか?」
あのこととは、秘かに所持するタペストリーのことだろう。毎夜、その名を呼びながら愛でているという…。
女司祭の声が突然止む。それを暴露されるのは、彼女にとって何より嫌なことのようだ。
そこへ、ゲオルグの声がする。
「クライネフ…中将とお見受けする。そちらもわたしが誰であるかご存知のようだ」
落ち着いて冷静な声。ゲオルグは、この男が大将としてベンダウラン峰の戦いで勝利を収めた記憶があるはずだ。それにクライネフが即座に返答した。
「もちろん。この国の騎士団の長、カスペラクス侯爵家のご子息であり、二十歳にもならぬのに第一騎士団の副団長なられた方を、知らぬわけがない」
人を喰ったような物言い。
しかし、クライネフの視線はパトリックを見る時とまったく異なり、寸分の隙も無い。
「昨年、国境線で相まみえて以来ですかな?あの時の傷は、全快されているようだ」
その発言によれば、どうやらゲオルグの方がやられたらしい。
しかし、先ほどの太刀筋を見れば、それもあり得ると思えた。その時のゲオルグは、巻き戻る前の十九歳か十八歳だろう。前の時、奇跡と呼ばれたワッツイア城塞の奪還を成し遂げたのは、年齢で言えばこれから十八年後のこと。
その経験を持って巻き戻り、十九歳の肉体に収まるゲオルグが再びクライネフと対峙した時、どうなるのか。
「あの時と同じわたしではないと思っている。我々がここに来たのは、この修道院が意図的に隣国に我が国での活動拠点として差し出された証拠を押さえるため。だが、一筋縄ではいかぬようだ。シャンダウス伯爵令嬢を人質に取り、そちらが要求することは何だ?」
ゲオルグは、何の感情も乗せずに淡々と話しかける。
前の時、ローザリンデとゲオルグが夫婦であったことなど、クライネフが知るはずもない。
ならば、この副団長には、この令嬢への特別な思い入れなどないと思わせておく方が良いに決まっている。
案の定、クライネフは人質が効果を発揮しないゲオルグではなく、パトリックに向けて口を開いた。
「取引をしよう。この修道院を見逃せ。さすれば、女を開放してやろう。シャンダウス家所縁の女をな」
その物言いに、ローザリンデは『女』が自分ではなくラーラであることを察した。
そしてそれは、パトリックとゲオルグも同じだった。
クライネフの部下が、帳から姿を現す。
手足を縛られ、猿ぐつわをされたラーラを連れて。
パトリックの姿を見た瞬間、ラーラが目を輝かせて呻き出す。
「口を自由にしてやれ」
途端に、叫び声が聞こえた。
「パトリック様!パトリック様!ラーラを助けに来て下さったのですね!あなたの最愛の婚約者、ラーラはここにおります!!」
甘い匂いが、再び部屋に充満し始めた。
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