女司祭の部屋 2
悲鳴が聞こえても、クライネフは離れなかった。
どころか、口の動きを封じていた布を強引に下にずらすと、ローザリンデのあごを掴み、再度唇を塞いで来た。目の前の視界すべてが緑で埋められる。
何とか逃れようと、唯一自由になる首から上を振れば、あごの手がミシミシとそのまま骨を砕かんばかりに力が込められた。そして、ほんの少し力が抜けた口元へ、何かがねじ込まれて来る。
舌だと分かった瞬間、ローザリンデはそれに思い切り歯を立てた。
がちんと、反撃が空振りに終わった衝撃が頭に響く。しかし、唇から生温かい感触がなくなり、後にはヒステリックな女の声。
「け…穢らわしい!!神聖なる修道院で、何たる恥知らずな!!」
クライネフが、口元を拭いながら立ち上がる。
その後ろに、墨黒の修道服を着た人物が、顔を真っ赤にしながら打ち震えていた。
「おやおや。高潔なる院長殿には刺激が強かったかな。少々味見をしただけなのだが」
クライネフの人を喰ったような物言いに、女司祭は想像通りの反応をする。
「あ…味見ですって?神罰が下りますよ!!」
しかし女司祭は、寝台の上に寝かされたローザリンデの姿を目にした瞬間、その表情を一変させた。
手足を縛られ、首元に猿ぐつわだったと分かる布がだらりと下りた、粗末な衣服の憐れな女の姿に、女司祭は見事に聖職者の顔を取り戻すと、寝台に駆け寄る。
「中将!あなたどこからこの娘を攫ってきたのです!あの穢らわしい女かと思っていたら…!」
そう言いながら寝台の脇に屈みこむと、ローザリンデの手に幾重にも巻かれた縄の結び目を解こうと手を差し出す。そうしている姿は、とてもこの国を裏切っている人間とは思えないと、ローザリンデは内心戸惑った。
だが、その女司祭の背中に、クライネフが面白そうに声を掛ける。
「おや?その女の縄を解いても良いのですか?」
「どういうことです?!」
後ろも見ずに、必死に固い結び目に取り掛かる女司祭は、しかし次の言葉で動きをぴたりと止めた。
「その女こそ、『あなたの小神官殿』を、俗世に引き戻した張本人。幼馴染のシャンダウス伯爵令嬢だというのに?」
その言葉がどれほどの力を持っていたのか。目の前で、慈悲深い聖職者の顔で自分を救おうとしてくれた人物の顔が、みるみる変わっていく。まるで諸悪の根源に出くわしたような、穢れと堕落に唾棄せんばかりの憎悪の顔に。
そして、呟く。
「お前が、小神官様の…?」
ローザリンデはその表情に驚きながら、しかし考えていた通りの反応だと思った。
やはりこの女司祭は、パトリックに対して神にも近い憧憬を抱いている。前の時、枢機卿による祈祷の詠唱を恍惚とした表情で見ていた神官たちと変わらない。
ただ、他の国教会の者たちの多くが、未だパトリックに対する認識が見習い神官に過ぎないのに対して、教皇の腹心とも言うべき女司祭は、すでに教皇を通じてその存在に直に触れる機会があったのだろう。
自分がパトリックの幼馴染だと知った瞬間、まるで人格が入れ替わったように表情が一変した。
(やはり、危険なほどの思い入れをパトリックに持っているので間違いないわ。ならば、ラーラを『祈りの塔』へ入れるよう謀ったのも、この人物…)
憎々し気に、瞬きもせずにこちらを見る女司祭。
次の瞬間、息を呑んで見つめ返したローザリンデの脚に、痛みが走る。
爪が食い込む感触。つねられたのか。
そう思ってギュッと目を閉じて耐えれば、墨黒の修道服が後ろから引っ張られ、そのまま引き倒された。
「何をする。大事な人質に」
「お黙りなさい!中将こそ、こんな売女にうつつを抜かしている時ですか!第一騎士団が、この地へ乗り込んで来たと言うのに!ああ、この女はやはり色欲を巻き散らす害悪に違いない!小神官様を毒牙にかけてしまう前に、処理しなければ」
『処理』という言葉に、ローザリンデが総毛立つ。聖職者が軽々しく口にした、死を意味する言葉に。
やはり女司祭のパトリックに対する感情は常軌を逸している。
そんな女二人の様子を、クライネフは片側の頬を吊り上げてにやつきながら見ていた。そして、やおら寝台の宮の裏に手を差し入れると、何かを取り出す。
それに女司祭が気が付いた瞬間、飛び掛からんばかりにクライネフに駆け寄った。
「それを返しなさい!」
ローザリンデは必死に顔を起こし、自分の頭の上を見ようとする。しかし、人がうごめく影だけで、女司祭が何を取り返そうとしているのか見ることは叶わない。
「こんなものを自分の枕辺に飾り、毎夜眺めているお前よりは、こちら令嬢の方がよほどまともだろう」
一体何を?そう思ったローザリンデの目の前に、突然一枚のタペストリーが差し出された。
クライネフの声も。
「なあ、ローザリンデ。お前には、ここに織られているのが何か分かるか?」
タペストリーには、小さな子どもの愛らしい微笑んだ顔が織られていた。
それをじっと見る。
そして、気が付いた。
「パトリック…?」
ゴブラン織りのそれは、それほど精緻に人の顔を織り出してはいない。
けれど、銀の髪に翡翠の瞳を持つ子どもは、この国の公爵家にしか生まれないのだ。
ローザリンデは、驚きの表情で、タペストリーを取り返そうと必死になる女司祭を見る。
さらにクライネフが追い打ちをかけた。
「しかもこれには、八歳で国教会に連れて来られた時、かの公爵令息から削ぎ落した髪が織り込まれているそうな。それを抱き締めて名前を呼びながら床に就くお前は、果たして神聖なる聖職者だと、大手を振って言えるのか?」
女司祭の動きが止まる。
視線で人が殺せるなら、クライネフはすでに死んでいるだろうと思えるほどの殺意をたぎらせた眼差しを浮かべて。
だが、クライネフはそれをまったく意に介さなかった。
そして、告げる。
「そんなことを、『あなたの小神官殿』に暴露されたくなければ、上手い立ち回りを頼みますよ。院長殿」
そこへ突然、小さく鈴の音が響いた。
その音に、クライネフは愉快そうに笑顔を浮かべる。
「どうやら、やつらはここに辿り着いたようだ。今の今まで察知されずにここまで来るとは、さすがカスペラクス家の息子」
そう言いながら視線を寝台のローザリンデに這わす。そして、ダークブロンドの髪を、自身の指に絡めた。
「だが、この女がこちらの手にある以上、勝負はこちらの勝ちだ」
部屋の奥の暗がりに声を掛ける。
「ラーラを連れて来い。ローザリンデのために用意した足かせだ。せいぜい働いてもらおうか」
暗がりの中で帳が揺らめき、そこから人の影が現れる。
「お姉様?」
修道院の私兵の格好の男に連れられて来たのは、焦点の合わない空色の瞳をこちらに向け、翡翠色のデイドレスを纏う、見る影もなくやせ細ったラーラだった。
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