聖ヨハンデール修道院 2
身の軽いデハイムは、あっという間に崖を登り終え、しばらくすると崖上から縄が投げ下ろされた。所々に大きな結び目が作られたそれは、崖のぼりを格段に容易にする。あの暮れるのを待っていた半刻の間に、きっとこのような準備もなされたのだろうと、パトリックは素直に感謝した。
自分達よりも、随分後に登り始めたと思ったゲオルグだが、結果的にはパトリックとほとんど同時に崖上に辿り着き、そこからは先頭のデハイムと後尾の副団長の位置が入れ代わり、全員が身を地面に腹ばいにしながら塔の裏手を目指す。
風もない、月明かりの夜は、灰色の塔をぼんやりと空に浮き出させていた。
明り取りの穴が数か所開けられているだけの石造りのそれは、殺風景を通り越して、ただただ不気味だ。ここに数か月もの間、ひとりきりで幽閉されていたならば、どんな精神世界が出来上がるのだろうか。
パトリックは自分のあご下から立ち上る草の匂いを嗅ぎながら、ふと考えた。
しかし、塔から木立に向かい始めてすぐ、突然一同は動きを止める。
と同時に、ゲオルグを筆頭に気配を消した。
慌ててパトリックも身を固くする。
ざくざくと、柔らかい土の地面を踏みしめる音。
誰かがこの塔へ近付いてきているのか。
そして、皆がいるのは、その身をどこにも隠すことが出来ない、ただ拓けた塔の前の草地。
パトリックは息を殺して、耳だけを澄ます。
心を無にすること。
これが今パトリックが出来る、気配を殺す術だ。
まだ夜は明けておらず、一見すれば何も見えないだろう。
しかし、もし今あの月に半端にかかっている雲が風で流されてしまえば…。
だが幸いに、足音はひとつ。
それでも、院長室へたどり着くまで、この隣国人だらけの修道院で発見されれば、命すら危うい。
しかし、どれほどそうしていたのか。
足音が無くなっていた。
緊張して、パトリックはそれすら気付いていなかった。
先頭のゲオルグが動き出して初めて、辺りをさっきまでと同じ、深夜の静寂が包んでいることに気が付いた。
永遠に続くと思われた木立までの匍匐は、終わって見れば途中の中断を含め、半刻とかかっていなかった。
辺りに気配がないかを確かめながら、衣服に付いた土を落とす。
そして、ゲオルグが指を三本立て、皆に示した。
崖に上がる前に決められていた作戦を示すサイン。
『ここからは三手に分かれる』
デハイムはロウワーと合流して、表からの脱出経路を確保。
ガザンテはここで待機し、夜が明けるまで修道院を窺いながら、騒動の気配があろうとなかろうと、そのまま崖下に下りフィンレーに状況を報告する。
パトリックとゲオルグ、そしてウルガーは、院長室へ…。
デハイムはうなずき、すぐに木立の暗闇の向こうに見えなくなった。
ガザンテは、手近な木を見上げると、あっという間にするすると登り自分の身を隠す。
ゲオルグがパトリックに振り向く。
パトリックは緊張した面持ちでうなずいた。
前と後ろ、ゲオルグとウルガーに挟まれ、木立の中をデハイムとは反対側に進む。
(ゲオルグ殿は敷地内の配置が頭に入っているのだろう)
道だか木立の切れ間なのか、パトリックには判然としない場所を、しかしゲオルグは揺ぎ無い様子で、一度の逡巡も見せずに歩いて行く。
そして、突然歩みを止めてパトリックの動きを手で制止した。はっと息を止めると、少し離れた木から、鳥が飛び立つ音が聞こえる。
飛び立つ前の鳥の気配も察することが出来るのかと、パトリックは素直に驚嘆した。
修練を続ければ、いつか自分もその域に達することが出来るのだろうか。
それとも、神力を持つ者が、修練すれば誰でも『時戻しの術』を執行できるわけではないのと同じで、パトリックでは無理なのかもしれないが…。
木立が続く。修道院の建物から、『祈りの塔』はかなり隔絶された場所だと分かる。
しかしとうとう、木立の切れ間が見えた。そして、薄暗がりにぼんやりと浮かび上がる、見慣れた国教会の建物様式を忠実に踏襲した、修道院の建物も。
「参りましょう」
ここで初めて、ゲオルグが言葉を発した。
しかしパトリックは返事を控える。その代わり、深くうなずいた。
この日が来たのだと思えば、体の内から震えが出る。
教皇の、決して犯してはならなかった悪事を暴く日。
院長室に不自然に匿われているラーラを抑えれば、隣国側とのつながりを、女司祭は言い逃れ出来ない。
そしてその女司祭から教皇まで、パトリックならばつながりを暴露できるだろう。
木立から建物の敷地に入り、ゲオルグは迷うことなくこじんまりとした建物の鍵を壊した。
そしてその中へパトリックとロウワーを手招きする。
そこには、パトリックにとって見慣れた、墨黒の修道服が何枚も吊り下げられていた。
修道服だけではなく、シャツやトラウザーズも。
部屋の隅は、大きな鉄の釜と湯を沸かすための石窯。
(洗濯室か?)
神学校でも、洗濯室はある。王立学院と違い、神学校では自分の衣服は基本自分で洗う。その時の洗濯室と、ここは瓜二つだ。
ゲオルグが、その中の一枚をパトリックに渡して来た。
修道女のワンピースと、頭にかぶるコルネット。
女物の衣服に、一瞬ぎょっとしたが、しかしこれを着ることができるのは、この三人のなかで自分だけだろう。ゲオルグもウルガーも、ローブすらが、今にもはち切れんばかりに窮屈そうだ。
パトリックはジャケットを脱いでワンピースに袖を通す。多少きついが、きっとこれを着ている修道女は大柄なのだろう。そう思った途端、ローザリンデのすらりとした長身が脳裏に浮かぶ。こんな時に、幼馴染を思い浮かべる自分にそっと自嘲して、パトリックはコルネットに銀の髪をおさめた。
「院長室には、窓からお邪魔しましょう」
ゲオルグが告げる。
さあ、行こう。パトリックは自分を叱咤した。
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