歪な関係 1
やはり長椅子で寝るべきではなかった。
嫌な夢。
ローザリンデは、レオンの泣き声に、きしむ体を起こした。
辺りは暗く、まだ真夜中。
夜のレオンの世話はケイティと交代でしていたが、ここで毎日寝起きをするなら、これからはあの子を夜しっかり眠らせてあげられるなと、ふと思う。
チェストの上には、ポットと哺乳瓶、そしてリネン類が置かれている。
思った通り、そそっかしいが気の回るケイティが用意してくれたのだろう。
急いで手持ちの燭台に、常夜灯のランプから火を取ると、ローザリンデはレオンを寝台から抱き上げた。
「はいはい、お腹が空いたのね」
手早くレオンの汚れをすっきりさせ、ミルクを作ってその温度を自分の手首で確認すると、お腹が空いたと泣いて主張する愛らしい弟を左腕に抱き、哺乳瓶をくわえさせる。
勢いよく吸い始めたレオンをじっと見つめると、まるでこちらを見つめ返すかのように、幼い弟が瞬きもせずに視線をこちらに寄越してきた。
自分と同じ、榛色の瞳。
レオンは前の時、自分がカスペラクス侯爵家に嫁ぐと同時に、父が領地に連れ帰った。
愛人と暮らす、家族に無関心な父の下で育つことに大いなる不安は覚えたが、結局レオンは至極真っ当に育ち、王立学院を卒業するとともに、学院で見つけたしっかり者の伯爵令嬢を妻にして、また領地に戻って行った。
社交シーズンなどで王都に用があるときは、当然この屋敷に滞在していたが、その頃は伯爵夫人とラーラは裏庭をつぶして新しく建てられた離れに移り住んでいた。だから、ほとんど顔を合わせることはないと、レオンが妻と自分を訪ねてくれた時に話していたのを思い出す。
今回、ローザリンデはあと数か月のうちに、あわただしく結婚する予定はない。
何なら、ラーラが無事にカスペラクス侯爵家に嫁いだ後、レオンと一緒に、ローザリンデも領地に帰っても良いのではないかと思いつき、しかしすぐにそれを打ち消した。
(レオンは、面倒を見る人間がいなくなって、しかも伯爵家の正当な後継者だからお父様は領地に連れ帰ったのよ…。わたしなんて、良い家門からの縁談があって初めて、お父様の視界に入るんだわ…)
だからこそ、きのう執事はローザリンデにチャンスだと言ったのだろう。
ガッデンハイル公爵家の子息、パトリックと縁がつながる可能性が出て初めて、自分に値打ちが出たのだ。
どれほど学院で努力し優秀だと言われようと、義母が画策し、父がサインをしてしまえば、あっけなく学院での学びの道は閉ざされた。
なのに、パトリックがローザリンデのために、それらしく振舞っただけで、もしかすると父の関心を得られるかもしれないなんて。
カスペラクス侯爵の子息から求婚されたラーラの値打ちが、急に上がったのと同じだ。
ローザリンデは、さっきまでの寝苦しい眠りの中で垣間見た、かつての夫、ゲオルグとの初めての出会いの日の夢を心の中で反芻する。
途端に、胸がギュッと引き絞られるように痛み、その覚えのある感覚に戸惑う。
(体は、十七歳ということね…)
確かに。あの時の自分は、まだ十七歳の若い娘らしく、素敵な男性に愛し愛されることに夢を見ていたのだろう。頭では、己の境遇を自覚し、現実は違うと分かっていたはずなのに。
(ゲオルグ様に、一目で恋に落ちてしまった…。いえ、ただ単に、その直前に見た刺激的な場面に、目がくらんでしまっただけだったのかもしれないけれど…)
あの時、ラーラとゲオルグは、正当な婚約者同士として、確かに愛を育んでいたと、ローザリンデは苦しみながら述懐する。
それは、裏庭で目にしてしまった口づけが物語っている事実だった。
なのに、その真実の愛を、ゲオルグのローザリンデへの同情心に乗じて、自分はぶち壊してしまったのだ…。
あの数日後、伯爵夫人に言われるまま、ゲオルグとラーラの懇親の場に同席し、ライテ経済論の本を振りかざし、こんなことも分からないのかとラーラを罵倒する義姉を演じさせられた。
こんな茶番が騎士であるゲオルグに通じるとは思えなかったが、伯爵夫人とラーラは満足気にうなずいた。
きっとあれで、ゲオルグはローザリンデの置かれた立場を正しく理解したのかもしれない。
それから二度、ラーラのシャペロンであるパトロラネ夫人の手引きで、ゲオルグとパトロラネ家で引き合わされた。あれは事情聴取だったのか。
彼の表情から自分が憐れまれているのがよく分かり、ローザリンデは我が身を恥じた。
そして、あの日、事件は起きたのだ。
茶番劇以来、ラーラに会いに来なかったゲオルグが伯爵家に来ると言うことで、ローザリンデは今度は鍵のかかる部屋に閉じ込められた。
そして、半刻ほどが過ぎた頃だろうか。
いきなり部屋の鍵がパトロラネ夫人によって開けられ、早口で「カスペラクス侯爵のご令息を、女性として受け入れられますか?」と、聞かれたのだ。
一瞬何を言われているのか分からなかったが、ゲオルグに恋しているローザリンデは思わずうなずいた。
それからは、あっという間だった。
パトロラネ夫人に連れられて行ったエントランスには、侯爵家の紋がついた馬車が寄せられ、押し込められたその中には、苦しそうに目を伏せうずくまるゲオルグが。
「ご令息!」
驚いたローザリンデが顔を覗き込もうとすると、ゲオルグは彼女の顔を見てほっと一息だけ吐くと、大声で「ホルツの家へ!」と御者に指示を出す。
馬車は、その中の二人が衝撃でもみくちゃになるのもいとわない速度で走った。
着いたところは、どこだかわからない閑散とした場所。
そして、そこにぽつんと立つ農夫の家のようなところに、ゲオルグはローザリンデを抱きかかえて連れ込むと、そこで性急に彼女を抱いた。
嵐のような数時間が経ち、ゲオルグは彼女に、「必ず迎えに行くから待っていて欲しい」とだけ言って、パトロラネ夫人と入れ替わりに帰って行った。
パトロラネ夫人は、ひどい有様のローザリンデを見て、「ご令息を信じて、待ちましょうと」と身支度を手伝ってくれた。そして、「偽善であっても、善は善」という夫人の呟きに、今ゲオルグから与えられた情けが、愛や恋と言った情ではなく、憐憫の情であることを思い知らされた。
伯爵家に帰ると、なぜかすべてが知られており、鬼のような形相の伯爵夫人と泣きじゃくるラーラに、自分の婚約者に懸想して身の程知らずだと罵られ、新しく鍵が取り付けられた、半地下の自分の部屋に閉じ込められた。
そして、その翌月、そのただ一度の情交で、ゲオルグの子を宿したことを知る。
ローザリンデは動揺した。
ずっと鍵のかかる部屋に閉じ込められ、ゲオルグはおろか、パトロラネ夫人とも会えない。
伯爵夫人からは、一時の情欲で愛するラーラを傷つけまいと、咄嗟に物欲しそうな女に手を出してしまったが本意ではないと、謝罪の手紙がゲオルグから来たと聞かされた。
ラーラからは、今日もお詫びの花束とチョコレートが贈られてきたと毎日のように見せびらかされた。そうかと思えば、突然激高して、ローザリンデにそれらを投げつけることもあった。
金細工の鏡が割られたのも、その時だった。
ゲオルグから、「待っていて欲しい」とは言われたが、それ以外の言葉は何ももらっていない。
本能の赴くままに抱かれた記憶もローザリンデを苦しめた。
それに引き換え、あの裏庭で見た、ラーラが交わしていた美しい絵画のような口づけ。
しばらくして、やっとゲオルグがローザリンデの前に現れた。
半地下の部屋に閉じ込められ、やつれてしまったその姿に、ゲオルグがまたしても痛ましそうな表情を浮かべた。
やはり、憐れまれている…。
そんな相手からいきなり婚姻の話をされても、ローザリンデは受け入れられなかった。
あの日の記憶から、ゲオルグに対して恐れも感じている。
伯爵夫人からは、ラーラの幸せを邪魔するならば、義姉が義妹の婚約者の子を妊娠していると言うシャンダウス家の醜聞を、包み隠さず新聞社に話すことになると脅されてもいた。
しかもゲオルグはこう言ったのだ。
「生まれてくる子のためにも、わたしたちは結婚しなければ」と。
ローザリンデは悟った。
ゲオルグは、責任を取らされたのだ。
カスペラクス家の血を引く子どものために、と。
そのせいで、愛するラーラとではなく、可哀想な自分と結婚する羽目になったのだと。
ローザリンデは覚悟を決めて言った。
ならば、カスペラクス侯爵家には自分が嫁ぎ、子を産みましょう。
しかし、あなたはどうかラーラと幸せになって下さい。
そうでなければ、わたしがあなたの妻になることはないでしょう、と
ローザリンデは頑として引かなかった。
カスペラクス侯爵家がすさまじい政治力で根回しした婚姻式が迫っていた。
ゲオルグは、それを受け入れた。
ラーラも名より実を取った。
そうして、歪な三人の関係が始まった。
メンテナンスを把握していなくて、昨日は投稿しそびれてしまいました。
登場人物たちにイラっとされるかもしれませんが、今後やり直して行く話ですので、すっきりするまでもう少しお付き合いください。
読んで下さり、ありがとうございます。