祈りの塔と女司祭 1
暦の上では春だというのに、そこは陽も射さず、じめじめとした場所と、カラカラに乾き過ぎた場所が混在して、どこにも快適な身の置き所などなかった。
扉もなく、ただ平らであるだけの石造りの部屋で、ひとりの女がただひたすら爪を弾いてぶつぶつ何かを独り言ちている。かすかに黄色味を帯びた白髪は手入れもされず、修道女らしくコルネットの中にまとめられることもなく、ただ無造作にその背に垂れていた。
やせ細り、かさついた肌はあちこち赤くただれ、その女の年齢をはるかに老いて見せている。
空のように青く見事な色合いの瞳も、落ちくぼんだ眼窩の中でぎょろりと動けば、ただ不気味さを漂わせた。
「食事だ」
ドアの下の隙間から、わずかなパンと戦場もかくやという固いだけの干し肉、濁った色の液体が詰められた瓶が差し入れられる。
女は声が掛けられるのと同時に、食事ではなくドアの隙間に飛びつき、はいつくばって声を上げた。
「ねえ!ここ開けてよ!開けてくれたら、わたしを抱かせてあげる!」
必死に懇願する中に、どこか媚を混ぜたような声音。
しかしその表情が見えたなら、女が目を血走らせ一心不乱に声を上げているのが分かっただろう。
だがその願いは、明らかにバカにするような男の声に遮られた。
「抱かせてあげる~?お前なんて、金もらってもいらねーよ。勃つもんも勃たねぇ」
そうしてゲラゲラという嘲笑の声が聞こえ、最後にガン!!と、鉄の扉が外から蹴られる。
「ここに入って、この扉を生きて出た女を俺は見たことねーよ。残念だったな」
そうして遠ざかる足音。
女は這いつくばったまま、隙間から外を覗き、しばらくしておもむろに手を伸ばすと、そのままの姿勢でパンを手に取る。そして、口に放り込んだ。
「…何度も可愛いって言いながら抱いたくせに…!!」
パンを食みながら、唾を飛ばして恨み言を吐く。
ここに入れられた直後。女はまだ簡単に考えていた。
この塔には、修道女はひとりもおらず、見えるのはただ人足のような男たちだけ。
ならば、その男たちに自分の身を褒美として与えれば、ここから逃げ出すのに手を貸す輩はすぐに見つけられるだろう…と。
最初の頃、まだ若い娘としての美しさを保っている内、男たちは誘えばすぐにこの扉を開けた。
だから情事の後、しなだれかかりながら『ここから連れ出して』と懇願すれば良いだけだと思っていた。
しかし、女の思惑は外れてしまった。
なぜなら、やつらは扉を開けても入って来るだけ。
そして、好きなだけ凌辱し、たまに余分の食べ物や飲み物を置いてはいっても、誰ひとりとして扉の外に女を連れ出してはくれなかったのだ。
まだ修道女として修練していた頃、若い肌は弾力を保ち、化粧が無くとも十分その美しさは人目を引いた。王都にいる頃、金と手間をふんだんにかけ磨き上げられていた容色は、修道院の厳しい戒律の下で、徐々にすり減ってはいたが、それでもまだ麗質を損なうほどではなかった。
そんなある日、女ばかりだと思っていた女子修道院に、実は警護のために多くの男たちがいることを知る。
そして、季節の変わり目には行商人が来ることも…。
女は常にここから逃げる手立てを考えていた。
しかし、自分ひとりの力で逃げ出そうとは、露ほども考えていなかった。
誰か男に自分の存在を知らしめ、頼みさえすれば、逃げる手助けをしてくれるはずだと思っていた。
もうすぐ厳しい冬が来るという晩秋、いつものようにこっそりと修道院の裏手が見える覗き穴から外を見て、女の目が輝いた。
そこには、冬仕度のための商品を売りに来たと思われる行商人がいた。
しかもその商人は、とても平民とは思えない、見惚れるようなしなやかな身体つきと、優雅な見た目をしていた。
淡い金色の髪に、さらに『あの方』とそっくりな翡翠色の瞳を持っている。
あと十年も経てば、『あの方』もこんな風になるのかしら…。
決して修道女が直接触れ合わぬよう、外部の人間が出入りできるのは外壁と内壁の間まで。
内壁の隙間の覗き穴から垣間見たその男に、女の目は釘付けになった。
そして、まるでこちらが見えているかのように、その男がにっこりとほほ笑む顔にも。
その夜、降り始めた雪に足止めをくらった人間が、修道院に泊まることになったと聞き、居ても立っても居られなくなった。
あの商人に違いなかった。運命だと思えた。きっとあの男と逃げなさいと神が導いたのだと。
だから女は、修道院の消灯後、どうにかして男の姿が見えないかと、昼間垣間見た内壁の覗き穴まで足を運んだのだ。そしてそこには、思った通り、男がいた。
女は誘われるまま内壁を越え、王都にいた頃なら信じられないような粗末な藁を積んだ寝床で、母から禁じられていた『スカートの中』に、初めて男を招き入れた。
男は優しかった。女を間違いなく『正統なる貴族令嬢』として丁重に扱ってくれた。
そして、情事の後の寝物語に、女が語る身の上話に耳を傾けてくれた。
自分が伯爵令嬢であることや、王都の歴史ある屋敷の内部や家族のこと。加えて、昔婚約していた男の屋敷が、中が伺い知れないほど背の高い壁に囲まれた大きな建物であったことや、大門から大広間までが、どれほど遠く様々な部屋があるのかも。最後に、そのあと恋に落ちてしまった真実の恋人との馴れ初めや、引き裂かれここに来ることになった経緯…。
男はうなずきながら、様々な話を聞いてくれた。
そして空が白み始めた頃、男が泊まっていた小屋に、大きな箱が置かれていることに、女は気付く。
商品を入れて来た箱だという。
だから女は願った。その箱に自分を入れ、ここから連れ出してくれと。
王都まで連れて行ってくれれば、きっと優しい恋人が謝礼を払ってくれるから、と。
男はすぐに承知してくれた。
道中は辛いかもしれないからと、酔い止めの薬までくれた。
女は喜んでその薬を飲み、箱の中に潜んだ。
…しかし、その箱が、修道院から運び出されることはなかった。
長くなりそうなので、ここで切って投稿します。
読んで下さり、ありがとうございます。




