ケイティとヘンドリック
ローザリンデの数少ない荷物は、彼女がレオンの世話をして、寝かしつけるためにとんとんと背をあやし始めたころ、迅速に運び込まれてきた。
普段はそういった裏方仕事はしない下僕の一人、ヘンドリックが自ら運び込んでくれた、たった二つの旅行鞄。
そこには、あの祖母からもらった鏡も、ちゃんと載せられている。
「鏡を忘れずに持って来てくれたのね。ありがとう。よく私物と分かったわね」
ローザリンデがレオンを抱っこしたままねぎらうと、ヘンドリックは首を横に振り、軽く腰を折った。
「当然でございます。鏡の裏に、ローザリンデ様へと贈られた言葉が刻まれてございますから」
そうだ鏡の裏には、『愛しい孫、ローザリンデ』と彫られている。この鏡が他の伯爵家所有の宝石などと違い、未だにローザリンデの手元にあるのは、この鏡の裏の美しい花文字の刻印のお陰だ。
それがなければ、今頃この鏡はラーラの部屋の壁に掛けられていた。
ヘンドリックが、わずかに眉を下げた。
きっと、勤め始めてわずか数カ月でも、この家の様々な事情をくみ取り、的確に理解しているのだろう。
言葉にはせず、それでいて相手に対してきちんと感情を伝える術を持つこの使用人は、なかなかに有能そうだ。
「気が利くのね。また何かあればお願いしますね。ヘンドリック」
「かしこまりました」
最後にあえて名前で呼ぶと、ヘンドリックはわずかに表情を緩ませ、部屋を辞していった。
どうやら、この下僕の中で、褒められて嬉しい主は、ローザリンデになりつつあるのかもしれない。
それをそばで見ていたハウスメイドのケイティが、扉が閉まると同時に、ローザリンデに駆け寄ってきた。一緒にレオンの面倒をみるうちに、いつしか心を通わせ、最後、自分を守ろうとまでしてくれたのが、この三つ年上のハウスメイドだった。しかし同時に、そそっかしかったことを思い出す。
駆け寄る勢いに、思わずうとうとし始めたレオンを見て、唇に一本指をあてると、ケイティははっとして口を手の平で抑える。
そして、そーっと足音を忍ばせると、それでも小声で話しかけて来た。
「お嬢様、一体、何をしたんです?ヘンドリックさんは、下僕の中じゃ経歴がピカ一で、執事のラーゲンさんと一緒に侯爵家から引き抜かれてきたせいか、ラーゲンさんの命令しかきかないって言われてるのに」
そう。この家の上級使用人は、後継争いの後に当主が変わり、使用人を一新したかった東部の侯爵家から引き抜かれた者が多い。逆に、シャンダウス伯爵家からこの東部の侯爵家に行った者も数名いると聞いていた。
その中でも、ヘンドリックは相当プライドの高い下僕のようだ。
執事の言うことしかきかない、ということは、彼が主と認めていない、『奥様』の言うことも、『ラーラお嬢様』の言うことも、ましてや家政婦長の言うことなど、きくわけがないと言うことか。そんな見所のある下僕がこの家にいたなんてと、ローザリンデは前の記憶をたどる。
しかし途中でやめた。
伯爵夫人に対して何の行動も出来なかった前の時、そんな使用人がいたところで、彼女が気付くはずがなかった。
ケイティは、ローザリンデの返事を待たず、さらに続ける。
きっとさっきから話したくて仕方がなかったのだろう。ただ、それはレオンが泣き止み寝付いた後だと考える分別が彼女にはあった。
ケイティは、レオンがすやすやと寝息を立て始めたのを確認し、ドアの外にまで神経を尖らせるように一度しんと耳を澄ませたあと、さらに声を落として言い募った。
「それにしても、さっきお嬢様を呼びに行った時のあのエントランスの空気。びっくりしました。バーゼル夫人のお顔が、ゴブリンみたいになっていて、お声を掛けるのに相当勇気がいりました」
「ふふふ…」
ローザリンデはその言葉に笑いをこらえきれず、口をつぐんだまま笑った。
家政婦長をゴブリンだなんて…。いや、この娘なら言いそうだ。
笑った振動が伝わったのか、腕の中で身じろぎするレオンに視線を落とすと、可愛い弟はすやすやと寝入り始めている。
あの義母から産まれたのは分かっているのだが、父にそっくりのダークブラウンの髪に、ローザリンデとも同じ『シャンダウスのヘーゼル』と言われる赤味の強い榛色の瞳の異母弟は、可愛くてしようがない。
この弟の世話の何から何までもを命じられたことだけは、間違いなく義母に感謝しても良いことだ。
「でも、今晩から、またローザリンデ様がこのお部屋で寝起きされるとお聞きして安心いたしました。ただ、お部屋の内装はレオン様向けになっているかと思いますが…」
以前のこの部屋を知らないはずのケイティが、残念そうにつぶやく。
学院の寮に入るまで、この南向きの庭が見下ろせる部屋はローザリンデの部屋だった。
水色の小花が散る壁紙。寝台と机、鏡台には猫脚のマホガニーの家具が配置され、濃い生成り色に薄いピンクの縦じまが入ったカーテンが窓辺で揺れる。多少少女趣味ではあったが、木部の温かさを活かした品の良い部屋だった。
しかし、今は、次代の伯爵にふさわしいようにと義母が施した改装で、金をふんだんに貼った家具が多く配置されていた。壁紙にも金が施され、床には美しいヘリンボーン貼りの木部を覆い隠すように、外国で織られた高価なだけで奇抜な紋様の絨毯が敷かれていた。他にも、とりあえず伯爵家にある高価な美術品をこれでもかと飾り立てた部屋は、まるで悪趣味の見本のような出来栄えだ。
ラーラの婚約で王都に来た父が、初めて我が息子と対面するのにこの部屋を訪れた時、一瞬右の眉を上げたのを、ローザリンデは見逃さなかった。
しかし、伯爵がそれに何か意見することはなかった。
それをわざわざ口にするということは、すでに関心が無くなった女に、話しかけなければならないからだ。
ローザリンデは部屋をぐるりと見回した。
「レオン向けなのは気にしないわ。ただ、『子ども向け』ではないのは確かね。歩き出せば壊すかもしれないから、伯爵家の美術品の目録が半分になってしまわないよう、美術品の類はギャラリーの倉庫に戻しましょう」
ケイティはその通りだとうなずくと、レオンの空っぽの哺乳瓶や汚れた布たちを持って出て行った。
この頃なら、レオンは夜中に一度起きるだけで、それ以外はぐっすり眠るサイクルになっていたはず。
前の時は、結局生後半年ほどしか面倒を見てあげることが出来なかった弟。
(今度は、何歳まで見てあげられるかしら…)
レオンの赤ん坊用の寝台の横、仮眠用の長椅子の上にローザリンデはその身を横たえた。
きっと、ローザリンデが眠っていても、ケイティは次のミルクの用意をチェストの上に置いて行ってくれるだろう。
長すぎる一日を過ごし、ローザリンデは襲い来る眠気に勝てず、その瞳を閉じた。
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