パトリックは劇薬?
西日が照らす、オレンジ色のパトリックの横顔をちらりと見る。
前の彼は、経典や国教史の研究にばかり没頭し、季節の移り変わりさえ無頓着。夏になったというのに、ウールの神官服を着たまま汗を流しているような少年だった。
神への祈りと探求から切り離され、自由になったパトリックは、実はこんなに人物だったのか。
いや、元々優秀だったのだから、その能力が修練以外に使われれば当然のことなのかもしれない。
それでも、カフェでの様子は意味不明だ。
「カフェではどうしてあんなことを?」
ローザリンデはコンラッド・ストリートからそう遠くない屋敷までの道のりを考え、気になっていたことをすぐ口にした。
パトリックは意味深な表情で少し考えた後、しかし、無邪気な少年の顔で答えた。
「ぼくが妙齢の女性にカフェで言い寄っていたと噂になれば、もし本当に神学校をやめたくなった時に、ああそれでかって思ってもらえるでしょ?」
ローザリンデはその答えに目を見開く。
「ええ?!そんなことを考えていたの?」
すさまじい神力を持ち、あっという間に枢機卿にまで上り詰めたパトリックを、いつも大聖堂で行われる大ミサの時に遠くから見つめていた。彼にとって、それが最良の道だと思っていたけれど、本人にとっては違ったのか。
しかし、彼のような人材が、国教会からその身を退くとなれば、当然現在の教皇も枢機卿たちも、加えて王家も黙ってはいないだろう。
なのに、このパトリックは、そんな自分の未来を知らないせいか、ひどく軽く考えているような気がしてならない。
「そうさ。だから、このぼくがローザリンデに片想いしているようなお芝居、もう少し続けても良いかな?」
「片想いしているようなお芝居って…」
「片想いなら、やっぱり神官になろうって思った時でも、ぎりぎり問題ないと思うからさ」
何を言っているのだろうか、この幼馴染は。
単なる思春期の揺らぎと考えるには、彼の前の時を知っているせいか、不安でしようがない。
しかしそんなローザリンデの心配もお構いなく、パトリックは言葉を続ける。
「それに、ガッデンハイル公爵家の子息の想い人だって噂は、リンディの評判を悪くすることはないと思うんだよね。さらに、それで君の伯爵家での立場が良くなれば言うことなしだ」
ローザリンデは、ハッとした。もしかして、これが本来の目的ではないだろうか。
使用人同然の扱いをされているとは思い及ばないだろうが、彼女が義母や義妹のわがままに振り回され、伯爵令嬢として十分な予算を割り当てられていないことは一目瞭然。ローザリンデからの手紙で、愚痴を聞かされているパトリックが、何も思わなかったはずがない。
パトリックを見れば、彼の翡翠色の瞳は、ローザリンデへの慈愛に溢れている。
「そっちが本当の目的だったんでしょう…。もう、気を遣ってくれちゃってっ」
そこで、突然ローザリンデは言葉に詰まった。
気付いたのだ。
今日、朝からローザリンデと一緒に過ごしてくれたこと。
二人でサンドイッチを分け合ったこと。
本屋でふざけ合って、その後突然肩にふわりとショールをかけられたこと。
カフェで、二人向かい合って、おしゃべりしたこと。
そして、カフェでの突然の発言のこと。
その全部が、今日、パトリックがローザリンデを思ってしてくれたことだと。
ローザリンデは、抑えきれず湧き上がる感情に、思わず唇をきつく結んだ。
口を開けば、嗚咽が漏れそうだった。
うつむいてしまったローザリンデの背に、パトリックがそっと手を添える。
そこからじんわり広がる熱は、十七歳のローザリンデの心も、三十八歳のローザリンデの心も、どちらも温かく湿らせる。
「あなた本当に十三歳?」
やっと落ち着いたローザリンデが、上目遣いでパトリックを軽く睨みつける。
「どうかな。もうすぐ十四歳になるけどね」
あははと、楽しそうにパトリックが声を上げて笑った。
空気はヒヤリと初秋の風を運んだけれど、ショールのお陰でまったく寒さを感じなかった。
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ほどなくして、シャンダウス伯爵家に到着した。
パトリックの御者は、当たり前のように表門に回った。
「あの…。今日は門の前で降ろしてもらって良い?」
かつて、よく洗濯場の近くでおしゃべりをした門番なら、きっとローザリンデが表から帰ったとしても、それをわざわざバーゼル夫人に報告したりはしないだろう。
しかし、この公爵家の紋が入った馬車で車寄せまで乗り付ければ、必ず数名の使用人がお客様がいらしたかと飛んでくるはず。そして、それはすぐさま伯爵夫人に報告されるに違いない。
自分は今朝、この身に巻き戻ってきたところだ。
まだ、前の時と違う行動を、表立って、この主戦場である伯爵家の屋敷でする心の準備が出来ていない。
しかし、そんなローザリンデのお願いは聞き届けられなかった。パトリックはにこりと笑っただけで、それを黙殺した。
実母が亡くなってからは、ガッデンハイル公爵夫人ともパトリックとも、ほとんどずっと手紙だけで交流していた。顔を合わせたのは、神学校と王立学院の交流行事で何度かパトリックに会えただけ。
しかし、そんな交流が学院に入学してからも、そして今日までも続いていることを伯爵夫人は知らない。
最近一新された使用人たちにとっても、それは同じだろう。
まさか、屋敷までこの馬車で乗り付けることで、ガッデンハイル公爵家という存在を伯爵家に知らしめ、ローザリンデの立場を良くしようと考えているのだろうか。
劇薬になりはしないか…。
ローザリンデは不安を抱きながら、けれど、自分では出来ない大きな変化を、パトリックがもたらしてくれることで、きっと何かは変わると思う気持ちが湧き上がるのも、止められなかった。
馬車は、あっという間に車寄せに二人を運んだ。
すると、屋敷の中から下僕が二人、飛び出してきた。
黒塗りの二頭立てではない。小振りな馬車ではあるが、扉につけられた公爵家の紋は、それ以上に彼らを慌てさせたらしい。
しかも、当然のことだが、先触れもなしなのだから。
一目で、幌も張っていないその席に、かの有名な銀色の髪の公爵家の子息と並んで座るローザリンデを目にした時の、下僕たちの驚いた顔。
ぷっとパトリックが噴き出す声が聞こえて、ローザリンデは肘で彼の脇腹をつついた。
その後から出て来た執事は、さすがに一瞬眉を上げただけで、それ以上表情を崩さず、
「おかえりなさいませ。ローザリンデお嬢様」
と、その場に一番ふさわしい言葉を口にした。
しかし、パトリックが馬車から降りるローザリンデをエスコートしようとひらりと降りた時、屋敷の中から大きな声が聞こえてきた。
「ローザリンデお嬢様が馬車で帰って来ただって?どういうことだい?!」
バーゼル夫人の声だった。
「今のは?」
間髪入れず、パトリックが大公爵家の子息の顔を持ち出し、不快感もあらわに執事に問いかける。
下僕の一人が慌てて中に入る。恐らくバーゼル夫人を黙らせるためだ。
執事はしどろもどろになりながらも、何とか返答した。
「きっと、お帰りが遅かったので、心配のあまりあのような物言いに…」
パトリックは鼻先で笑うと、
「では、ご令嬢を遅くまで連れまわしてしまったお詫びを、伯爵夫人にさせていただこう。一度もご挨拶したことがなかったしね」
と言って、さっさと屋敷の中に歩いて行ってしまった。
慌てて後を追おうとするローザリンデに、執事が手を差し伸べながら小声で話しかける。
「これは大きなチャンスです。ガッデンハイル公爵家とつながりがあると知れば、伯爵様が必ずローザリンデ様に関心をお持ちになるはずです」
このめちゃくちゃな屋敷で、唯一まともな主家の人間であるローザリンデの苦境を、苦々しい思いで見ていた執事は、常にこの状況を何とか出来ないかと機会を窺っていた。
ガッデンハイル公爵家とのつながりを利用して、お父様を動かす?
ローザリンデは執事の思わぬ申し出に、目を見開いた。
確かに。カスペラクス侯爵家からの求婚の便りに、あんなに迅速に動いた伯爵が、さらに格上のガッデンハイル公爵家に関心を示さないはずがない。
内実の暴露につながる公爵夫人の介入は、何が何でも避けたい。
しかし、伯爵自身が動くのであれば、ローザリンデの危惧するような事態にはならず、かつ状況を改善できるかもしれない。
前の時しでかした、愚かな行動を避けることばかりを考え、その他のやり方を考えるまでに及んでいなかった自分が情けなく感じたが、これは確かに大きなチャンス。
もしや、パトリックはそこまで考えて、今日のこの行動をおこしているのだろうか。
久しぶりに屋敷の大きなエントランスの扉をくぐる。
そこには、バーゼル夫人だけではなく、ラーラまでいた。
そして、今から夜会に出かけようというのか、ごてごてと伯爵家所蔵の宝石で肌を飾り立てた伯爵夫人が、ガッデンハイル公爵家の子息、パトリックと対峙していた。
年齢のこと、お知らせいただきありがとうございます。
この章で反映させていただきました。感謝です。
読んで下さり、ありがとうございます。