パトリック、東の棟にひとり
ガッデンハイル公爵家の東の棟。
『妻の衣装室』に一人、パトリックはぼんやりと座っていた。
大きなクローゼットの扉が開け放たれ、そこから十四歳の誕生日祝いに、ローザリンデが身に着けた翡翠色のドレスが見える。
あれからまだ一日しか経っていないということに、己の感覚がついて行かない。
時間が急激に進んだような、じっと、止まってしまったような。
それは、巻き戻ってまで幸せにしたいと思った、大切な人の手を放し、他人に委ねざるを得なかったことに、心が千々に乱れてしまったからか。
「あの場で、あれ以外どう出来たというのだ…」
ぼんやりと手に持っていたハンカチが、力を失った指からはらりと床に落ちる。
ローザリンデが刺しかけたハンカチ。そこには、自分のイニシャルの頭文字をアザミの花が取り囲んだ図案が三分の二ほど完成されていた。
昨日、シャンダウス家へ送る途中、再び『隠された静寂の部屋』に寄り、パトリックは自分が抱えている問題を、洗いざらいローザリンデに告げるつもりだった。
そして、その上で彼女に話すつもりだったのだ。
自分が彼女をしあわせにすると。
けれど、その機会は二度と訪れないだろう。
他ならぬ自分自身が、そうした。
成人すらしていない自分は、幼馴染を守る盾になりえない。
今この時、これが起こったことが、今度の生での運命だというのだろうか。
すべては、あの愚かな色狂いの妹が、あんな暴挙に出たせいだった。
ローザリンデは知るべくもないだろうが、あれは少女の皮を被った色欲の虜だ。
司祭であった頃、若い神官を堕落させようと、様々な階層の女たちが近づいてきた。
そういう女は、自分にとって、己の肉欲に忠実に動くという点において、娼婦など問題にならないほど忌避する存在。
あれはそれと同じ目をして迫って来た。
顔を合わせるたびに、自分を見る目の色がおかしくなっているとは思っていたが、それでもまさか、媚薬を盛って既成事実を作られそうになるとは思っていなかった。
(幼い頃から、理性を飛ばし快楽を得るクスリの煙を微量でも頻繁に吸うと、長じて理性が溶け本能がむき出しになると聞いたことがある。それだろうか…)
けれど、十五歳になったばかりの少女の本能が、色事とは…。
前の時は、ローザリンデの婚姻式で、ちらりと見ただけの伯爵夫人とラーラからは、伺い知れなかった部分だった。
しかし、その娘のせいで、せっかく巻き戻って来たこの時間、もう少しのところで、ローザリンデはまたあの男のもとへ嫁がされそうになったのだ。
けれど、パトリックが思っていたのと違うこともある。
まず、あの男とラーラの間に、前にローザリンデが思い悩んでいたような、引き裂かれた愛の感情など存在しないということ。どころか、昨日見たゲオルグは、どれだけローザリンデに熱い視線を注いでいたことか。
騎士然として彼女の斜め後ろに立ち、その背を見守る様子は、庇護とともに所有の証を表明しているかのようで胸糞悪かった。
そのことからも、あのままローザリンデがカスペラクス家に嫁いだとして、前の時のような不幸が幼馴染を襲うとは予想できない。
そして、あの男が、ローザリンデのために、その身を『時戻しの術』の生贄に、いとも簡単に差し出したことを、パトリックだけが知っていた。
認めたくはないが、ゲオルグがローザリンデとの巻き戻りに己の命をかけたことは動かしがたい事実。
(あの男が、リンディのことを深く愛していたことは、『時戻し』の話を持ち掛けた時の迷いのない瞳で明白だ…。しかし、心はどうであっても、結局は自分の妻一人しあわせに出来なかった。あの男とフィンレー殿。どちらかを選べと言われれば、迷わずフィンレー殿だ)
前の時、幼馴染の人生に、学院卒業後まったく登場しなかったフィンレーだが、前も今も、彼がローザリンデを心から欲していることはひしひしと伝わってくる。
『チュラコス家の呪い』
それは『呪い』と『祝福』の両面を持っていた。
愛するただ一人の人間と、結ばれなければ地獄だが、努力の末に結ばれれば、終生互いだけを見つめ愛し合うという。
(初代チュラコス公爵と心では愛し合いながら、この国のために利用された魔女がかけた呪い…。らしいとしか言いようがない)
前の時、チュラコス公爵であるフィンレーが、四十になるまで妻を娶らなかったことは、パトリックでも知っている、社交界の七不思議のひとつだった。
しかし今ならその理由が分かる。
(王弟派の陰の黒幕となり、フィンレー殿は真剣にカスペラクス家を潰そうとしていた。もしかすると、具体的にゲオルグの命を狙うよう仕向けていたかもしれない。そして、寡婦となったリンディを、妻として迎える予定だったのだ…)
四十まで待ったのだから、その執念は相当だ。
家門では、『呪い』を楯に周りを黙らせることが出来たかもしれないが、他の貴族たちはそうはいかない。
社交界から足が遠のいたのは、そのせいもあったのだろう。
(けれど、ゲオルグがワッツイア城塞を奪還し、王弟派はミュクイット辺境伯の捕縛後急速に力を失った。年明けにはフィンレー殿も出席する目の前で、英雄と呼ばれるようになったゲオルグはアッザン辺境伯を叙爵され、チュラコス公は、ローザリンデをとうとう諦めた…)
その後、随分年の離れたマーシャシンク侯爵の令嬢を娶り、広大な公爵領に引っ込んで以降、前の時のフィンレーがどのように過ごしたかは知る由もない。
しかし、もし、ローザリンデの葬儀の場にフィンレーがいて、己の命を代償に、若くして亡くなってしまったこの女性の人生を巻き戻せるとささやけば、間違いなく喜んでパトリックの刃の下に、その身を捧げただろうことが想像に難くない。
(加えて、リンディを得たことで、チュラコス公爵であるフィンレー殿は、これまでの王権内での力関係を変えることなく、維持し続けるはず。王弟派の急拡大は、これで阻止された…)
…と、頭では理解しているのに…。
パトリックが、苦悩の表情を浮かべ、頭を抱える。
(己の感情を優先して、もう少しで、リンディの本当のしあわせを潰してしまうところだった…。前の時も、今回も、ぼくではダメなのに…)
フィンレーとの間で、また多くの子に恵まれるだろう。
今度は、彼女を溺愛する夫が、きっとずっとそばで幼馴染を慈しみ、自分は再び枢機卿として、彼らの安寧を祈る日々を送るのだ。
抱えた頭の下の床に、ぽつりと、涙が落ちた。
十四歳のパトリックが、ただ悲しくて、堪えられずに泣いていた。
あっぶな!12:00に書きあがりました。
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