カフェにて
王都最大の本屋は、記憶の中のつい数か月前、三十八歳のローザリンデがケインとハイディを連れて行った時よりも、真新しい壁が目に眩しいほど白く輝いている。
この本屋は、書籍だけでなく、知育玩具や地図、最新の筆記用具や様々な美しい紙も扱っていて、見ているだけで楽しいところ。
ただ、子供向けの本の売り場は、ローザリンデの記憶の場所とは違っていた。
「案内なら任せてと言っていたのに、連れて行かれた場所には、子供向けの本ではなく最新のロマンス小説がうずたかく積まれていたな」
目の前でパトリックが、くすくすと楽しそうに笑う。
ルードルフの子供の頃から、子供向けの本の売り場は変わっていなかったから、てっきりその前もそうだと思っていたのに、どうやら違ったらしい。
「もしかして、ローザリンデは本当はロマンス小説が欲しかったのかな?」
いつまでもニヤニヤと笑うパトリックを、無視してツンと横を向けば、今度は慌てた声を上げる。
「リンディ?ああ、もう怒らないでよ、可愛いローザリンデ」
その甘ったるい声と言葉に、ローザリンデはぎょっとしてパトリックを見た。
幼馴染は、頬杖をついてローザリンデをうっとり見つめ返す。しかし、その瞳だけは確信犯の笑み。
しかも、そんなパトリックに驚き視線を向けるのは、ローザリンデだけではなかった。
周囲に座り、こちらをちらちらと盗み見ていた人々が、一斉に意識を集中させた気配がする。
よく見れば、その身なりから、貴族と思しき人間も多い。
ここは、ローザリンデが頭に描いていた、コンラッド・ストリートのカフェ。
本屋で教えてもらった評判のカフェだと、パトリックが連れて来てくれたのが、まさにここだったのだ。
そして、そのカフェの人目に付く席に座ったパトリックとローザリンデは、食べかけのケーキとお茶を間に挟んで向かい合って座っていた。
ローザリンデの肩には、愛らしい小花の模様が浮き出るレースのショール。
パトリックがいつの間にか本屋の横の洋品店で買っていたのもので、カフェへの道すがら、ローザリンデの肩にふわりとかけてくれたのだ。
「寒そうだなと思って。これは一足早いどころか三足ほど早いクリスマスプレゼントだから、遠慮せずもらって」
とても十三歳とは思えない心遣いに、ローザリンデは驚いた。
しかし、このストールを肩にかけていなければ、古ぼけたデイドレスで貴族の客も多いこのカフェに入るのは、きっと躊躇しただろう。そう考えれば、さらにパトリックの用意周到さに舌を巻く。
もしや、公爵家へ行かないといった辻馬車での自分の様子に、何かを感じたのだろうか。
けれど、ローザリンデは四の五の言わずに有難くこれをいただくことにした。
ショールはもう買われてしまった後。それなら、せっかくのパトリックの心遣いを、無にしたくなかった。
だとしてもだ。
この、まるで目の前の彼女に夢中、とでもいうような演技を突然し始めた幼馴染が何を考えているのか、ローザリンデにはさっぱりわからない。
この珍しい銀の髪だけでも、彼がガッデンハイル公爵家の例の子息だと気付く人間は多いだろう。
中には、神力がなくなり、神学校を首になったなどと言う噂を真に受けている者もいるかもしれない。
そんな時に、曲がりなりにも社交界にデビューして、公には求婚者募集中の令嬢を連れてカフェに来て、こんな誤解されるような物言いをすれば、それこそ彼の評判に傷をつけてしまうのではないか。
「パトリック、なんでそんなことを突然言い出すの?」
幼馴染の悪ふざけにしても、二人の関係を知らない人が見れば誤解しかねない。
ローザリンデは困って、小声でパトリックを咎めた。
しかし、パトリックはそれを逆手にとって、
「リンディ、もっと大きな声で、パトゥーって呼んでよ」
と、甘えたように言ってくる。
パトゥーは、唯一公爵夫人だけが、幼いころ彼を呼んでいた呼び方。
確か、自分でその呼び方は嫌だと、母親に言っていなかっただろうか。
ローザリンデは、この幼馴染の悪ふざけに、どう対処すべきか考えた。
無視して普通に接するべきだ。
耳目もある。
とりあえず、ローザリンデは二人が恋仲だと思われることはまずいと判断した。
ただの神官ならまだしも、いずれ教皇になる人間なら、将来付け入られる隙になってしまうかもしれない。
「いやよ。わたしたち、まだそんな仲でもありませんのに」
ぷいとさらにそっぽを向くと、パトリックがおやと言うふうに眉を上げ、にやりと笑った。
「じゃあ、急いでそんな仲になりたいなら、伯爵に手紙を送らなくちゃね。カスペラクス侯爵家の子息がしたみたいに」
ざわりと、周囲がその言葉に反応するのが肌で分かった。
しまった、とローザリンデは後悔する。
今のパトリックの発言は、明らかにやり過ぎだ。
これでは、二人は婚約も視野に入れた関係だと思われてしまうかもしれない。
仕方なく、ローザリンデははっきり言い返した。
「冗談はそこまでになさいませ。わたしたちは、ただの幼馴染でしょう?」
まるで周りの人々に言い訳しているかのようだ。
このカフェに来てから、パトリックがおかしい。
ローザリンデは戸惑って、目の前の、テーブルの花瓶のバラよりも美しい顔をじっと見た。
それは、勝手な思い込みで二人を見る人々には、見つめあっているようにしか見えないとは思い至らずに。
パトリックは、ふっと笑う。
そして、目だけで周囲を確認すると、「あ・わ・せ・て」と、口の動きだけで伝えて来た。
何のために?
ローザリンデは混乱した。
なんの導きか、死んだはずなのに、なぜか時間が巻き戻ってここにいる自分は、これから前とは違う行動をして、未来を変えようとしている。
だから、前の時と、まったく違う動きをしているパトリックの存在は、自分にとって違う未来があるという希望の証だと思っていた。
さらに、変えようとしている未来と、直接関係のないパトリックに、特に何の危惧も抱いていなかった。
でも、本当にそうだろうか。
生まれながらに、すさまじい神力を持っていると言われたパトリックが、本当に自分がこれからしようとしていることに、関係がないと言えるのだろうか。
(だって、実際こうして、もっともわたしの人生を変えてしまったこれからの数カ月に、前と全然違うパトリックが現れて、わたしとの関りが増えようとしている。その上、わざわざカフェで誤解されるようなことを言い出して…)
ローザリンデの瞳が、不安で揺らぐ。
突然パトリックが立ちあがった。
仕方ないと言うふうに、少し眉を下げて。
「帰ろう、リンディ。シャンダウス家の屋敷まで送るよ」
気が付けば、もう空が夕焼けで赤くなっている。
ゲオルグはとっくに屋敷を去っているはずだ。
ローザリンデは戸惑った気持ちのまま、差し出されたパトリックの手に、その指を差し出した。
しかし、公園では気にならなかった、ひび割れた指先が突如気になって、それが実際に手の平に乗せられることは、なかった。
カフェの外には、いつの間にかパトリック専用の、一頭立ての二輪馬車がまた控えていて、いつもの御者がにこやかに出迎えてくれる。
「一体いつ連絡したの?」
「カフェに入った時に、支配人に頼んでいたのさ」
本当に、今度のパトリックは如才ない。
読んで下さり、ありがとうございます。