公爵家の夜 2
しかし、その唇から音が発せられることはなかった。
なぜなら、その前に、空気を震わせただけのようなひそめられた声が聞こえたからだ。
「…リンディ…」
その頼りなげな声に、ローザリンデは思わず扉に当てた手を、がさりと動かしてしまう。
その音は、シンと鎮まり返った部屋で、存外に大きく響いた。
もちろん、扉の向こうにいる人物にも。
「リンディ?そこにいるの?」
待ち望んでいたのか。すぐさま、少しかすれたパトリックの声が聞こえる。
少年から青年になる途上の、不安定な声変わり中のざらりとした声が。
それは、この時間の冷たい空気に似つかわしい響きに聞こえた。
「…ええ、扉を叩いたでしょう?」
自然にローザリンデの声も小さくささやくようになる。
「うん…。もし起きていたら、少し話がしたいなと思って…」
そう言われて、思わず笑みが漏れた。
すぐさま、扉のノブに手をかけて、しかし、強く握ったところで、鋭い声が聞こえてくる。
「開けないで!」
瞬間、思わずノブから手を放した。
「開けないで…。リンディが躊躇なくこちらに来ようとしたことの方が、何となく凹むよ」
情けない声。
そう言うパトリックの、眉を下げた表情まで浮かんでくる。
そうしていたら、扉の向こうで、どさり床に何かが落ちる気配がした。
同時に、木がきしむ音も。
それで、パトリックがその場に座り、扉にもたれたのだと分かった。
「パトリック、扉の前で座っているの?」
「うん…」
その返事で、ローザリンデもその場で床に腰を下ろす。
そして、その背を扉に預けた。
扉越しに、きっと背中でもたれ合っているのだと思えば、どこか面映ゆい。
「わたしも扉にもたれて座ったわ。声が聞こえる?」
「良く聞こえるよ。廊下側の扉は防音仕様になっているけれど、部屋を仕切るこの扉は、ただの木の板のようだね」
秋が深まる夜。室内とは言え、冷えた扉に預けた背中がふるりと震え、ローザリンデは薄い豪奢なレースで覆われた腕で自らの身を抱いた。
数歩歩けば、そこに暖かそうなガウンが見える。
しかし、なぜか、それを取りにこの場を離れる気にはなれなかった。
パトリックは、温かくしているのだろうか?
幌馬車で、いつも自分の手を包んでくれる、彼の高い体温が思い出される。
扉の向こうで、身じろぎする気配。
そして、声が聞こえて来た。
「リンディ、一つ、聞いても良い?」
真剣な、けれど、ひどく遠慮がちなパトリックの声。
「いいわよ。一つじゃなくて、いくつでも」
その返事に、幼馴染がかすかに笑った気がする。
けれど、そう言ったくせに、パトリックはなかなかその一つを聞いて来ない。
もう一度ふるりと震えた時、ようやくそれが発せられた。
「…リンディは、今度はゲオルグ殿と結婚するつもりはないんだよね」
まさかそんなことを聞かれると思っていなかったローザリンデは、思わず返事に詰まってしまう。
しかし、パトリックは何も言わず、ローザリンデの答えを急かしたりはしなかった。
だから、たっぷりと時間を置いて、重い口を開く。
「ええ…。ここに巻き戻って来たと分かった時、一番に思ったのは、前の間違った結婚を正すことだったから」
「じゃあ…」
パトリックがすぐに何かを尋ねかける。
なのに、そこから先が、なかなか出てこない。
言いにくいことを口にしようとしているのだろうか。
そう思った時、また声が聞こえた。
「じゃあ…、フィンレー殿と結婚するのかな…」
消え入りそうな声。
ローザリンデは、思わず後ろを振り向く。
そこには扉しかないけれど。
「パトリック?」
呼びかけるのに、パトリックの口は止まらない。
「フィンレー殿と結婚して、きっと降るほどの愛に包まれて、そのうち子宝にも恵まれるんだろう…」
扉の向こうから、勝手に描かれる未来に、ローザリンデは思わず扉をダンと叩いた。
「待って…。待ってパトリック。わたしがフィンレー様と結婚するって、どうして決めつけるの?」
まるで呼応するように、扉の向こう側でも、ドン、と叩く音が響く。
「ぼくでは、リンディを、本当の意味で幸せな『ガッデンハイル公爵夫人』にしてあげられないからだ…!」
初めてパトリック自身から発せられた、自分との婚姻の可能性を示す言葉に、ローザリンデは動揺する。
しかしそれよりも、押し殺しているのに、絶叫のように聞こえた声に、思わず扉にすがった。
この扉の向こうで、パトリックは一体どんな顔でそんなことを言っているのか。
思わずノブを回す。
しかし、外開きの扉は、押し当てられた背中によって塞がれ、びくともしなかった。
ドン、と、今度はその背中が扉にぶち当たる音が聞こえ、「はあぁぁぁ…」と、泣いているようなため息が聞こえて来た。
一体パトリックはどうしてしまったのか。ローザリンデは気が気でない。
夜、廊下側の扉の前でおやすみのあいさつを交わした時は、いつもと変わらなかったのに。
しかし、扉はびくともしないまま、再び声が聞こえて来た。
「この巻き戻り、『時戻し』を執行したのはぼくだ!なのに、ぼくの本懐などなかったかのように、すべての流れは、この術のために宝璽を差し出した教皇の願いを叶えるべく動いている。国内を二分して、血で血を洗った国王派と王弟派の王権争いの歴史を正す方向へ正す方向へと、どうしたって動いてしまうんだ!」
語尾が震え、くぐもる。
突っ伏し、膝の間で頭を抱え、言葉を吐き出すパトリックが見える気がした。
「フィンレー殿を王弟派の黒幕にしないためには、『チュラコス家の呪い』を発動させないために、リンディが彼と結ばれなければなれない。そして、ぼくは、どうやったって、自分の手で、君を幸せにすることが出来ない…。せっかく巻き戻って来ても…、この胸に、『神力の玉』がある限り、ぼくの体は、前の時からの、続きだ…。もう十四歳になってしまったのに!!!」
「パトリック!!!」
ローザリンデは、渾身の力で扉を押し開けた。
体をぶつけて出来たわずかな隙間。指がはさまれる危険も顧みず、そこに手を突っ込んで強引に扉を開ける。
その扉の向こうには、はだけてしまった夜着を、薄い体にまとわりつかせただけのパトリックが、顔を伏せ、膝を抱えていた。
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