白靴下の君へ。
君は予約もせずに、ドシャ降りの夜にやってきた。
雨が、めったにない強さで屋根をたたく。
そんな日なのに。
車も嫌がるその夜に一台だけ、前の公園に止まった。
エンジンの音。
雨の音。
ドアを開けたり閉めたりする音。
普段は僕らしか行かない公園。
バネ付き馬のいる公園。彼を助けにでも来たのだろうか。
慌ただしくも短時間で作業を終え。動き出すエンジンの音。
それに比例するように、でも雨を追い越しながら〈君〉の声が聞こえた。
誰も外に出たがらない、そんな日に。君は誰かに置いてかれた。
恐怖すら知らないはずの君の声は、僕を不安でいっぱいにした。
あの時は僕の方が不安を感じてたかもしれない。
これが初めて君を家に招いた日の事。君は覚えて無いだろうけど。
牛乳を出しても、そこに片足を突っ込み。
膝の上に置いても、部屋の隅に逃げて。
寝かし付けようと電気を消しても、夜行性の君はへっちゃらで。
ただ、虚ろな目で僕の知らない母を何度も何度も呼んでた。
まるで“お前じゃない”って言われた気がした。
次の日も僕との距離は開いたまま。タップリの牛乳と牛乳に浸したパンを準備して家を出た。
…食べてくれるだろうか。
牛乳と君用のセットを土産に帰った僕はちょっとニッコリ。
相変わらず不安そうな表情だけど、鳴きはしないしちゃんとご飯も食べている。
半分はこぼしちゃってるけど。友好への大いなる一歩だ。
よくよく見ると、本当に弱々しく小さい君に新しい牛乳を持っていく。
今度は砂糖を溶かしたホットで、猫舌の僕がぬるく感じるあったかさ。
君がバクバク食べるのを聞きながら、君のトイレを準備する。
もし、驚異的に無関心だったら…。
数時間後、見事にカーペットに染みができていた。
その後は、君が怪しい行動をするたびに追いかけ回ってトイレをさせる。
もう、日付のかわった1時になっていた。
今日は飯抜き決定で風呂に入り、飲めない酒といつかのポテチ。少しシケッてるけど…。
ちゃんと布団がないと寝れない僕はフラフラしながら用意を済ませ、倒れ込むように布団に入る。
自然と顔がユルんでそのまま意識が飛んだ。
朝。君は狭い部屋の1番遠いクッションから僕を見ていた。
しかも、足側だからうまい事に手は届かない。
“これが本能というものか”
カラの皿を洗い、二人分の朝食を作る。
ガッツリ目線を背中に感じながらも距離はあいたまま。逃げはしないが近づいては来ない。
もどかしいけど、それでいい。お互いまだまだ探り合い。
「たっ、だいまー」
一人の時はあまり使わなかった言葉を使ってみた。
結局、独りだけど…。
返事も無いまま部屋に入ると“誰っ!?”って顔して固まってるから“いやいや、俺ですけど…。”って顔で近づいて行く。
最近はもう逃げないけど完全に〈エサ担当〉としてしか見てないらしく、満足そうに口を拭きながら、あのクッションで毛繕い。
「大きくなれよ」
言葉を理解出来ないのはわかっている、それでも言わずにいられない。
小さく弱いのはツラいから。僕が手を貸せるなら全力でぶつかるってみようと思う。それからはゆっくり風呂に入って、
弁当屋さんの弁当にサイダー。僕の週末ディナーの定番だ。
君にも特別に、牛乳にひたしたクロワッサン…。色んな意味でこれが僕の全開です。
お互いご飯を食べ終え、秘密兵器の〈唐揚げの残り〉を使って君の興味を引く。
台に乗っけて、君が獲物を食らう姿を見ながら、ちょっかいを出す。
どんなに嫌がっても〈唐揚げ〉という獲物は絶対に放そうとしない。
(…めっちゃ可愛いぃ。)
やっぱり、君とは気が合うと思う。
鼻のきく子らも好きだが彼等のテンションは高く、僕みたいな静寂を好む者は疲れてしまう。
明日の休みは何処にも行かず君と一緒にいよう。
“君が心配”というより、僕が寂しいからだろう。
その夜、僕は鈴付きの首輪を君にプレゼントした。というか強制的に付けた。
最近、あまり鳴かなくなったせいで何処にいるのかわからなくなってしまう。でも、新たに問題が出てきた。
夜行性の君は夜になるとテンションが上がるらしく、黒電話のような勢いで鈴を鳴らし、一人でクッションの角と格闘する…。
今まではすぐに寝てしまって気付かなかった。けど…
クッションの角の何が君をそうさせるのだろうか。
寝るに寝れず。
これは友好を深めるチャンスだと思い、明日使うはずだったネコジャラシを出して包みを外す。
(ガサガサ…、ガサ…。)
風も無いのにさっきのビニール袋が一人で動いてる。
僕は手を止めてそっと中を覗いてみた。
そこでは一通り匂いを嗅ぎ終えた君が、なぜかその中で毛繕いをしていた。
(そっちか…。)
一気に疲れが湧いてきて、やっぱり明日にしておくべきだったという後悔だけが残った。
しょうがなく首輪を外して布団に入る。君をビニール袋から離し、枕元に置いてみる。毛がフワフワで軟らかく、どんなトリートメントを使ってるんだろうと思うほど優しい。
それに何よりも命そのものの温もりがそこにあった。
「ありがとう。僕の所で」
聞こえたのか聞こえてないのか。君は布団から出てビニール袋へ。
《ガサッ!ガサガサッ、ゴンッ!》
(ゴン!?)
《ガサ、ガサ…。》
(おっ、大人しくなった)
時計を見るともう4時になろうとしていた。目覚ましは7時半にしてある、大丈夫だ。
君は最後にトイレを済ませ、クッションにやってきた。
僕の記憶はここまでだ。
翌日、結局9時に起きた僕はビニール袋の音で目を覚ましていた。
(君はいつ寝てんだ?)
胃は欲しがってないが、君がそういう目をしてたから二人分の朝食を作った。
僕はトーストに紅茶で、君にはホットミルクに砂糖を入れてパンを浸したもの。
最近はそこにカロリーメイトを砕いて入れてある。
これで栄養面は完璧なはず。
たしかに僕よりコストも手間も掛かっているけど、作っていると楽しい。
だって、確実に大きくなっているのがわかるから。
骨に皮が付いたような感じだったのに、ちゃんと肉が付いたし筋肉が付いてきたのもよくわかる。
そして1番は、目の焦点が定まって意思が感じられるようになった事だ。
表情があると安心する。
料理を台に並べ、テレビを付ける。
別に見たいのがある訳でもなく、癖みたいなものだ。
時折、君の方を見るとまるで箸休めでもするみたいに君は見てくる。
微笑み返すと、口の周りを舐めてまた食事に戻る。
(ほんとに愛想がないよなぁ)
そう思いながら君の背中を撫でてやる。ご飯に夢中らしく僕が相手にされていない。
結構な量を食べてるからネコジャラシは昼過ぎに使うと決めて、それまでゆっくり君の観察をしよう。
ただそれだけで癒される。
いつもは過ぎるだけの休日が一味違う。
君は思ってた通りにネコジャラシにくいつく、素早さはまだないものの一生懸命追いかけてる。
この時からの君の成長は凄まじく、あっという間に別人になっていった。
二ヶ月後。
写真と見比べると二倍は大きくなってる。今では僕の方が“誰っ!?”て、思うほどだ。
なんと表現したらいいのか。じんわりと幸せを感じる日々。
たしかに、君は夜の寝付きが悪いし、爪を立てて僕にジャレてくる。
あのクッションは中の綿を出されて、今のは二代目だし…。
それでも憎めない。
あっという間に傷だらけになって、部屋で目立たないように小さく丸まる僕。
意気揚々と柱を駆け登ったり、棚の上に乗ったりする君…。
結局は降りれなくなって僕を呼び、汗だくになって降ろせば、猛スピードでどっか行く…。
(もう三度目だ。なぜ上る!?)
イスの上に取り残されて考える。
(……。やっぱわかんねぇ)
でも、それでいい。
不思議なくらいがちょうどいいと思う。
言葉が伝わらない方が、本気で伝えようと思う。もっと関わろうと思う。
ホント不思議なくらいに。
他にも色々あった。
色々あって、ありすぎて色々忘れた。
夜、寝る前にその事をふっと思い出して、顔がほころぶ。
時々は涙と一緒に…。
君は、ある日からいつもの時間に帰ってこなくなった。
深夜になると、風呂場の窓から戻って来る音がして、朝起きて見てみれば二代目クッションで眠ってる。
いつもならこの窓から散歩に行って、トンボをくわえて来てはしっぽをピンと立て、目をルンルンと輝かせていたのに。
今となっては朝帰りまでしだした。
僕だってバカじゃない、どういう事かはわかる。
たしかに変なライバル心は芽生えたけど、問題はそこじゃない。
もしかしたら、もう帰って来なくなる可能性もあるし、本当にただの“エサ担当”になる可能性もある。
単純に、君に置いて行かれそうで恐くなった。
また一人ぼっちになるのが恐かった。
でも、身勝手な話し。家族を連れて来られても困るし…。
(僕って、君が言われてるよりもずっと自己チューなんだ…。)
(君の方がよっぽど純粋で素直かも。少し純粋すぎるけど)
とうとう帰って来ない日まで出てきた。
陽が落ちると家の周りを鈴の音が通り、さらに暗くなると遠くで君がケンカする声が聞こえて来た。
初めて聞いた時は特有の驚きがある。
そんな中、君はあきらかにケンカに負けて帰ってきた。しかも頻繁に、頻繁に…。
そのせいか、外に出なくなった。
(そんな簡単でいいのか?意外に浅い恋なのか!?)
それからは外に出ても、風呂場のシャンプーやリンスを薙ぎ倒して帰って来る。
シッポが割り箸に付いた綿菓子のように膨らんで、爪が凶器でしかない。
別に味方する訳じゃないが、半分野性の君は中々のムキムキで、屈強だから負けるとは思ってなかった。
そんな君の十円ハゲを見た時はショックだった。
そんなある日。
また、雨の強く降り出した日に意外なほど冷静に帰って来た。
二代目クッションには行かず、隠れように玄関に行く。
(…おかしい。)
今までに見た事がない行動。物凄く嫌な気持ちになって玄関に走った。
ズブ濡れの君を拭きながら、全身をくまなく見る。
というか、床に血がツイてる。
「おっ?」
(完全に右前足を嫌がってる)
「…。爪が取れてる!?」
君の方がその声に驚きながら、毛繕い。
他にも怪我はないかタオルで拭きながら探ってみる。(よかった。
(いくつか擦り傷はあるけど。)
翌日。
仮病を理由に、君を病院へ連れていく。
朝、思ったよりも平気そうだったから、風呂場と玄関をつなぐ痕を掃除して家を出る。
病院についた君は、見る物すべて敵。と言わんばかりに威嚇してた。そして、診断を聞いて帰る。
帰りは一人だ。
足の傷からばい菌が入ったせいで、指の一本を切断するというのだ。
それに、ばい菌が体に回らないように薬の投与が必要だという。
この二つは同時に出来ないため丸一日の入院となった。
迎えに行けるのは土曜。
(帰って来たら一番高いご飯を食べさせよう。)
病院が開いてすぐに行ったから帰ってもまだ十一時過ぎだ。
フラフラとコンビニに寄って、なぜか弁当とビールを二本、それとつまみを買って帰った。
なんでビールか僕もわからない。
お医者さんはサラサラと言っていたけど、僕はそれを簡単に飲み込めなかった。
(だからだろう。)
四本指の君が三本指になる。
前に誰かが言ってた。白い靴下を履いたような子は幸福を連れて来るそうだ。
僕には数え切れないほど来た。でも、君はどうだろう。
ドシャ降りの日に置いていかれて、雨の日に指を無くして…。
それでも僕は何かの幸福を渡せたのかな。
それとも、自己満足なのかな。
…むずかしいよ。
答えが出せないまま、土曜日になっていたから病院に行く。
待っていたのは相変わらずの君だった。
(ちょっと痩せたかな?)
白靴下の上から白い包帯が巻かれてる。
色々な手続きを済ませて家に帰ると、昨日のうちに買っておいた逸品を準備する。
鼻も診てもらったようで、君の嗅覚は研ぎ澄まされ、不自由に鈴を鳴らし甘えてきた。
(いつもは定位置でおすわりしているくせに、都合がいいなぁ。)
いつもより豪華な君のご飯と、代わり映えのしない僕のご飯。
先に食べ終わった君がこっちの弁当を覗いて来たから、伝家の宝刀〈から揚げ〉とお米を皿に盛ってあげた。
(最初にから揚げをやった時からどれくらい経つだろう。)
今はあの時と同じヨチヨチ歩きの君だが、本気で走ればフローリングの床でホイルスピンをお披露目するほどたくましくなった。
ホットミルクだったのがから揚げになって。今だってこんなにガツガツと…。
「おっ」
(お米は残しちゃってるし…。)
「余ってた訳じゃないぞ!?俺の方が食べ足りてない気がするし…」
君と出会い。こんなやり取りを繰り返すこと一年半。
正確にはあと三ヶ月で二年が経とうとしている。
それからの二人は、お互い安定した日々が続いた。
君の方では、何度か足の消毒に行ってしっぽを膨らませてたけど、他はのんびりしたもんだった。
僕はといえば、父親が還暦・定年を迎え、兄弟は結婚式を挙げて。
従姉妹には子供が産まれた。
この心地よい忙しさの中で、僕の生活サイクルに“実家”という概念が浮かぶ。
積極的には帰らなかった。
けど、今はまた兄弟達が集まる場所。
(こういう見方も出来たんだ…。)
君が家に来てから三度目の春が過ぎ。
最近、ふっと気付いた事がある。
(君が、君じゃない。)
もうジャレさせてくれないし、抱っこをしようにも嫌がられる。そういえば、ノドも鳴らさない。
(なんだ?どうした!?…スゴイ寂しい。)
「おーい。ネコじゃらしだぞー」
「………」
ネコじゃらしで誘った僕に対し、君はしっぽを振って返した。
これにはさすがに衝撃を受けた。
「…俺は追い掛けんぞ」
たしかに、あまり君をかまえてなかったから、ストレスとかが溜まってるのかも知れない。
そう思って、色々と調べてみた。
(最近、自分に悩みも出てきて、他の事を考えたかったし。)
それで、わかった事は。
何かの病気でも、習性でもないし、心配ないということだ。
ただ、気になったのは君が僕を追いこしてた事。
君は僕より早く歳をとる。もう、五つも上のお兄さんになっていた。
(そりゃあ。年下にそんな事をされても面白くないよな。)
“成長する”から“成長していく”に変わったのかもしれない。
今では僕の方が年下だし。
年期の入った首輪のあとを掻いてあげながら想いにふける。
(太ってるから動かないんじゃなくて、落ち着きが出てきた訳なんだ。)
落ち着きがあり、ゆっくりと時間も過ぎてゆき、初夏の匂いを感じ始めた。
医者に体重を気にするように言われた君は、規則正しい食事になり。それに合わせて僕もダイエット。
(もうすぐ夏だし、調度いいか。)
そんな時間がまだまだ続くと思ってた。
それなのに…。
ダイエットのおかげで、君は食事の前にちゃんと帰って来るようになって、足に擦り寄ってくるようにもなった。
まだお腹周りは冬仕様だけど思わぬダイエット効果があらわれていた。
台所に行くと僕の横をついてきて、久しぶりに軽快な鈴の音が家の中にある。
「ゴメン。ご飯はやれないよ」
それを理解したのかさっさと涼しい部屋に戻って二代目クッションでくつろぐ。
(家の主人は君だよ。その座り方。)
縄張りの確認にいそしむ君は、食事の後も鈴を鳴らしに外を回る。なんだか元の二人になりつつあった。
土曜日の夜。
いつもより少し早めに夕食を食べていた。君の分も用意てるけど、まだ外で遊んる時間だ。
今日は特売品のお肉ともやしを買って、焼きそばを大盛で作ってみる。
普段はコンビニ弁当やカップラーメンが多い分、休みの日にはよく作るし、冷凍しとけば安くつく。
(ダイエットだって、たまの息抜きも必要。…のはず。)
そうやって、ご飯を食べていた。
《―キッ。ドン!ブウゥウゥゥン……。》
(んっ?)
家の前の道路。
公園の前の道。
聞き慣れない音。
なのに、強烈な不安と怒りが何処からか込み上げてくる音。
冷静を装いながら、急いで表に出ていく。
心臓が早い。
外に出たのは僕だけだ。理由はわかる、事故にしては音が小さかった。
“ドン”
例えるなら、ドアを強目に閉めたようにくぐもった音。
なぜか、君を連想させた。
外に出たけど暗さに目が慣れない。耳をすませて君の安全を確かめようとする。
(鳴き声・鈴の音。なんでもいいから。)
徐々に目が慣れてきて、あの音がした方を見てみる。
“何か”がそこにあった。
すでに駆け足になって、近ずくにつれて“それ”が見えてくた。
見慣れた毛並み。
見慣れたしっぽ。
見慣れた耳。
ご自慢の〈幸福の白靴下〉の足。
(…まるで寝てるだけのようじゃないか。)
もう何も考えずに家へ連れて帰った。名前を呼んで頬をなでる。
でも、動かなかった。
(びょういん、病院だ…。この子を病院に連れていかなきゃ。)
(何がいる?要る物はなんだっけ。要る物……。)
――。
結局、医者は医者だった。
治せる物もあって、治せない物もある。そんなのわかりきっていたのに。
感傷に浸る間もなく、手続き、手続き…。
早く落ち着きたくてそれに従い、やりこなした。
休みだけでは足りなくて、ゆっくり出来たのは一週間後の日曜日。
君が眠るための場所を作りに実家に行って、一泊して帰ってからだ。
「あいだに仕事挟んだからなぁ…」
(なんか、ホッとしちゃった。)
君はもういないのに…。
君の使ってた皿がある。
君のためのご飯もまだたっぷりある。君のネコじゃらしも、トイレも…。
あのクッションなんてどうしたらいいんだろう。
まだ、部屋の中には君の匂いや、君の生きていた証拠がそのまま取り残されてる。
(悲しいのに涙が出ない…。君は元々馴れ合う性格じゃあなかったからなぁ。)
自分でも不思議な位に涙が出なかった。もう明日の事を考えてるし。
(今までは、いなくてもちゃんと帰って来たから、その癖が残ってるのかな。)
何があっても寝れるように、飲めないビールを飲んでるのに…。
(僕って薄情な人間だったんだ。)
何の抵抗も無いまま明日が始まり。
君の形見は三日ほどかけて、全て処分した。
一年後。
サラサラと時間が流れた。
春の盛りが過ぎる頃。部屋の窓を開け放ち、チキンカレーを作ってた。
この季節は料理をしてても汗をかかない、いい季節だ。
カレーをよそい、テレビを見ながら食べる。
(うん。チキンカレーも悪くない。)
そう思っていたら、台所から怪しい物音が聞こえてきた。
《カタッ、ガタッカタッ。ボゥン。》
(誰か来た?)
家族の誰かが声もかけずに来たのかもしれない。
念のためそっとドアを開ける。
「あっ!」
《ガタッ。ドコッ…、ガランガランッガラン。》
「……真っ黒だ」
(それにまだ小さい。でも、何を?)
急いで台所に駆け寄ってみたら、シンクに落ちた一滴のカレーを舐めていたらしい。
どんな泥棒よりもクッキリ足跡を残していたのは、まだまだ小さい黒猫だった。…と思う。
かなり素早い。
(野良かな?よっぽどお腹がすいてたんだ。)
たんまり作っておいたカレーを小皿に分けて、お米と混ぜて冷ます。
鶏肉は骨からほぐし、人参は抜く。お米と混ぜたのは過去に残された経験があったから…。
足跡のつづいていた風呂場の前に置いて、僕は二杯目のカレーを食べる。
すると、ガツガツと音が聞こえて、一人でニッコリ。
翌日もあの子は風呂場の窓からやって来た。
二日連続のカレー。文句を言わず食べてくれるだろうか。
今度はドアの隙間から様子を覗く。
(こんな姿を誰かに見られたら、確実に通報されてるな。)
警戒心だらけの紺碧の瞳で、お皿に歯をぶつけながら食べている。
その細い体は、家に来たばかりの君を思い起こさせた。
食器を片付け終えたその夜。
実家で作ったという梅酒を飲みながら、君を想う。
(君は、あの子のように野良で生きるのと、僕と生きるのと、どちらが幸福だったのだろうか。)
僕は君から本当にたくさんの幸福をもらった。
でも、君はどうだっただろう。
君がどうだったなんて。どんなに言っても僕の身勝手だ。
それでも聞きたい、知りたい…。
(きみはどうだった?)
答えてほしい、答えがほしい。声を聞かせてほしい。
(君はもういないんだ…。)
忘れたはずなのに、理解したはずなのに。頭の底から君の事が溢れてくる。
「………」
もう、ここに君の温もりは無い。君の匂いも、鳴き声も、お皿もネコじゃらしも…。何もない。
頭の中の思い出だって、ちゃんと奥にしまってた。
それなのに…。
あの子に会い、しまっていた物が涙と一緒に溢れかえった。
「…ごめん」
(謝っちゃったよ、ごめん。こんな僕でホントにごめん。)
泣くだけ泣いた。
明日、笑うために泣いた。
朝になって、予約でもしてたかのように風呂場の窓からあの子がやってくる。
僕も、予約でもあったかのようにご飯を用意していた。
それでも、あの子に首輪を付ける気はない。
今度は“エサ担当”を喜んで請け負うつもりだ。あの子が僕を選んでくれるなら…。
「あっそうだ」
(あの子のご飯…、これでいいかな?)
今日はお店で、あの子用に袋入りのご飯を買った。
一度は捨てて、無くした物が増えていく。
それでも、まだ君への事に答えが出せず、怖くてどうしたらいいか迷っている。
ついていたテレビからは、七夕を知らせるニュースが流れていて、みんなが短冊に願いごとを書いていた。
僕は君への手紙として、短冊に最後のメッセージを書いてみた。
カーテンのレールに吊した短冊は、音のない風鈴のように揺れている。
こうして、あの子との日々は静かにゆっくりと、それでいて不思議な距離感を保ったまま流れ始めた。
それは、雨なんか寄せ付けない青空が何日も何日もつづく、そんな夏だった。
―手紙―
『“幸福な僕より
君からもらった幸せを、黒いあの子に分けようと思います。
白靴下の君へ。”』