九 乱闘
―――翌日の昼休み。
私と薫は食事のあと、屋上のベンチで座っていた。
「それで、昨日はどうだったのよ」
薫が訊いた。
「実はさ・・飯田さんの会社って、A総合商社だったの・・」
「・・・」
薫は時が止まったかのように、唖然として私を見た。
「薫?聞いてるの?」
「もう一回言ってみて」
「だから、A総合商社」
「ちょ・・それ・・マジなの」
「うん、そう言ってた。で、社長の息子らしいの」
「・・・」
「だから次期社長なんだって」
「マ・ジ・か・・」
「私さ、ちょっと考えさせてくれって言ったの」
「そりゃ引くわ・・」
「でしょ、引くでしょ」
「で、沙月はどうすんのよ」
「どうするって言ったって・・」
「それで飯田さんはなんて?」
「なんかね、引かれることがわかってたから嘘ついたって」
「なるほど」
「飯田さんは、私とこのまま続けたいみたいなの」
「ますます意味不明だわ」
私は薫が何を言いたいのかわからなかった。
「意味不明って?」
「だってさ、そんな大会社の御曹司なら、パーティーに行く必要もないし、つーか、相手は親が決めるもんじゃないの」
「だよね・・」
「ゆくゆくは社長夫人。家でのんびり家事してりゃいいってもんでもないしさ。社交界にも顔を出さなきゃいけないでしょうに」
「そんなの、私には無理・・」
「もうここで終わらせるべきだよ」
「だよね・・」
「考えようによっちゃ、よかったよ」
「え・・」
「まだ何もないんでしょ?」
「・・・」
「それに日も浅いし。傷らしい傷なんてないじゃん」
確かにそうだ。
飯田とは手を繋いだだけで何もない。
飯田のことは好きだが、今ならすぐに忘れられそうだ。
薫の言う通りなのかも知れない。
「そうだね。私、断るわ」
「それがいいよ」
「はぁ~・・なんかそうと決まったらすっきりしちゃった」
私はそう言って笑った。
「あはは、そうだよ。今度一緒に合コン行こうよ」
「うん、そうする」
こうして私は、断る決心をした。
そして私はこの日の夜、自宅で電話を掛けることにした。
本来なら会って断るのが筋だが、飯田に会えば決心が鈍ることを恐れた。
「もしもし」
「あ、沙月」
「いま、いいですか」
「もう仕事も終わったし、いいよ」
飯田の話しぶりは、何かを予感しているようだった。
「あの・・この間のお返事なんですけど」
「・・・」
「あの、もしもし」
「聞いてるよ」
「ほんとは会ってお話するのが筋なんですが、電話ですみません」
「うん」
「私・・やっぱり飯田さんとのお付き合いを続けるわけにはいきません」
「・・・」
「その・・なんていうか、私には無理です・・」
「それって沙月の本心なの」
「え・・」
「僕のことが嫌いになったの」
「そういうわけでは・・」
「僕が次期社長ってことが、そんなに嫌なの」
「あ・・まあ・・嫌というか、無理なんです」
「どうしても?」
「はい・・すみません」
「そっか。わかった」
「・・・」
「沙月といて楽しかったよ。ありがとうね」
「飯田さん・・」
「いい人見つけてね」
「・・・」
「じゃ、これで。元気でね」
そして電話は切れた。
はぁ~・・なんか複雑な心境。
今も飯田さんのことが好きなだけに・・ほんと複雑。
でもこれでよかったのよ。
縁がなかったってことで、早く忘れよう。
そして私は眠りについた。
それからというもの、私には以前の日常が戻ってきた。
殆どが会社と家の往復。
何の変化もない中、年だけ重ねていくことへの焦りが私を襲った。
薫は相変わらず合コンへ行き、いつも男性と飲み比べをしては出会いを失っていた。
―――飯田と別れて一ヶ月が過ぎた。
「さーて、もう一軒行くよー」
夜の繁華街で、薫が私の肩を抱いてそう言った。
「薫~、私、もう帰るよ」
「ダーメ。また失敗に終わったんだから、飲み直さずしてどうする」
そう。
今日も合コンで結果を得られなかったのだ。
「まったく・・仕方がないわね」
「よっ、さすが沙月ちゃん。話せるね~」
私たちが店を探していると、人だかりに遭遇した。
「おおっ、喧嘩かーー!」
薫はその方向へ歩き出した。
「薫~~、危ないよ」
私は薫の腕を引っ張った。
「なに言ってんのよ~面白そうじゃん」
私は仕方なく薫について歩いた。
すると人だかりの中心に飯田がいた。
「げっ・・あれって飯田さんじゃん」
薫は覗きこんでそう言った。
飯田はガラが悪そうな二人の男性に、因縁を付けられている様子だった。
そして飯田の横には、あの同僚の坂槙もいた。
「けっ、ちょっとイケメンだからって自惚れてんじゃねーよ」
「変な言いがかりをつけないでくれるかな」
「なーにかっこつけてんだよ」
「とにかく、こいつは僕の友人だ。文句があるなら僕に言ってくれ」
「社長・・もういいですってば・・」
坂槙は飯田の腕を引っ張って、この場を去ろうとした。
「ほーう、お前、社長なんだ」
「そんなことお前に関係ない」
「他人の女に手を出した落とし前は、どうつけるつもりなんだよ」
もう一人の男性がそう言った。
「僕は手なんか出してない!」
坂槙が言った。
「うるせぇ!気軽に声なんかかけやがってよ」
「声をかけられたのは僕の方だ」
「こいつは、そっちがかけてきたって言ってんだよ!」
その男性の隣には、派手な女性が立っていた。
「こりゃ~きっちりさせねぇとな。で、いくら出せるんだ」
これって・・まさに言いがかり・・
最初からお金目当てで・・わざとじゃないの・・
「お前、社長なんだろ。金なら持ってるだろが」
「お前に渡す金などない」
「四の五のうるせぇんだよ!」
男は飯田に殴りかかった。
飯田は抵抗せず、殴られてしまった。
ちょ・・飯田さん!
逃げるべきよ・・逃げて。
「沙月・・これ・・ヤバイよね・・」
横で薫が言った。
どうしよう・・
なんとかしないと・・
「気は済んだか」
飯田が男にそう言った。
「はあ?」
「気は済んだのかと訊いてるんだ」
「こんなので済むわけがないっつーの!」
「社長!危ないです、下がってください」
そこで坂槙が飯田の前に出た。
「殴りたいならいくらでも殴ればいい。でも金は渡さない」
飯田が坂槙を後ろへやり、そう言った。
「お望みならそうしてやるよ!」
そして男は再び飯田を殴り、飯田は倒れた。
そこで野次馬の中から「きゃー」という悲鳴が聞こえた。
「飯田さん!」
私はたまらず飯田に駆け寄った。
「沙月・・」
飯田は呆然として私を見た。
「いま、警察を呼びましたから!」
私は口から出まかせを言った。
「沙月、危ないから下がってて」
「ダメです!」
私は思わず飯田の肩を抱いた。
「沙月!危ないわよ、なにやってんのよ!」
そこに薫も入ってきた。
「ちっ、サツを呼びやがったか。おい、行くぞ」
男はもう一人の男と女性にそう言った。
あれ・・ちょっと待って。
あの男性・・見覚えがあるんだけど・・
どっかで会ったのかな・・
そしてあの派手な女性も・・
どこだろう・・
私は思い出そうとしたが無理だった。
そして男たちはこの場を去り、野次馬も解散した。
「飯田さん、大丈夫ですか」
私はバッグの中からハンカチを取り出し、飯田に渡した。
「こんなの平気、何でもないよ」
そう言って飯田は立ち上がり、苦笑いしながらハンカチを受け取った。
「社長・・すみません。僕のせいでこんなに・・」
坂槙はオロオロしていた。
「気にするな。お前は悪くないよ」
「ヤバイ連中がウロウロしてるから気をつけないとね」
薫がそう言った。
「お二人とも、ありがとう」
飯田は私たちに頭を下げて礼を言った。
そしてハンカチを私に返した。
「沙月、元気そうでよかったよ」
「え・・ああ・・はい・・」
私は急に我に返った。
そして飯田の顔を水で冷やすために、私たち四人は居酒屋へ入った。




