十七 父親の怒り
―――それから一ヶ月が過ぎた。
私と飯田はこの間、急速に接近し、既に男女の関係になっていた。
「あ・・もう起きたの」
ベッドから飯田が、眠そうな声で私に訊いた。
「陸斗さん、もうすぐ朝ごはんが出来るからね」
私はキッチンで朝食の準備をしていた。
昨日も飯田のマンションに泊まったのだ。
「沙月、いつもありがとう」
「出来るまで寝てていいよ」
「ふわぁ~」
飯田は大きく背伸びをし、ベッドから下りた。
「今日は何かな~」
飯田がキッチンへ来て、私を後ろから抱きしめた。
「ほらほら陸斗さん。邪魔しないで」
「あ~オニオンスープだね」
「陸斗さん、好きでしょ」
「嬉しいな」
「ほら、陸斗さんあっちで座ってて」
「しょうがないなあ~」
飯田は子供の様にむくれて、ダイニングの椅子に座った。
私は幸せをかみしめていた。
飯田ならきっと私を幸せにしてくれると、根拠のない確信めいたものを感じていた。
そして私も飯田を幸せにしようと思っていた。
「沙月、今日は予定あるの?」
朝食を済ませ、私たちは並んでリビングのソファに座っていた。
「ううん、ないよ」
「僕も休みだし、どっか行こうか」
「わあーいいね!」
「どこがいい?」
「陸斗さんとならどこでも」
「沙月はほんとにかわいいね」
ピンポーン!
突然、インターホンが鳴った。
飯田は怪訝な顔をしながら立ち上がった。
「はい、どちらさまですか。えっ・・なんだよ、いきなり。困るよ。いや・・帰ってくれ」
飯田の顔が急に曇った。
誰だろう・・
陸斗さんがあんな顔するなんて・・
「まったく・・わかったよ」
そこで飯田はインターホンを切った。
「陸斗さん・・誰なの」
「親父・・」
「ええっ!」
「入って来るけど、沙月は気にしなくていいからね」
「わっ・・私・・隠れてようか・・?」
「ううん。そこにいて」
ほどなくして飯田は玄関の鍵を開けに行った。
「なにしに来たんだよ」
「陸斗!お前、妙な女と付き合ってるらしいじゃないか」
「親父には関係ないことだ」
「その話をしに来たんだ」
「勝手に入れば」
ズカズカと中に入ってきた飯田の父親は私を見て、怒りにも似た表情になっていた。
私はソファから立ち上がり、一礼した。
父親は、まさに私があの日偶然見た、A総合商社の社長だった。
「こいつか!」
「親父!なんだよ、その言い方」
「お前、結婚相手がいながら、なにをやってるんだ!」
え・・
結婚相手・・?
私は思わず飯田を見た。
「だから何度言えばわかるんだ。僕は彩絵さんとは結婚しない」
「バカなことを!この縁談を何と心得ているのか!」
「僕は断ったはずだ!」
「きみ・・」
父親は私を見た。
「はい・・」
「きみの目的はなんだ」
「目的・・?」
「とぼけるんじゃない。なんだ、言ってみたまえ」
「仰ってる意味がわかりません」
「金か、名声かと訊いてるんだ」
「親父!いい加減にしろよ。沙月はそんな女性じゃない!」
「こんな小娘にたぶらかされおって、このバカが」
「沙月、こんなやつの言うこと、聞くことないからね」
私は唖然として言葉も出なかった。
飯田に結婚相手がいたのだ。
「陸斗さん・・」
「なに・・?」
「結婚相手ってどういうことですか・・」
「僕は相手とは思ってない」
「でも、いるのは確かなんでしょう?」
「僕は無理やり見合いをさせられただけだ」
あ・・そう言えば・・
以前、坂槙がそんなことを言っていた。
無理やり拉致されて連れて行かれたと。
そうか・・そのことなんだ。
「その方とは、今もお付き合いをしているの?」
「上辺だけだよ」
「え・・」
嘘・・
例え上辺だけだとしても・・付き合ってるんだ・・
どうして隠してたの?
「私・・帰ります」
「沙月!話を聞いてくれないかな」
「えぇ~い、ごちゃごちゃと。きみ、さっさと帰りたまえ」
「親父は黙っててくれ!」
「陸斗!あちらは乗り気なんだぞ。この機会にだな、経営統合してさらにわが社は発展を遂げるんだぞ!」
「僕を利用しないでくれ!」
「バカ者!」
そこで父親は飯田の頬を叩いた。
「や・・やめてください!」
私は思わず叫んだ。
「僕は親父の言いなりになんかなにないから!」
「青二才が偉そうに言うんじゃない!」
二人には私の声が届いてなかった。
「私、ほんとに今日は帰りますから!」
「沙月、なに言ってるんだよ」
「ああ、帰りたまえ。そして二度と陸斗には会うな」
引き止める飯田を振り切って、私は部屋を後にした。
なんてことなの・・
私が描いていた困難とは程遠いくらい・・
飯田は見合いをして、いわば仕方なく付き合っていたに違いない。
あんな父親だ。
無視したくても出来なかったのだろう。
跡継ぎという立場もある。
飯田は決して私に隠したくて隠したのではない。
私が嫌な思いをするのがわかっていたからだろう。
それに言ってしまえば、私が別れると思ったのだろう。
飯田はそれが嫌だったのだ。
それにしても大変だ・・
あの父親を説得するには、これから何度も辛い思いをしないといけないんだな・・
そうか・・
飯田が「僕が沙月を守る」と何度も言ったのは・・こういうことだったんだ・・