十三 事故
―――それから一週間が過ぎた。
「沙月~」
私が給湯室でお茶を淹れていると、薫が来た。
「あ、薫」
「お茶かね」
薫は上司の真似をした。
「あはは、そうよ」
「あのさ・・私、昨日、A総合商社へ行ってきたんだ」
「えっ!嘘でしょ」
私は茶こしを落としそうになった。
「ちょっと・・薫、どういうことよ」
「まあまあ・・落ち着いて」
「もしかして、飯田さんに会いに行ったの?」
「うん」
「うん・・て・・なんで会いに行ったのよ」
「いや、もうきっぱりとダメ押しておかないとさ」
「・・・」
「ほら、また坂槙が何か言って来るとも限らないじゃん。そんなのウザイでしょ」
「・・・」
「坂槙のことも話したんだよ」
「え・・」
「そしたらさ、飯田さん、申し訳ないって頭下げてたよ」
「そんな・・」
「出過ぎたことだってわかってるよ。私のことを何と思ってくれてもいいけど、これは沙月、あんたのためなのよ」
「う・・ん・・」
「ほれほれ、早くしないとハゲ親父の頭から湯気が出るよ」
薫は私から茶こしを取り、お茶の用意をした。
それから三日後のことだった。
あろうことか、薫が交通事故に遭ったのだ。
私は会社が引けて、急いで病院へ向かった。
「薫!」
私は病室に入り、薫のベッドに駆け寄った。
「沙月~」
薫は意外にも元気な様子だった。
「一体、何があったの?骨を折ったって、大丈夫なの!?」
「あはは、大丈夫。で、折ったんじゃなくてひびが入っただけだから」
「そっか・・よかった・・」
私はホッとして椅子に座った。
「でも薫、事故なんて、どうしたの」
「いやさ、横断歩道で青信号を待ってたら、いきなり誰かがぶつかって来て、前に押し出されて転んだんだよ。そこに車が突っ込んできて急ブレーキ踏んでくれたから、轢かれずに済んだんだけど、その時、運悪く足をぐねっちゃってさ。んで、ひびってわけ」
「そっか・・」
「でもね、変なんだよ」
「なにが?」
「ぶつかって来た人って、誰だかわからないんだよ」
「え・・どういうこと?」
「普通さ、ぶつかった相手が転んで轢かれそうになってるのに、謝りもしないで去ると思う?」
「そうだったんだ・・」
「助けるっしょ、普通は」
「だよねぇ・・」
「まあ~世知辛い世の中だよ」
「でも、おおごとにならなくてよかったね」
私は心底安心した。
もし・・薫が死んでいたかと思うと、背筋が寒くなる。
「薫、なんか欲しい物とかない?」
「ああ~・・アイス食べたいかな」
「わかった。買って来るね」
私は病室を出て、売店へ向かった。
すると、なんと飯田が買い物をしていた。
私は入るのをためらい、そのまま引き返し、壁に身を隠した。
ほどなくして飯田はビニール袋を下げ、私の前を通り過ぎた。
そして私はアイスを購入し、病室に戻った。
「買って来たよ」
ビニール袋からアイスを取り出し、薫に渡した。
「ありがとう~食べたかったんだ~」
薫は蓋を開け、美味しそうにバニラアイスを食べていた。
「入院っていつまでなの?」
「まあ、ひびだけだから二三日じゃないかな」
「ご両親には連絡したの?」
「やめてよ~北海道だよ。知らせたらうるさいよ」
「えぇ~・・」
「その代わり、沙月が来てね」
「まったく・・もう」
二三日なら・・飯田と会うこともないだろう。
私は飯田が売店にいたことを、薫には黙っていようと思った。
「トイレはどうしてるの」
「松葉杖があるから平気だよ」
「食事は?」
「届けてくれるから大丈夫」
「そっか。じゃ安心だね」
「あはは、沙月、母親みたいだね」
「なに呑気なこと言ってるのよ。ほんと心配したんだからね」
「ああ~~美味しかった。ごちそうま」
薫は口元をティッシュで拭き、カップと一緒にごみ箱に捨てた。
「薫」
「なに?」
「そろそろ帰るけど、なんかやっておくことない?」
「いや、ないよ。沙月、ありがとうね」
「また明日来るね」
「そうしてくれると助かるよ~」
そして私は、同室の患者たちに挨拶をして病室を後にした。
それにしても飯田さん・・なんで病院に来てたのかな・・
この時間だから誰かのお見舞いよね。
そして、やはり・・と言うべきか、出入り口で飯田とばったり会った。
飯田は驚いた表情で私を見た。
「沙月・・どうしたの」
「あ・・薫が入院したんです」
「え・・薫さん、どうかしたの」
「交通事故で・・」
「えぇっ!それで容態は?」
「大したことないんです。足にひびか入った程度で済みましたので、二三日で退院できるそうです」
「そうなんだ・・一瞬ヒヤッとしたよ」
「飯田さんは、なぜここに・・」
「祖父が入院しててね。もう長いんだ」
「そうなんですね・・」
「時々顔を見せないと、機嫌が悪くなるんだよ」
飯田は苦笑いをした。
「そうですか・・」
「あ・・坂槙が余計なことを言ったみたいで、ごめんね」
「ああ・・いえ・・」
「薫さんに叱られちゃったよ」
飯田は、また苦笑いをした。
「すみません・・まさか薫が押しかけるとは思ってもみなくて、驚きました」
「沙月のこと心配なんだね」
「はい・・」
「僕はお見合いしたから、もう安心してね」
「・・・」
「薫さんにもそう言っといてね」
「飯田さん・・」
「なに?」
「なんか・・私、なんと言えばいいのか・・」
「気にしないで」
「お見合い・・その・・いいんですか・・」
「え・・」
「いえ・・その・・お父様とケンカを・・」
「ああ~・・」
そこで飯田は、腕時計に目をやった。
「ね、沙月」
「はい」
「お茶でもどうかな。ここではなんだし。あ、迷惑ならいいよ」
「そんな・・迷惑だなんて」
こうして私たちはカフェへ行くことになった。
もう二度と会うことも、ましてや一緒にお茶などあり得ないと思っていたのに。
私の気持ちは、決して嫌じゃなかった。
むしろこうなることを望んでいたかのような、複雑な心境になっていた。
「正直に話すとね」
飯田は席について話し始めた。
「父とケンカしたのは事実なんだよ」
「・・・」
「僕の本心は見合いなどしたくなかった」
「・・・」
「それはなぜか知ってるよね」
「あ・・はい・・」
「こればっかりは、自分でコントロールが効かないんだよね」
「・・・」
「沙月・・今は僕のことどう思ってるの・・」
「そ・・それは・・」
「やっぱり僕と付き合うのは無理かな・・」
私は答えに窮した。
そして「無理」と言えない自分がいた。
飯田の私に対する熱い気持ちもそうだが、なにより、私はまだ飯田が好きだったのだ。
いずれは別れなきゃいけない。
それを嫌というほど自覚している。
「沙月・・」
「はい・・」
「一度だけお願いを聞いてくれないかな」
「え・・」
「最後にもう一度、僕とデートしてくれないかな」
「・・・」
「それで僕は本当に諦めるよ」
「・・・」
「それもダメ?」
「いえ・・そんな・・」
「じゃ、いいんだね」
「は・・い・・」
私はOKしてしまった。
飯田の最後の願いを聞き入れてしまった。
一度だけという「言い訳」が、私の心のブレーキを緩めた。