十一 A総合商社
次の日、私は残業をせず、五時になって急いで更衣室へ向かった。
そう・・私はこの後、A総合商社へ向かうと決めていた。
飯田のケガの具合も気になったし、やはり私は飯田にもう一度会って、きちんと謝ろうと思ったのだ。
飯田があれだけ私を思ってくれていたにも関わらず、付き合いを断るのに、いくらなんでも電話では失礼だったと後悔したからだ。
「沙月~~」
薫が大慌てで追いかけてきた。
「ちょっとあんた、なに急いでんのよ」
追いついた薫は私の肩に手を置いた。
「用事があってね・・」
「なによ、この私に隠し事?」
「いや・・別に隠してるわけじゃないんだけど・・」
私は今日は一人で行きたかったのだ。
「どこ行くのよ」
「それは・・」
「えっ・・まさか、飯田さんの会社?」
はぁ・・薫は勘が鋭いんだから・・
「どうなのよっ」
「うん・・」
「ちょ・・沙月、なんでまた」
「ケガの具合とか・・気になったし」
「とか?とかってなによ。他は」
「やっぱりさ・・ちゃんと謝ろうと思って」
「ああ~・・電話でサヨナラの件ね」
薫・・あなた何者よ・・
私の心が見えてるの?
「まあ・・そうかな」
「じゃ、私も行く~」
「いや・・今日は私一人で行きたいの」
「なんでよ」
「・・・」
「私がまた余計なことを言うと思ってんでしょ」
うわあ・・図星。
「そんなことないよ・・」
「私はねっ、これでもTPOは弁えてるつもり」
「・・・」
「あはは、冗談だよ。いってらっしゃい」
「え・・いいの」
「でもさ~・・心配なんだよ」
「なにが・・」
「あんた、フラフラ~ッと行っちゃうんじゃないかと思ってさ」
「ないない、謝りに行くだけ」
「絶対よ?」
「うん」
そして私は急いで私服に着替え、会社を出た。
A総合商社は都心の一等地にあった。
私は電車を乗り継ぎ、やがて最寄り駅についた。
数々のビル群には、一流企業が名を連ねてそびえ建っている。
その中にA総合商社も他企業と肩を並べていた。
あそこだわ・・
私は一階のロビーに足を踏み入れた。
ロビーはとても広く、中央あたりにエスカレータも設置されてあった。
右側にはエレベータホール、そこを通り過ぎると喫茶店。
左側にはソファーセットが設置されてあり、観葉植物が夕日を浴びていた。
私は足のすくむ思いがしたが、受付に向かった。
「あの・・」
私は受付の女性に声をかけた。
「はい、いらっしゃいませ」
女性は輝くような笑顔を見せた。
「えっと・・ここに、飯田陸斗という社員さんがいらっしゃると思うのですが・・」
「飯田陸斗・・でございますか。恐れ入りますが何課でございますか」
「それはわからないのですが・・」
「少々お待ちください」
女性は内線電話で問い合わせていた。
「飯田は当社の社員でございますが、ご用件をお伺いします」
「あ、えっと、用件というか、二之宮が来たとお知らせ願いますか」
「二之宮さまでございますね。もう少々お待ちください」
女性は再び内線電話で問い合わせてくれた。
「二之宮さま、ただいま飯田が参りますので、あちらのソファーにかけてお待ちください」
「どうもありがとうございます」
そして私はソファに座って待っていた。
それにしても、飯田さんはここの御曹司のはず。
でも受付の人は、知らない風だった。
なぜなんだろう・・
「沙月」
飯田は驚いた風に現れた。
「あ・・」
私は立って一礼した。
「突然、すみません」
「いやあ、驚いたよ。どうしたの?」
「ケガの具合はどうですか」
「え・・まさか心配して来てくれたの?」
「あ・・はい」
「この通り、すっかり腫れは引いたよ」
飯田の頬は赤くなっていたが、確かに腫れは引いていた。
「そうですか、よかったです」
「電話してくれたらよかったのに」
「いえ、電話だと、またどこかで待ち合わせってことになるし、それだと飯田さんのお仕事の邪魔をしてしまいますから」
「そっか。ありがとう」
そして私たちは向かい合って座った。
「あ・・私、お見舞いとか何も持ってこなくて、すみません」
「あはは、大袈裟だね」
「飯田さんって何課に所属してらっしゃるのですか」
「総務課だよ」
「そうですか・・」
「なんで?」
「いえ・・あの、受付の方が飯田さんのこと知らないみたいだったので・・」
「ああ、僕ね、ここの息子だってこと、内緒にしてるんだよ」
「そうなんですか・・」
「知られると、お互い仕事がやり辛いし」
「そうですね・・」
「知ってるのは直属の上司と坂槙と、あと数人」
この話・・本当なのかな・・
もし・・もしよ?
社長の息子が嘘だとしたら・・
怪しい人物というのは、もはや決定的だわ。
「二之宮さん、どうしたの」
「あ・・いえ、なんでもありません」
「失礼します」
そこに、受付の女性がお茶を運んで来てくれた。
「あ、すみませんね」
飯田が礼を言った。
女性は「どうぞ」と微笑んで受付に戻った。
「沙月、飲んでね」
「あ、はい・・いただきます」
私は湯飲み茶碗の蓋を取り、一口すすった。
「でも沙月が僕を心配して来てくれるなんて、嬉しいよ」
「いえ・・そんな」
「で、また会えたし」
「・・・」
「でも、これで最後だね」
「あの・・」
「なに?」
「私、お付き合いを断るのに、電話で済ませて申し訳なかったと反省してます」
「そんなの気にしてないよ」
「お会いしてちゃんとお詫びをしなきゃって思って・・」
「そうなんだ・・」
「すみませんでした」
「ううん。来てくれてありがとう」
「じゃ・・私はこれで失礼します」
「そっか。淋しくなるね」
「・・・」
「あ、ごめん。僕はまた余計なことを」
「いいえ・・ではお元気で」
「うん、沙月もね」
そして私たちは立って握手をして別れた。
私はロビーを出る前に、飯田がエスカレータに向かって歩くのを見ていた。
飯田さん・・ここの社員っていうのは本当なのよ。
でも、息子・・次期社長っていうのは、嘘なんじゃないの。
そりゃ身分を隠さないと、色々不都合なこともあるだろうけど・・
八年もいて、バレないってあり得るのかな・・
「社長、今日の予定はここまでです」
私の横を恰幅のいい男性と、黒い鞄を抱えた男性が通り過ぎた。
社長・・あの人が社長なんだわ!
「そうか。で、陸斗は」
「まだ勤務中かと」
「あいつに今夜のこと伝えてるのか」
「はい、伝えております」
陸斗って言ったよね・・
っていうことは・・やっぱり息子なんだ・・
「先方を待たせるわけにはいかん。もう一度念を押しておけ」
「はい、かしこまりました」
そして黒塗りの高級車に社長と男性が乗り込んで、走り去って行った。
やっぱり嘘じゃなかった。
私は飯田を疑ったことで、自分を恥じていた。