十 揺れる心
「お兄さん~、もっと冷たいおしぼり持ってきて~」
席について、薫が店員にそう言った。
「飯田さん、大丈夫ですか・・」
私が訊いた。
飯田は少しだけ口を切っていて、左の頬が赤く腫れていた。
「社長・・ほんとにすみません」
飯田の隣で坂槙が小さくなっていた。
「ほらほら、飯田さん、はい、これを顔にあてて」
薫がおしぼりを飯田に渡した。
飯田はそれを受け取り「ありがとう」と言った。
「それにしても災難だったねー」
薫はあっけらかんとそう言った。
「僕はもう平気だから」
「それと、あんた。いつまでもくよくよしないの!」
薫は坂槙にそう言った。
「あはは、薫さんは押しが強いね」
飯田が笑った。
「なーに言ってんですか。もう済んだことじゃないの」
「ほら、坂槙。もういいからさ」
飯田は坂槙を慰めるように気遣った。
「社長・・僕、明日社長に叱られますよ」
「ややこしいんだよ、坂槙」
「ああ、それって本物の社長ってことだよね」
薫が訊いた。
「まあね」
飯田は自分の正体がばれていることを悟った。
「それにしてもさ~、A総合商社の御曹司だったとはねぇ~」
「薫さん・・ボリューム下げて」
飯田は人差し指を自分の口に当てた。
「あはは、ごめん」
私は三人の会話を黙って聞いていた。
「ほら、ビールきたよ。乾杯しようよ~」
薫がジョッキを手にして言った。
「よし。何の乾杯かわからないけど、いいね」
飯田がそう言うと、薫が「ほら~坂槙さんも、沙月もっ」と促した。
そして私たち四人は「かんぱーい」と言って、ビールを流し込んだ。
「ところでさ、飯田さんの今のポストってなんなの」
薫が訊ねた。
「平社員だよ」
「ぶっ・・」
薫はビールを噴き出した。
「いやいや、御曹司っしょ!平社員なわけないじゃん」
「いや、社長はね、会社のことを知るために一から始めると決めて、ずっと平なんだよ。それで僕と同期なんだ」
「へぇーすごいじゃん」
「それで僕は、社長に着いて行くと決めてるんだ」
「いや、あんたね、社長って呼び方、ややこしいっつーの」
「あはは、社長にも言われてるよ」
「だーかーらー、どっちの社長よ!」
「この人」
坂槙は飯田の顔を見た。
「沙月、とんでもないことに巻き込んでしまったね」
飯田は坂槙をスルーして、私にそう言った。
「あ、いえ・・」
「沙月にケガがなくてホッとしたよ」
「まだ痛いですか・・?」
「ううん。っつ・・」
飯田は少し痛そうにして、左の頬を擦った。
「そりゃ痛いって。ほれ」
薫は次のおしぼりを飯田に渡した。
「うわっ・・あつっ」
飯田が使っていたおしぼりを薫が手にしたとたん、とても熱くなっていたのか、そう言った。
「ちょ・・飯田さん、マジで明日、病院送りね」
「薫・・病院送りって、意味が違う・・」
「社長・・大丈夫っすか・・」
「もう僕のことはいいから。ほら食べよう」
そして私たちは、テーブルに並べられた料理をそれぞれ口にした。
飯田さん・・平社員から始めてるんだね・・
ほんとなら、副社長で威張っててもいいはずなのに。
とても真面目な人なんだわ。
私は改めて飯田の人間性に惹かれる思いがした。
「あーそうそう。飯田さん、沙月とは別れたんだよね」
薫が無神経に訊いた。
「僕、フラれたんだよ」
「え・・社長、そうなんすか!」
「まあ、こればっかりは仕方がないよ。くよくよしなさんな」
「薫さんは、ほんとにはっきり言うね」
「傷は浅い方がいいの。ダメなものはきっぱり諦める。それが一番いいのよ」
「僕はまだ諦めきれてないよ」
飯田がそう言うと、私は思わず飯田の顔を見た。
「ちょ・・飯田さん。諦めなさいって。沙月を困らせないでよ」
「うん、そうだね」
飯田はそう言って私を見た。
「今のは聞かなかったことにしてね」
「・・・」
私は思わず下を向いてしまった。
ちょっと・・なんなの・・
心臓が・・
なんでドキドキするのよ。
私はもう・・別れたのよ。
相手は大会社の御曹司なのよ。
私には無理なんだから・・
「でもね・・」
飯田がポツリと呟いた。
「これだけは言わせてくれるかな」
私たち三人は飯田の話を黙って聞いた。
「僕、こんなに人を好きになったの初めてなんだよ。そりゃこれまでも何度か恋愛したこともあったけど、なんか盛り上がらなくてね。まあ言いにくいけど、やっぱり相手の女性は僕じゃなくて会社を見てたんだ。だから僕は、この先もちゃんとした恋愛なんてできないと思ってたんだよ。そんな中、あのパーティーに参加することになってね。だから最初は沙月に嘘をついたんだ。沙月は僕が社長の息子だとわかって、もっと押してくると思ってけだと引いちゃったんだよね。それで僕には沙月しかいないって確信したんだけど、結局ダメだった」
「飯田さん・・」
薫が気まずそうに呟いた。
私は何と答えていいのか、まったくわからないでいた。
「僕が言いたかったのはこれだけ。沙月、余計な話してごめんね」
「あ・・いえ・・私は・・」
「沙月さん、今からでもダメですか」
坂槙がそう訊いた。
「え・・」
「社長の人柄は、僕が保証しますよ。八年もずっと見てきた僕が一番よく知ってます」
「そんな・・」
「坂槙、もういいって」
「社長・・」
「僕は沙月を困らせたくない。だから気持ちを切り替えて前を向くよ」
「社長・・ほんとにそれでいいんすか」
「いいんだ」
そこで飯田は立ち上がってトイレへ行った。
その後を坂槙が追いかけた。
「沙月・・」
薫が私を呼んだ。
「なに・・」
「ちょっと・・なんか、飯田さん気の毒になったね」
「うん・・」
「沙月はまだ好きなの?」
「えっ」
「あ・・好きなんだ」
「・・・」
「すぐ顔に出るんだからさ。それでどうすんのよ」
「どうするって・・」
「社長夫人って並大抵じゃないよ」
「・・・」
「それに舅、姑との関係も、普通じゃないと思うよ」
「・・・」
「私はこのまま別れるべきだと思うよ」
「そう・・だよね・・」
それにしても、飯田さんがあんなに私を思ってくれてたなんて・・
それを私は何も考えずに、大会社の跡取りだからってことで、あっさり断っちゃって・・
飯田さん・・恋愛に苦労して来たんだな・・
家のせいで・・家に振り回されて・・って感じなんだろうな。
ああ・・どうすればいいんだろう。