吸血鬼のおひめさま。
むかしはむかし。
思い出す者はなく、羊皮紙に滲むインクばかりがその面影を残すような頃のはなし。
国と国との境、猫の額のように小さな領地に、たいそうかわいらしいおひめさまがおりました。
年の頃は十と少し。御髪は夕焼け空に降る雨のようで、頬には赤みが残る。
口を開くと、尖った犬歯がほんの少しのぞきます。
貴族とは言えど名ばかりで、生活は決して豪勢とは言えません。それでも、緑豊かな領地でおひめさまはすくすく育ちました。
元気が良すぎて、ちょっと困ってしまうくらい。
末の、老いらくの子ということもあったのでしょう。両親にも兄姉にも甘やかされて育ったおひめさまには、たった一人、自由にならない相手がいました。
住み込みで働く下男の一人息子です。
おひめさまがちょっと泣く真似をするだけで、誰だろうとお願いを聞いてくれます。なのに、一回りほど年上の少年だけがおひめさまの泣き真似を見破って、強引に家まで連れ帰るのです。
悔しくって悔しくって、おひめさまは少年について回りました。
先回りして物陰から飛び出してみたり、仕事中の少年に背後から近づいて抱き着いてみたり。
少年の首筋から漂う藁と土の匂いが、おひめさまは大好きでした。
うすぼんやりとではありますけれど、わたしはこのまま大きくなって、いずれ少年と結ばれるのだと、おひめさまはそう想っていました。
変わり映えのしないしあわせな日々におしまいが訪れたのはある日のこと。
本家筋のとある貴族が、おひめさまを養子に迎えたいと申し出があったのです。
それは表面上、お願いではありましたが、両親には断れるはずもありません。この時代、家と血による繋がりは何よりも重要だったのです。
けれど、おひめさまにはそのような事情など分かりません。
真似ではなく、おひめさまは本当に泣きじゃくって、なのに両親は言うことを聞いてはくれませんでした。
一晩中泣きとおした末に、おひめさまはようやく、両親の決意がかたいことを知ります。
だったら、と。
おひめさまは、一生に一度のお願いを口にしました。
あのこを連れてきて。あのこと一緒だったら、わたしは我慢するから。
それは本当に、おひめさまにとって最後のわがままだったのです。
そうして、おひめさまと少年は侯爵様のお屋敷で暮らすことになりました。
同じ貴族とは言っても、地方の小領主と侯爵様とでは何もかもが違います。
テーブルマナーはもちろん、踊りから都の流行に至るまで、侯爵の娘として必要な教養を一から勉強することになりました。
野山を走り回って遊ぶなどもってのほか。異性に触れることも許されず、少年との会話は一日に二言三言。
朝昼晩ときつくコルセットを締め付けて、食事はろくに喉を通らず、眠れぬ夜が幾たびも繰り返されました。
けれどおひめさまは、決して不平を漏らしません。
一方、少年は下働きの一人として、懸命に働いておりました。
洗濯や料理などは普通なら女衆の仕事ですけれど、幼い子供であることを理由にこき使われ、昼夜問わず働き詰めの日々。
けれどそのうち、少年には成長期が訪れます。
声がかすれ始めたことをきっかけに身体の節々が痛み始め、おひめさまと同じくらいだった身長はどんどん伸びていきました。
その体格と働きぶりが侯爵様の目に留まり、十五の頃、槍持ちの一人として取り立てられたのです。
一つ歳を重ねて戦場から帰ってきた少年は、もう少年とは呼べません。
武勲をあげ、騎士見習いとして出世を果たした青年は、おひめさまの絹手袋にそっとくちづけをしました。
――ああ。こうすれば青年に触れることが出来るのか。
おひめさまはそう、気付いてしまったのです。
最初は手の甲で我慢していたものが、そのうちに手袋を脱ぎ捨てて、ある日は髪、ある日は足のつま先と、おひめさまの命令は徐々に激しく、露骨なものへと変化していきました。
青年のくちづけを受けるだけでは満たされず、自らその身体を貪るようになったのです。
とりわけ、おひめさまが気に入ったのは首筋でした。
硬すぎず柔らかすぎずのしなやかな筋肉に血の管が寄り添い、匂いは濃く、戦で負った傷跡が生々しく残った青年の首。
血が滲むほどに強く噛んで、舌先で弄ることが楽しくて楽しくて仕方ありません。
そうしていると嫌なことも忘れられて、幼く、幸せだったころを思い出せるのです。
遊びは遊び、触れることは許されておりませんから、文字通り口だけの繋がりではありましたけれど、おひめさまはその遊びに耽溺してゆきます。
きっと、その頃におひめさまの結婚相手が決まったことも無関係ではないのでしょう。
二人が大人になってからも、その歪な関係は続きました。
おひめさまは嫁入りをして子を孕み、青年は下馬騎士として戦場と屋敷を行き来します。
家の為、国の為と愛のない結婚が求められる時代でありますから、半ば公然と愛人を持つ貴族もおりましたけれど、おひめさまと騎士は決して一線を踏み越えることはありませんでした。
だって、わたしは一生に一度のお願いを使ってしまったんだもの。
そう言って、おひめさまは笑います。
これ以上のしあわせなど、おひめさまには望むべくもなかったのです。
おひめさまの願いを叶えるように、騎士はどのような戦場からでも生きて帰りました。
いくつもの傷をこしらえて、体に縫い目が増えるたび、おひめさまの唇と舌が傷口を癒すように這いまわります。
けれど、ある日のこと。
騎士の代わりにやってきたのは、彼と、おひめさまの旦那様が赴いた戦場の、敗北の知らせでした。
国境付近の領土が隣国に蹂躙され、前線は後退し、国中から兵という兵が招集されます。
都で革命の火が上がったのも、ちょうどその頃です。
長く続いた戦乱と、それを支えるための重税に人々は耐えかねていました。
敗戦と軍の留守をきっかけにして、貴族に反旗を翻したのです。
火は炎となり、また国中に飛び火していきました。おひめさまの住まうお屋敷も例外ではなく、怒り狂った領民は口々に罵声を投げかけました。
人々は棒切れだろうと鍬だろうと武器にして、お屋敷に押し入ります。金目のものは早い者勝ち、美術品など価値が分かるものではなく、醜く争いながら目についたものを奪い、壊してゆきます。
子ども二人は辛うじて落ちのびたものの、おひめさまは捕らわれ、それこそ戦利品のように扱われました。
かつては輝くようであった金髪を掴まれ、成す術もなく地面を引きずられるおひめさまを、群衆は笑いながら眺めます。
吸血鬼だ、化物だ。
男とまぐわっては、血を啜って殺すらしいぞ。
――おひめさまと騎士のひそやかな遊びを、屋敷の下女が盗み見ていたのです。
平時でしたら、それはただの噂話に過ぎなかったでしょう。けれど、ことここに至っては嗜虐の正統性を保証する根拠としていいように使われていたのです。
相手は貴族だから。
貧しい人々から税を取り、贅沢の限りを尽くしているから。
悍ましき吸血鬼であるから。
だから、人々は、どれだけ残酷なことをしても平気でした。
さんざ弄ばれた末に、おひめさまは刑場の断頭台へとかけられます。
周囲に設けられた観客席は人の群れでごった返し、憎き貴族の首が落ちるのを今か今かと待ちかねていました。
ほんとうの罪人であれば、最後の一言を許されたでしょう。けれどおひめさまは罪人ではなく、処刑人もまた、ごくごく平凡な市井の男に過ぎなかったのです。
一際大きい歓声と共に、麻袋を被った処刑人の偽物が登場します。
左手を挙げて民衆の声に応え、右手にはずっしりと重い刃こぼれの斧。
酒が入っているかのように、なんどもなんども綱を切り損ね、そのたびに観衆は期待と落胆の声を上げます。
その間もずっと、おひめさまは、言い訳も悲鳴も、命乞いすら、口にはしませんでした。
ただ。
不意に綱が断ち切られたその一瞬、あっと声を漏らします。
おひめさまの首がころりと落ちて、観客席は火をくべたように沸き立ちました。
――果たして、誰が気付くものでしょうか。
熱狂の最中にある群集から一人の男が縄をまたいで、刑場に降り立ちます。
男は、子どもの頃の面影を色濃く残すおひめさまの首を拾い上げました。
血に汚れることすら厭わず、生首の唇を自らの首に触れさせて、男はおひめさまを抱きしめたのです。
――それより後のことは、全て嘘なのでしょう。
記録は散逸し、インクすら滲んで読めなくなるような昔のおはなしです。
おひめさまと少年の故郷が隣国により蹂躙されたことも。
長く時間をかけ、戦場にて思想を説いた青年も。
敗戦の裏で密かに行われていた、一人の騎士の裏切りも。
後の世において、おひめさまが処刑された土地には吸血鬼の伝説が残されています。
発掘されたその遺体には首がなく、胸には杭が打ち込まれておりましたけれど、そんなものは所詮、紙を汚すインクとなんら変わりありません。
ほんとうのことは、ただ一つ。
切り落とされたおひめさまの首は、目を伏していましたけれど、男に抱き上げられたその時、確かに両の目を見開いたのです。
声なんて出せるはずもありません。ですから、おひめさまは精いっぱい、唇と舌を震わせました。
目も当てられないようなひどい人生でありましたけれど、一生に一度のお願いだけは、確かに叶えられたのです。
“あのこを連れてきて。あのこと一緒だったら、わたしは我慢するから。"
なつかしい藁と土の匂いの中で、おひめさまは笑みを浮かべながら、静かに目を閉じました。
たったそれだけのことが、ほんとうに、ほんとうのことだったのです。