8、過保護な魔王の勇者育成
闇深きその地にそびえ立つ『魔王城』。
幾重の防壁と位相結界により守られた難攻不落の城内には、とびきり広い謁見の間が存在する。
稲光のみが照らす暗きその場所にある深紅の玉座には、一人の魔王が座していた。
第六魔王アンジェリカ。
冷たき美貌と冷酷なる性格を持つ、魔族界の異端児にして、歴代最強と名高い魔王。
彼女は、小柄で細い体つきには大きすぎる玉座にかけて、肘当てに乗せた水晶をながめている。
「ふふ……」
白い肌の中に浮かび上がる真っ赤な唇をゆがめ、彼女は笑う。
深くスリットのはいった黒いドレスから、長く細く白い脚をのぞかせ、組み直す。
頭蓋の左右に生えた黒い角に指を這わせ、時折赤い髪をいじりながら、楽しげに水晶を見つめる、その姿……
たった一人、玉座の横に侍ることを許された魔人宰相は、恐怖した。
かの美しき冷血なる魔王アンジェリカが、これほど楽しげにほほえむ姿など、そうそう見られるものではない!
そして彼女が口元をほころばせる時、幾多の人類がおぞましき非業の死を迎えるか、魔族内部で彼女に反抗的な者が、口にするのも恐ろしき方法で見せしめにされるかの、いずれかなのであった。
そして――魔王アンジェリカは、極めて気まぐれだ。
魔人宰相はその能力と実績で側近を任されているが……
いつ、アンジェリカの『気まぐれ』が自分を襲わないとも限らないのだ。
「ま、魔王様……我が麗しき、恐ろしき、アンジェリカ様……いったい、水晶でなにをご覧になっていらっしゃるのでしょう……?」
どうにか震えを抑えながら、問いかける。
アンジェリカは薄い紫の瞳で魔人宰相をチラリと見ると、水晶の『正面』を向けてきた。
目を伏せ一礼してから、拝見する。
と、そこには、どこにでもいそうな、人間の若い男が映っていた。
世界のすべてを見通す遠見の水晶だ。
どうでもいい人間だって、それは、写せるのだろうが……
「この脆弱そうな若者が、どうされました?」
「これは『勇者』だそうだ」
言いながら、魔王アンジェリカはまた笑う。
魔人宰相とて情報収集は怠っていないが、遠見の水晶を自在に扱うアンジェリカよりも、その収集能力は劣る。
勇者と言われても、どういうものなのだか、わからない。
「恐れながらアンジェリカ様、勇者とは……?」
「我を倒す者だそうだ。……ふん。人間界の、片田舎の、民話にすぎんがな」
「……アンジェリカ様を倒す……? しかし、この人間、ただのゴブリンにも手を焼いているではありませんか」
「そうだ。あまりに脆弱……人類と我らとでは、種としての力量が違う。腕力、魔力、耐久力、回復力……どれをとったところで、人類は魔族にはるかに劣る……」
「左様で」
「素晴らしいとは思わんか?」
「は。……は?」
「いや、素晴らしい、ではないな。なんだろう、この感情は……うまく言えないのだが……この人間はな、これだけ脆弱な身でありながら、我を本気で倒せると信じ、冒険を始めたのだ」
「はあ」
「きっと、この者が魔王を倒すなどと、誰も信じてはおらん。村は精一杯の物資を持たせ旅立たせたが、人類の王族には冷たくあしらわれ、彼の可能性を信じる者は誰もおらず、彼に力を貸す者もほとんどおらん。『魔王を倒すんだ』と言おうものなら、『頭がおかしい』と扱われる……」
「なるほど。人類も道理をわきまえているようですな。魔王様に勝てる人類などいない……連中はじわじわと己の支配地域を我ら魔族に削られるのを、手をこまねいて見ているだけしかできないのです」
「しかし、彼は本気だ。その本気をないがしろにすることは許さぬ」
アンジェリカの声には、多少の不機嫌さがあった。
魔人宰相はビクリとし、慌てて頭を垂れる。
「は、ははあ! 失礼いたしました!」
「……そうだ、そうだな。彼は本気だ。まだ弱く、誰も彼が我に及ぶものと信じてはおらん。それでも彼は信じ続けている……他者の評価を求めてはいない。英雄願望さえない。『ただ、使命を果たし、世界を救う』――人類世界を我ら魔族から救うことだけを望んで、ああして己を鍛え続けているのだ」
「……」
「素晴らしい、ではない。素晴らしいなどという表現では物足りない。彼は、ただ一人で……誰も信じぬことを信じ続け、己の中の確信だけを頼りに、進んでいる……ああ、そうか、そうなのだな。我は、彼に、我と近いものを感じている……」
「……」
「彼の助けになりたい」
アンジェリカの発言を、魔人宰相はしばし理解できなかった。
理解したあとには、納得できなかった。
「ま、魔王様! 恐れながら! 恐れながら申し上げます! こやつは、あなた様を倒そうと望む者なのですぞ!? それを助けたいなどと……」
「ふふふ……この魔王アンジェリカ、欲するモノはすべて手に入れてきた……ならばこやつも例外ではない」
アンジェリカは玉座から立ち上がった。
遠見の水晶を握り、魔人宰相を振り返る。
「我は正体を隠し、『勇者』を育てる。そして――『敵』を手に入れるのだ」
「魔王様! お待ちください、魔王様!」
「邪魔すること、まかりならん。……ククク……まあ、だが、この勇者も『男』のようだ。どこぞの将軍どものように、我の美しさに骨抜きにされねばよいのだがなあ」
ベロリ、とアンジェリカはなまめかしく舌を唇に這わせる。
その動作から醸し出される色香だけで、男女を問わず、すべての魔族が正体を失うのだ。
かくして、魔王アンジェリカは勇者育成のために玉座を離れ――
◆
――翌日、早速帰ってきた。
「……あ、あの、魔王様……勇者育成はどうなさったのです……?」
魔人宰相は玉座の上で膝を抱えて座る魔王に問いかける。
魔王は膝に乗せていた顔をわずかにあげ、薄い紫の瞳でちらりと魔人宰相を見て――
「……体がおかしくなっているので、一度帰った。大丈夫になったらもう一度育成に向かう」
「お体が!? さ、さっそく御典医を!」
「待て! ……我にはわかる。これは、そういう状態異常ではないのだ……勇者と対面すると動悸が激しくなり、勇者のことを考えれば胸が苦しくなる……つまり、原因は勇者なのだ」
「排除いたしましょう!」
「ダメ!」
魔王アンジェリカは、普通の少女のような声を出した。
これには魔人宰相もおどろき、言葉を失う。
そんな声には、アンジェリカ自身おどろいたようで、しばし沈黙していたが……
「……とにかく、勇者に手を出すな。あれは、我の獲物だ。手を出したら許さんからな……」
「は、ははあ!」
「……むう……ダメだ……勇者から離れれば治るかと思ったが、無理そうだ。我は再び勇者のもとへ行き彼を鍛える……早く彼のそばに戻りたい……」
魔王はふらふらと立ち上がり、再び玉座をあとにした。
残された魔人宰相は、彼女の小さな――普段は膨大な魔力と存在感により、大きく見えるのに、今はとても小さく見える――背中を見送り、つぶやく。
「いったい、魔王様はどうなさったのだ……?」
――そう、彼らは、知らなかった。
魔王をおかしくしているものの正体――
恋という状態異常に対して、魔族はあまりに無知だったのだ。