10、ファンタジーに滅ぼされた世界より、彼女と再び出会うまで
ある終末の昼下がり、僕らは世界のはしっこに立っていた。
旧電波塔――東京タワーの上から見る世界は壮観で、思わず息を呑み、それから笑った。
滅びている。
そのはずだった。
なにせ僕らは、とっくに近場で『滅びた街』を見ていたのだ。
ビルは崩れ、マンションは折れていた。
僕らは朽ち果てたコンビニを何軒もまわって食糧や水を手に入れたし、そのたびに『やつら』――ファンタジー世界から抜け出てきたとしか思えない化け物に追われ、逃げ惑った。
仲間が減るたび、自分の無力さを噛みしめて。
少なくなっていく人類同士で、それでもいさかいが消えないのを、冷笑しながらながめているしかできなかった。
ひとたび地上に降りて、鉄骨が剥き出しになったガレキに触れでもすれば、たちまち滅び行く世界を駆け抜けた思い出が蘇るはずだ。
それらは胸を打ち、心を抉り、とっくに空いている穴に風の音を鳴らすだろう。
でも。
高い場所から見る景色は、おどろくほど綺麗で。
東京タワー。
それも展望台なんていう低い場所じゃなくて、本当に、てっぺんの近くだ。
この場所から見ればすべてがなめらかに見えた。
地上にあったザラつきは、この場所からは観測できない。
豆粒ほどの家屋たち。鉛筆よりなお細いビルたち。
崩れた建物の感触も遠景からでは思い出せない。
ここから見える景色は、まだ世界が滅んでいなかったころと変わらない、平和なものに見えた。
それが錯覚だとしても、在りし日のなんでもない思い出を思い起こすことができた。
だから僕らは――
僕と彼女は、笑って、泣いた。
「よかったでしょ、最期に、のぼってみて」
強い風に吹かれながら、真横で彼女が言う。
僕は景色に目を釘付けたまま、あいまいにうなずいた。
三百メートルほど下で、あくせく生きていたのがずっとずっと昔のことのようだ。
ただ高い位置に立っただけなのに、『滅び』が起こってから今まで生き抜くことに費やした疲れも、三十分以上はかけて階段をのぼってきた足の疲れも、すべてが綺麗に漂白されていく。
「……ああ、よかった。よかった。本当に、よかった」
何度も何度もうなずいた。
いくらうなずいたって足りなかった。
左手を握られる。
僕はようやく、彼女を見た。
彼女はちょっとだけ背が高くて、僕はちょっとだけ背が低い。
だから、真正面から、同じ高さで見つめ合うことになった。
長い黒髪、黒い瞳。
制服のブレザー。
顔立ちは、『滅び』から今までの人生を過ごすうちに、だいぶ、大人びたような気がする。
長い限界生活の果てにいる彼女は、すべてがボロボロだった。
でも、なぜか、輝いて見えた。
最後まで生き抜いた彼女は、このうえなく美しい。
僕も彼女からそう見えているといいなと思った。
「どうする? まだ生きてみる?」
彼女は言う。
「いや、もういいかなって思ってるんだ」
僕は答える。
「そっか」
彼女は言う。
僕は、答えない。
代わりに、握られた左手を強く握りかえした。
僕らは静かに黙って、風の音に耳をかたむけて。
でも、話好きな彼女は、言葉を紡ぎ出す。
「私もまあ、ファンタジーはもうこりごりかな。……変な化け物が突然現れて、世界が滅びて、人がたくさん死んで……世はまさに世紀末って感じで! まあ、楽しかったのも否定はしませんけど? 毎日これは、ちょっと飽きるよね」
「まあね。生きていくの大変だし……食べ物も飲み物も、そろそろないしね」
「練馬とか行ってみたら、大根ぐらいあるかもしれないよ?」
「もうないでしょ。『滅び』からいったいどれぐらい経ったと思ってるんだか……ほんと、都心はコンクリートだらけで参るよね。自給自足もできやしない。……まあ、畑を作って一箇所でずっと過ごすだなんて、それこそ『やつら』が許してくれないだろうけどさ」
「あいつら、なんで来たのかな」
彼女の問いかけは、『滅び』が来てから、この世界で生きようとあがいていた人たちが、ずっと、口に出し、あるいは心に秘めてきたことだった。
『あいつら』
ある日空に穴が空いて、『化け物』が噴き出してきた。
それらは『ドラゴン』や『オーク』や『ゴブリン』や『スライム』としか呼べないものたちで……
ただし、ゲーム的なイメージとは裏腹に、途方もなく強かった。
スライムが、たった一匹で、大人数人をのみこみながらどんどん体積を増やしていく光景は、未だに夢に見るほどの衝撃だった。
ゴブリンは知恵のない印象を大きく裏切って、五人編隊で『群れ』からはぐれた者を的確に狙い殺す、戦術のスペシャリストだった。
オークは戦車砲さえはねのける耐久力と、棍棒一本で建物を吹き飛ばす腕力があった。
ドラゴンなんて。
高速で空を飛び、火を吐き、ミサイルを跳ね返す化け物など、現代人がどうにかできるものではありえない。
こうして高い場所に来ると、そのドラゴンに見つかる可能性は格段に跳ね上がった。
でも、僕らはそんなのかまわず、今、滅び行く世界のフチに立っている。
一歩踏み出せば転落しそうなギリギリの場所に、立っている。
一歩、踏み出すために、いる。
「ま、どうでもいいか」
彼女は笑った。
僕は――笑えなくって、
「恐くない?」
口を突いて出たのは、今、このタイミングで絶対にすべきではなかった問いかけ。
彼女は、でも、笑っていた。
「恐いよ」
「……やっぱりやめる?」
「やめない」
「……君は、勇気があるよね」
「それは違うよ」
「どう違うの?」
「私は勇気があるんじゃなくて、興味があるの。だって、これだけ変なことばっかり経験したのに、死ぬことだけは、まだ経験したことがないから。冒険して、……二人で、生き抜いて、あとはもうきっと、死ぬだけなんだよ、私たち」
楽しむような口調だった。
本心からわくわくしているような、笑顔だった。
ここまで生き抜いた理由にようやく思い至る。
彼女がいたからだ。
彼女の笑顔に救われていた。
彼女に手を引かれて、ここまで来ることができた。
化け物と遭遇したって、生存者同士のくだらないいさかいに巻きこまれたって――
誰一人、いなくなって。
二人きりになったって。
飢えも渇きも恐怖も疲労も、全部彼女に癒やされてきた。
だから僕らは生きてきて。
これから僕らは、死んでゆく。
彼女に手を握られていると、それは恐くもなんともない、当たり前のことみたいに思えた。
「……ああ、そうだ。僕さ、まだ、言ってなかったことがあると思うんだけど」
手を握りながら駆け抜ける中で。
僕と彼女、世界にたったひと組の男女となった流れで。
当たり前に抱いてしまって、わざわざ言葉にしなかった気持ちがあった。
僕は最期の瞬間を迎える前に、言うべきだと思った。
でも、彼女は、
「いいよ。だって、あなたが言ったら、私も言わないといけないし。……それはちょっと、なんていうか……照れくさいよね」
顔をちょっと赤くして笑った。
だから僕も、「そうだね」と笑って、
「じゃあ、行く?」
「うん。行こう」
僕らは世界の端っこから、たった一歩だけ踏み出す。
地面は消えて、浮遊感を覚えて、でも、高さが高さだけに地上に着くまでは少し時間があるようだった。
だから、最後に願う。
神様。
ファンタジーはもう懲り懲りです。
どうか『生まれ変わり』があるなら、もう、スライムとか、ゴブリンとか、オークとか、ドラゴンとかと、かかわりのない世界に生まれますように。
それから……
また、彼女と同じ世界に生まれますように。
そしたら今度は、最初に言おうと思います。
……僕は君のことを、どんなに好きだったかって。
――この世界最後の男女の死亡を確認。
――生存ボーナスの計上を完了しました。
――おめでとうございます。あなたたちは『選定』に勝ち残りました。
――願いを叶え、新たなる世界で新たな人生を始める権利が与えられます。
――ただし。
――その二つの願いを同時に叶えることはできません。
――ファンタジーか、彼女のいない世界か。
――どちらか一つだけ、選んでください。