3
コウが奥の部屋に引っ込んですぐに夜中の1時を知らせる音楽が鳴り響いた。美しい涼やかな波の音が、豊かなピアノの音色と共に部屋中に響く。ピアノ1つ1つの音が凛としていて疲れた頭と心に優しく強く触れてくる。ずっと画面を見ていた目を静かに閉じて鳴り響く音に意識を集中させると、肩から何か大きなものが落ちていく気がした。いつの間にか力が入っていたようだ。
「ルカ、少し休憩しよう。シンプルな報告書はあらかた片付いたから」
リュウガも自分の担当していた報告書をすべて入力し終えたらしい。いつものことだけど、本当に入力が速い。自分の机の上にあるまだ半分も終わっていない報告書を見ながらなんだか悔しくなって大きく息を吐いた。
「いいんだよ、ルカはそれで。ルカじゃないと入力できない報告書なんだから」
「?」
「もしかして、ルカもデータ入力は誰にでもできる仕事だと思っているのか?」
逆に、データ入力はそうじゃないのかとルカは首を傾げながらリュウガを見る。するとリュウガから意外そうな目を向けられて、思わず面食らってしまった。反射的に視線を外すと、リュウガは笑ったのか、柔らかな気配がする。そのあとで、そうだったんだなぁとのんびりした声が聞こえてきた。次の言葉がすぐやってくるだろうと思っていたのに一向に何も来ない。静かで少し居心地の悪い沈黙が続いた。
「あの」
「うん?」
なんだか落ち着かない沈黙に、ルカは堪らなくなって声をかける。思い切ってリュウガを見れば、気にした様子もないいつものリュウガがいた。
「データ入力って、誰にでもできる仕事じゃないんですか?だって、単純な仕事だし」
「そうか?」
「。。。そうですよ。そんなに考えることもないし」
「そうか?」
「そ、そうですよ。書いてあることをそのまま入力すればいいんですから」
真っ直ぐ見てくるリュウガの眼力は心の奥の何かをぐらつかせる。独特の迫力に押されながらも、自分は間違ったことは言ってない。ルカは気を取り直しながら思ったことを口にした。ルカの答えに、リュウガはまた、そうなのか?と念を押したように聞いてくる。強く何度も確認するように問いかけるリュウガに戸惑いながらも、データ入力は単純な作業だと答えた。
「そっかー。まあ、自分の良いところや凄いところなんて、自分が一番わかってないもんだよなぁ。あまりにも当たり前にできるから」
「え?」
リュウガは、きゅっと口元を引き締めるとパソコンの画面へ視線を戻し、勢いよくボタンを押した。バラバラに崩れた報告書を綺麗にまとめてコウの分と一緒に置く。じっと見つめるルカに休憩しようと笑いかけて、ゆっくりと席を立った。
「考え方や見方なんて人それぞれだけど、俺はデータ入力って、そんなに単純な作業だと思わないぜ」
「?」
「むしろ、過酷だと思う。それに、個性が目立つっていうか。人や物への深い愛がないとできないな」
「愛。。。ですか?」
意外な言葉が出てきたのでルカはもう一度確かめるようにリュウガに問う。うん、と軽く頷いているので、聞き間違いではないようだ。リュウガはいつも居心地のいい空間を用意してくれたり、気配りが細やかな人だから愛情深いんだなと普段から思っていたが、こうもはっきり言われるとなぜだか恥ずかしい。胸の奥からじわじわと湧いてくる落ち着かないものをごまかすようにリュウガの後ろに続いた。
部屋の中央には寛ぎスペースがある。もう3月に入っているので、今はこたつが置かれている。一足早くコウが電源を入れてくれていたので、ふかふかの布団をめくって足を突っ込めば、ほんわかと足元から暖かさが伝わってきた。愛とはどういうことなのか。話の続きを聞きたくてルカはリュウガに視線を向けてみた。
「ん?興味ある?」
「はい」
こたつの上にあるミカンを1つ取りながらリュウガは優しく笑って口を大きく開けた。素早く皮を剥いたミカンを放り込むと口をもぐもぐさせながら、例えばさ、と話を続けた。
「このミカン、俺、食べたよね。何てことない動作だけど、ただ食べるために、自分のために剥いて食べることもできるわけ」
「?」
「こう。。。ミカンを、ただのミカンだって思いながら食べるわけよ。小腹を満たすために」
「はぁ。。。」
リュウガの言いたいことがよくわからないが、とりあえず返事だけはしておく。リュウガから薦められてルカもミカンの皮を剥いてみた。
「そうそう、そんな感じ。データ入力もさ、ただの報告書だと思いながら入力することもできるのよ。与えられた仕事だから、それで給料もらってるから、とかさ」
「。。。。」
皮を剥いたミカンを見つめてみる。これをただのミカンだと思って、自分の小腹を満たすために食べる。リュウガが言った通りに思いながら口に入れて食べてみた。
「ミカンだ。ただの、ミカンです」
なんだか味気ない。食べることは当たり前のことだから、何の感情も湧かない。淡々と食べて、それで終わり、のような気がする。ルカはなんとなく寂しい気持ちになった。
「うん。ただのミカンだよね。だから、報告書をデータとしてしか見れないまま入力するんだったら、機械でもいいわけよ。人の手じゃなくてもいいわけ」
「。。。。」
「そういう報告書もあるよ。感情のない、熱が感じられない綺麗な情報。すんごく冷たい感じの、これでいいんでしょ、みたいな報告書」
そういうものもあるのか。不思議そうな顔をしたルカをリュウガは優しく笑う。剥いたミカンからもう一切れのミカンをちぎって口の中に放り込んだ。
「そんな報告書は綺麗だから、俺やコウがどんどん入力していく。報告書の中に込められた想いをしっかり受け取らなくてもいいからな」
「想い。。。」
「でもなぁ、あるんだよ。これは俺やコウでは無理だな、ちゃんと込められた想いを汲み取って、尊重しながら保存できる心と技術がないとダメだなって思うものが。勿体ないほどの、何かが込められてるなっていう報告書がさ」
リュウガはミカンの入っていた袋をルカの前に持ってきた。そこにはこのミカンを作った生産者の家族と豊かな自然の中で実っているミカン畑の写真がある。写真の隣にはこのミカンがどこで作られてどんな想いで生産されているか、簡単な説明が書かれていた。
「こんな風に作られたミカンなんだぁって思いながら、食べてみ。こう、目を閉じて、このご家族を思い浮かべて、雄大な自然の中で豊かに育ったミカンを。。。」
「えーと。。。」
そんなに大袈裟にやらなくても、リュウガの言いたいことがなんとなく伝わってきた。このミカンがどのように作られて運ばれてここにあるのか、考えながら食べてみろということだろう。ルカは軽く目を閉じて木の間に実っているミカンを想像しながら口の中に入れてみた。
「。。。美味しい。。。」
「うんうん」
「なんか、ただのミカンじゃない。このご家族とミカンが育った豊かな自然と、繋がってる気がする」
命をもらっているような気がする。先ほど食べた時よりも手に取ったミカンがとてつもなく大切なもののように感じて、ルカは心がほんわかと温かくなった気がした。
「データ入力もそんな感じだ。ただの報告書だと思って入力するのか、書いた人の想いを汲み取って大切に入力するのか。まあ、俺やコウはバシバシ自分の好きなように入力するがね」
残りのミカンを丸ごと口の中に入れてリュウガはむしゃむしゃと食べている。まるでさっき入力した大量の報告書をそのまま食べているような感じだ。面白いなぁとルカは笑った。
「入力するスピードは気にしなくていいよ。ルカに振り分けた報告書は、上の連中の興味を引かないみたいだから。それよりも、大切に、優しく、入力してやってくれ」
「はい」
リュウガと同じように残りのミカンをそのまま食べようとしたが、生産者や美しい大自然の写真を見てしまった後では、どうしても一気に食べることはできなかった。時間がかかっても、1つ1つ味わって食べていたい。ゆっくりと口に入れたルカをリュウガは穏やかに見つめていた。