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地下のひんやりとした静けさの中で二つの足音が響く。所々にある寂しげな電灯を頼りに暗い廊下を真っ直ぐ歩いた。今日はひどい大雨で資料を持ってきた営業の社員が、それはもうひどかったと嘆いていたが、地下であるこの廊下や書籍部の部屋には関係ない。暗闇が、地下の静かな土が。ひどい大雨からルカたちを守っていた。
「ああ、着いた着いた。それで、これをこうして」
先ほどの扉よりもさらに古びた金属製の扉の前で足音は止まる。薄暗い中でもぼんやり光る緑色の装置の前でコウはゆっくりと指を突き刺した。不思議な装置には電卓と同じ配列の数字が1~9まで並んでおり、その下に0と00のボタンも付いている。好きな数字を口ずさみながら、数字のボタンを押していくと、液晶画面にCLEARの文字が浮かんだ。
「次は網膜だよね。目薬をさす要領で」
「うん」
液晶画面から目を近づけろと指示が出ている。一歩前に出ると、コウは瞼を開いてさらに親指と人差し指で大きく開かせた。液晶からセンサーのような線が出てきて、コウの見開いた目を通過していく。しばらく検証していたが、軽やかな音ともにCLEARの文字が浮かんだ。
「今日のデータ入力だけどさぁ。やっぱ、甘いものが欲しいよね。それで、ちゃんと僕、生チョコの材料買ってきたの。一段落したら作ってあげる」
網膜の次は指紋だ。CLEARの文字が浮かんだ液晶画面が素早くひっくり返り、真っ暗い小さな穴が現れた。その穴に指を入れると緑色の液晶は黄色に変化した。ピーといういかにも機械的な音の後、金属製の扉の中で鍵が解除される音が響く。厳重な装置だ。セキュリティを徹底的にしているのには訳があった。
「嬉しいなぁ!コウの生チョコ、美味しいから手が止まらなくなる。そうだ、レイにも残してあげようよ」
「えー」
鍵の開いた扉をゆっくりと押せば書籍部の部屋だ。古びた扉を閉めて鍵が掛かるのを見届けると、コウは履いていた靴を脱ぐ。不満げに口をとがらせたコウを見ながら、ルカも笑って靴を脱いだ。
「わぁ。。。ここも、ふかふかじゃん。ボウちゃん、ちゃんと掃除機かけてくれたんだー。そうだ、隊長が買ってくれた布団用の掃除機!あれも使ったのかな?」
「そうかも。なんか、レイって不思議だよね。データ入力以外の仕事は、嬉々としてやってくれるのに」
「のに、ねーー」
履いていた靴下も脱いで、近くある可愛い篭に入れる。後からまとめて洗濯するためだ。今日は泊まりになるのでさっさと楽な格好になりたい。コウも同じ気持ちのようで、元々着崩していたスーツの上着を脱ぎながら自分の机へと歩いていく。ルカも自分の机の近くにあるロッカーへ歩いていった。
書籍部の部屋。地下の奥にある暗い部屋。元々他でやっていけない人材が溜まり場のように集まって誰にでもできる地味で単純な仕事を黙ってこなし、出世もない、評価もされない。つまらない寂しい部署。だと会社の人間は思っている。
書籍部の部屋からほのかないい香りがした。今日はみんなの安眠を願ったラベンダーとリュウガが好きな優しいローズの香りがほどよくブレンドされている。ほとんどの会社の人間が想像しているであろう、金属製の古びた壁紙はどこにも見当たらない。
冷たいと思われているギシギシした床も見当たらない。その代わり、あるのはふかふかで手触りのいい絨毯だけだ。裸足でも踏みしめると気持ちよく足元からリラックスできる。窮屈な靴から解放された足をルカは思いっきり伸ばした。
「今日の香りは少しローズが強いですね。もしかして、溢しちゃいました?」
外からは想像もつかないような快適空間の奥で一心不乱にパソコンと向き合う人影に話しかけた。
「まぁ、なぁ。ちょうどブレンドしてた時に電話がかかってきたんだよ。全く。俺が毎回精神を統一して、みんなの幸せを願ってブレンドしてんのに。空気読めっての」
手元の入力はそのままに口と目だけでルカに応える。迷いのないタイピングに自分もがんばろうとルカはお気に入りの部屋着をロッカーから出した。
今日は長期戦になる。ふわふわで優しい上下セットの部屋着にしよう。
「うん、湿度もいい感じ。これなら、集中できるかも」
爽やかな青色のラフな格好でコウもやってきた。臨戦態勢だ。バックから新しくもらった報告書を出すとそのままリュウガに渡す。リュウガは素早く受け取ると、パラパラ捲りながらざっと目を通した。
「これはお前がやれ、コウ。一通り入力しろ。一段落したらコーヒーと甘いものを頼む」
「オッケー♪」
「それから、これはルカだな。速さよりも丁寧に入力してくれ。病的なほど、細かすぎる」
「病的って。。。」
渡された報告書を受け取りながら思わず突っ込んだルカだったが、気にするリュウガではない。存分にやってくれ、と目で促され苦笑しながら席へとついた。パソコンに電源を入れるともらった報告書に目を通してみる。なるほど、コウが言っていた通り、事細かに得意先の好みが記されていた。読みながら入力するのも悪くない。好きな場所や好きなお菓子も殴り書きで書いてある。
「よっぽど必死なんだな。。。」
営業の社員には一人しか会ったことはないが、報告書を通してどれだけ必死で書いたかが伝わってきた。その思いは今回、営業の仕事として実を結んだかどうかわからないが、入力することでデータとしてしっかりと保存できる。時がきて誰かが検索し、思わぬ助けになるかもしれない。ルカは姿勢を正してパソコンへと向き合った。
「綺麗に、正確に、保存してあげる。きっと、いつか、明るい世界で必要とされるだろうから」
それまではこの地下で、この暗くて快適な空間で眠っていてね。
報告書から伝わってくる思いを感じながらルカは正確に情報を入力した。
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データ入力も佳境を過ぎて、あともう少しで終わりそうだ。シンプルでお洒落な時計が夜中の1時をめがけて針をガタンと進ませた。あと1分でコウお気に入りの白い鳩が12の後ろから飛び出してくる。秒を示す細い針は折れてしまったから、いつその時が来るのか検討もつかない。
「ふわ~~!!入力終了~~。なかなかの強者だったよ。量っていう強者がさー」
座っていた椅子の上で大きく両腕を伸ばしながらコウは満足げに息を吐く。どうやら一段落したようだ。入力し終わった報告書を綺麗にまとめて大きなクリップで止めると、勢いよく立ち上がりリュウガの元へとやってきた。
「はい、これ。チェックしてよ、隊長。それでさ、今日は何がいいの?カフェオレ?ブラック?」
まとめられた報告書とメールで受け取ったデータを見ながらリュウガは、そうだなぁと穏やかに口を開いた。営業時間の21時を過ぎて、電気代を節約するために灯したキャンドルが、柔らかな光を放ちのんびりと静かに揺れている。
「今日はカフェオレで。脳ミソ、全力で使ってるから」
「がんばってるねー」
注文を受けたコウが次はルカの元にやってくる。読みながら丁寧に入力しているので、少し時間がかかっているが、リュウガもコウも気にしない。がんばれ、とばかりにコウはルカの好みを聞いてきた。
「俺はホットミルクを。蜂蜜、ちょっとだけ入れて」
「了解ーー」
嬉しそうににんまり笑うとコウは自分の机のそばにあるロッカーから買い物袋を取り出す。中身を確認した後、部屋の奥へと消えていった。布のカーテンで仕切られた空間には書籍部のあらゆるコンセントから引いた延長コードが伸びていて、電子レンジやら、IHやらが綺麗に置かれていた。一応、水道も引いてある。
「今度、電気のアンペア上げてもらおーっと。それよりも、お風呂を付けてもらおうかなー」
書籍部はなかなかの快適空間だが、難点があった。浴室がないことだ。リュウガも何とか付けてもらうよう頼んでいるが、書籍部に浴室など意味がない、と却下され続けている。ここでお風呂に入れればさらに鉄壁だ。どんな徹夜でも乗り越えられる気がする。
「まあ、今でも十分、乗り越えてるんだけどねー」
最近宝くじが当たったとウキウキしていたリュウガから、5万円をむしりとって買った最新型の冷蔵庫を開けて、牛乳を取り出す。可愛いカップにゆっくりと注ぎながらコウは一人、うーんと唸った。
7まで書きました。アップします~~(*^^*)