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イトコノコ  作者: キヨモ
9/33

熱い背中 3

 高校に入ってはじめての圭介の夏休みは、すべてて部活に費やされた。

 中学から引き続き高校でも陸上部に入部したが、比較的ゆるかった中学時代に比べて高校では練習時間が長い。公立高校の為にグラウンドが一ヶ所しかなく、曜日や時間で細かく他の部と調整しているが、夏休みは盆休みと日曜を除いてほぼ毎日登校していた。

 すっかり日が暮れた道に、圭介が自転車のペダルを踏む音だけが聞こえる。昼間の日差しの中では感じないが、夜になると少しだけ秋めいてきたような気がした。


 ようやく家に辿り着くと、前かごに積んでいた大きなスポーツバッグを抱えて玄関の扉を開ける。今日は練習後に秋の新人戦のミーティングが行われた為に、いつもより帰宅が遅い。途中でパンを食べたがそんなもので成長期の男子の腹が満たされるわけでもなく、空腹を感じながら圭介は靴を脱いだ。両親が店をやっているので幼い頃から圭介は兄とふたりきりで夕食をとることが多かったが、今日は定休日なので母がいるだろう。夕飯は何だろうかと頭をめぐらせながら、まずは汗で汚れた練習着やタオルを洗濯機に放り込んで居間を覗いた。


「ああ、お帰り」

 圭介を出迎えたのは、母の浮かない顔だった。

「ただいま」

 短く答えた瞬間、来客の存在に気がついた。続いて出そうになった腹が減ったという言葉を何とか飲み込む。来客者は母の弟、圭介にとっては叔父にあたる人が、この春に結婚した相手だった。

「圭介、あんた帰りに志穂ちゃん見なかった?」

 母の質問に、圭介は眉をひそめた。目の前で表情を曇らせている人の娘である志穂子とは同じ学校だが、夏休みに入ってからは一度も会っていない。恐らく帰宅部であろう彼女が夏休みに登校する機会はなく、一学期以降彼女と顔を合わせていないのは至極当然のことだった。

「どうかしたの?」

 圭介はただならぬ雰囲気を感じ、低く尋ねた。


「志穂子が、帰って来ないのよ……」

 消え入るような声で呟いたのは、叔母だった。

「志穂ちゃん、友達に会いに前に住んでいた町に行って、まだ帰って来ないんだって」

 短い叔母の言葉を補足するように、母が言った。それを聞いて、圭介はそっと息を吐く。もっと最悪なことが起こったのかと思ったが、ただ帰宅が遅くなっているだけのようだ。壁にかかっている時計をちらりと確認しながら、圭介は口を開いた。

「もうじき帰って来るんじゃないですか? 久しぶりに友達に会って話が弾んでるのかも知れないし、もしかしたらもう家に着いてるかも知れないですよ」


 圭介の知る限り、女子とはお喋り好きの生き物だ。学校でも、一日中何をそんなに喋っているのかと思うくらい話し続けている女子のグループをよく見かける。志穂子はあまり口数が多そうには見えないが、それもあくまで圭介がたまにちらりと見かけるだけの印象だ。ましてや気心知れた幼馴染と久しぶりに再会したら、話が弾んで帰りの電車に乗り遅れたとしてもまったく不思議はないだろう。

「夕飯までには帰るって言ったのに、遅いから気になって向こうの友達の家に電話したの。そうしたら、志穂子とは五時頃に別れたって言うのよ」

 叔母の言葉に、圭介はもう一度時刻を確認する。彼が子供の頃からそこで時間を刻んでいる時計の針は、八時半を指していた。以前聞きかじった話では、叔母たちはここから二時間ほどのところにある町に住んでいたらしい。友人と五時に別れたのなら、もうとっくに帰っていても良い時間だ。


「家に帰ってわたしが居なかったら心配するから、書き置きを残してるの。圭くんちに居るから、帰ったら携帯鳴らして頂戴って」

 叔母は握りしめている携帯に視線を落とすと、ぽつりと呟いた。

「携帯にはかけてみたんですか?」

「あの子には携帯を持たせてないのよ。特にねだられたこともなかったし」

 まるで言い訳をするかのように、叔母は消え入りそうな声で答えた。重い沈黙が広がる。コチコチと、古びた時計が刻む音だけが響いていた。



「今日、あの子の誕生日なの……」

 不意に、ひとりごとのように叔母が呟く。その口調はまるで、自分の娘が帰って来ない理由がそこにあるかのようだった。母がそっと、叔母の肩に手を置いた。

「ねえ、圭くん。あの子は、志穂子は学校でどうだった? 楽しそうにしていた?」

 じっと手元の鳴らない携帯を見つめていた叔母が、縋るように圭介を見上げた。

「……はい。クラスが違うから詳しくは知らないけど、いつも友達と一緒でした」

 動揺している叔母を少しでも安心させたくて、ぎこちなく言葉を紡ぐ。圭介のその言葉に嘘はない。小学校からの腐れ縁である太一を訪ねてたまに志穂子のクラスを覗くことがあるが、いつも恵と美奈と一緒にいた。中学の時に圭介とクラスメイトだったふたりは賑やかで、少し志穂子とタイプが違うような気はしたけれど、常に一緒に行動して仲が良さそうに見えた。

 叔母に対してそう答えたけれども、その瞬間圭介の脳裏に、ぼんやりと佇む志穂子の後ろ姿が浮かんだ。


「ちょっと俺、駅まで見て来ます。駅までは自転車ですか?」

 叔母の動揺が伝わったのか、それとも脳裏に浮かぶ彼女の残像が不安を掻き立てるのか。まるで一滴垂らしたインクがじわじわと広がるように、圭介は漠然とした胸騒ぎを感じ始めていた。

「朝出る時は雨だったから、歩いて行ったの。もう遅いから、バスで帰って来るかも知れないわ」

「それならその方が良いです。連絡があれば俺の携帯鳴らして。見つけたら、俺もすぐに連絡入れるから」

 最後は母に告げて、スポーツバッグから携帯を取り出すとジャージのポケットに突っ込んだ。

「圭くん!」

 居間を飛び出そうとしている圭介の背中に、叔母が声をかけてきた。振り返ると、両手で携帯を握りしめたまま立ち上がっている。

「迷惑かけてごめんなさい。宜しくお願いします」


 鍵をさしたままにしていた自転車に乗ると、圭介は駅へ向かわずにまずは志穂子の家へと向かった。圭介と志穂子の家は自転車で十分ほどの距離があり、駅からの方向が違うので直接向かうとすれ違う可能性が高い。夜風を切るように自転車を飛ばすと、普段の半分程の時間で志穂子の家に着いた。自転車から降りて真新しい家を見上げてみるが、どの窓からも明かりは漏れていない。念の為にインターホンを押してみても、暗闇の中でしんと静まりかえったまま反応はなかった。

 再び自転車にまたがると、今度は駅へと向かう。志穂子がバスに乗らず歩いて帰って来るとすれば、この道のどこかで出会える筈だ。

 遠くから、救急車のサイレンの音が微かに聞こえる。圭介はペダルをこぐ足に力を込めて加速した。

 真夜中でもあるまいし、九時になるかならないかのこの時間に家に帰らないからと言って、大騒ぎすることはないのかも知れない。その角の先に、母の心配も知らずに家路に向かう志穂子の姿があるかも知れない。けれども圭介は、脳裏に浮かぶ六月のある朝の風景を、追い払うことができなかった。



 圭介が所属する陸上部では毎日夕練が行われ、月曜と木曜は朝練も課せられている。六月のその日は、前日の夜に降った雨のせいでグラウンドのコンディションは最悪だった。雨は明け方に上がっていたが、とても練習できる状況ではなく、屋内練習に切り替えとなった。屋内と言ってもひとつしかない体育館は別の部が使用しており、雨天時はもっぱら特別棟を利用している。朝の特別棟は人の利用がない為、一階から四階まで階段の昇降を繰り返したり、廊下でストレッチや筋トレを行うのだ。

 そうやってトレーニングをしているうちに、圭介は踊り場の小窓からひとりの女子生徒が見えることに気づいた。彼女は予鈴よりも三十分以上早い時間に、特別棟の裏手にあるベンチにひとり腰かけていた。

 桜の枝から伸びる青々しい葉の陰になって、それが誰かはわからない。けれども圭介は、じっと佇む彼女の様子がなぜか無性に気になった。


 いつものように予鈴の十五分前に練習を終え、着替えの為に部室へと向かう。同じ一年の仲間と談笑しながらちらりとベンチの方を見やると、そこに座っていたのはぼんやりと空を眺めるいとこだった。彼女は本を読むでもなく、音楽を聞くでもなく、まるでただ時間が過ぎ去るのを待っているかのようにじっとベンチに腰かけていた。

 次に特別棟で朝練をした日は、朝から雨が降っていたので屋根のないベンチには誰もいなかった。だから、志穂子があの日たまたまあそこに居たのか、いつもあそこに居るのかはわからない。けれどもあの後ろ姿は、いつまでも圭介の脳裏から離れなかったのだ。




 最後の角を左に曲がると、ようやく駅が見えてきた。駅舎の中からぱらぱらと人が出て来るが、志穂子の姿はない。圭介は自転車をとめると、母から連絡が来ていないか携帯を確認した。けれども着信履歴も新着メールも残っておらず、つまりはまだ志穂子が帰っていないということだ。溜息をついて再び携帯をポケットへ押し込むと、圭介は大股で駅の構内に入って行った。

 毎日利用している駅は、何も変わりがなかった。改札脇の小さな売店は閉店の準備を始め、仕事を終えたサラリーマンが重い足取りで改札をくぐって行く。狭い駅構内をぐるりと見まわし、最後に売店の向かいに置かれているベンチで視線が止まった。 そこには待合所と書かれた札が掛かってはいるがそんな大層なものではなく、ただ長椅子がふたつ垂直に並べられているだけだ。


 その一番端に、志穂子はちょこんと腰かけていた。あの六月の朝のように、何をするでもなく、ただじっと宙を見つめながら座っていた。

「志穂子!」

 思わず呼んだ名前に込められた感情は、安堵と、そして苛立ちだった。娘を心配して携帯を握りしめていた叔母の姿を思い出す。

 圭介は大股で近づくと、事態を掴めずに呆然と自分を見上げている志穂子を睨んだ。

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