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イトコノコ  作者: キヨモ
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手探りの関係 2

「ただいま」

 玄関を開けると、カレーの匂いが漂ってきた。今年の春から志穂子の環境は劇的に変化したけれど、家に帰れば母がいるというのは嬉しい変化だ。

 靴を脱いでいると、ぼそぼそと人の声がした。誰か来客だろうかと思いながら足元を見やるがそれらしき靴はなく、そのままリビングに入ると母は電話中だった。会話の邪魔をしないよう声を出さずに口だけ「ただいま」と動かすと、志穂子はそのまま洗面所へ向かおうとした。

「志穂子が帰って来たの。うん、今代わるから」

 足を止めて振り返ると、母が志穂子に向かって受話器を差し出していた。

「おばあちゃんよ。さっき筍が届いたの」

 差し出された受話器を受け取りながらキッチンに視線を向けると、大鍋で筍の灰汁抜きをしている最中のようだ。竹林を所有している近所の人から分けて貰った筍を、祖母はこの時期になると毎年送ってくれる。ぬかも必ず一緒に入れてくれるので、届いたらすぐに灰汁抜きをし、水につけて保存しておくのだ。


「もしもし、おばあちゃん?」

『志穂子かい?』

 受話器の向こうから、聞き慣れた声がした。

「うん、筍ありがとう。おばあちゃん、元気?」

『ああ、変わらず元気さ。志穂子は高校に慣れたかいね?』

「うん、だいぶ慣れた」

 そう答えると、そうかいそうかいと頷く声が聞こえる。けれども、そのあとの会話が続かない。何かを言い淀むような空気が伝わってきて、志穂子は慌てて話題を探す。けれども志穂子が次の話題を見つけるよりも先に、祖母が躊躇いながら質問を口にした。


『……藤原さんとは、上手くやってるかいの?』

 背後で鍋が吹きこぼれる音がする。キッチンを振り返ると、母が慌ててガスの火を弱めていた。

「うん、上手くやってるよ」

『そうかい、それは良かった』

 まるで自分を納得させるように、祖母が電話の向こうで何度も呟く。志穂子は祖母に気づかれないように、小さく溜息を漏らした。

『志穂子』

 やがて思い切ったように、祖母が志穂子の名前を呼んだ。

『辛いことがあったら、ばあちゃんと住んだら良いからの』

「大丈夫だよ」

 志穂子は努めて明るく言った。祖母の言葉を何気ないふりをしてさらりと流し、高校生活について思いつくままに語った。祖母もそれ以上は何も言わず、友達はできたかとか勉強は難しいかとか、当たり障りのないことを尋ねてくる。やがて話題が尽きた頃、どちらからともなく電話を切った。


「あら、終わったの?」

 志穂子が背後から鍋を覗き込むと、気配を感じていなかったのか母が少し驚いたように尋ねてきた。ちょうど竹串を刺して、茹で具合を確認しているところだった。

「うん」

「おばあちゃん、何て言ってた?」

 何気ない母の質問に、志穂子はどきりとした。

「うーん。友達と仲良くやってるかとか、勉強についていけてるかとか、高校のことを色々」

「そう」

 あっさりそう言うと、母は火を消した。

「ねえ、お母さん。今年は何にする?」

「そうねえ、若竹煮と筍ごはんは外せないわよね。筑前煮もしたいし」

 毎年筍が届くたびに、何か新しいメニューに挑戦しようとふたりでレシピを調べてみるのだが、結局いつも定番に落ち着いてしまう。尋ねてはみたものの、きっと今年も同じものを作るのだろう。けれどもそれがベストに思えて、志穂子に異論はなかった。

「そうだ、冷めたらあとで金澤さんのところに届けて来てよ。圭くんとこにもって、おばあちゃん今年は多めに送ってくれたの」

「うん……」

 確かに今年はいつもより多い。志穂子は小さく頷くと、着替えて来ると言ってソファの上に投げ出していた学生鞄を手に取る。

「今晩はもうカレー作っちゃったけど、明日は筍ごはんにするからね」

 階段を上がる志穂子の背中に向かって、母の弾んだ明るい声が追いかけてきた。




 ゴールデンウィークも終わり、日ごとに昼間の時間が長くなってゆく。もうすぐ七時になろうかというのに、まだ西の空はほんのりと赤く滲んでいた。

 赤と紫が混ざり合った夕暮れの中、志穂子は自転車をこいでいた。前かごには筍が入ったタッパーがあり、自転車の振動に合わせてカタカタと揺れている。家から十分程走ると、紺色ののれんを掛けた小さな店が見えてきて、志穂子はその前に自転車をとめた。年季の入った引き戸の奥からは黄色の光が漏れており、食欲をそそるソースの匂いが漂っている。タッパーの入った紙袋をさげた志穂子は、自転車を降りてしばらく逡巡していた。

 そろそろ夕飯時で、店内は混んでいるかも知れない。店に顔を出すのは邪魔になるかなと躊躇しながらも、この時間に家にいる確率が一番高いのは彼なのでそちらも尻込みしてしまう。“お好み焼き かなざわ”という屋号が染め抜かれたのれんが掛かっている店の入り口と、その脇にある“金澤”という表札が掛けられた玄関の間を行ったり来たりしながら、志穂子は薄闇の中ぐずぐずと悩んでいた。

 ようやく意を決して紺色ののれんをくぐる。けれども、引き戸の奥は拍子抜けするくらい静かだった。


「いらっしゃいませ」

 入口が開く音を聞きつけて、店の奥から快活な声が響いてくる。

「こんばんは」

 おずおずと足を踏み入れて挨拶すると、志穂子はくるりと店内を見渡した。少し時間が早いのか、端の席にサラリーマンと思しきスーツ姿の男性がふたり居るだけだった。

「あらまあ、志穂ちゃんじゃない!」

「おお、いらっしゃい」

 大きな鉄板の向こう側で、店主とその奥さんはほぼ同時に手を止めて声をあげた。ずっと一緒に働いているとタイミングも似てくるのかなと、どうでも良いことを考えながら志穂子はぺこりと頭を下げる。

「祖母から筍が届いたので、おすそわけに来ました」

「あら、嬉しい」

 彼女はそう言うと、本当に嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。

「あらまあ、こんなにたくさん頂いて良いのかしら?」

「はい。金澤さんちの分もって、今年はいつもより多めに送ってくれたので」

 手渡した紙袋の中身を覗いた彼女は驚いたように尋ねてきたが、志穂子がそう答えると、恭しげに紙袋を目の高さまで上げて頭を下げた。

「ありがとう。じゃあ遠慮なく頂くわね。灰汁抜きまでしてもらって嬉しいわ」

「志穂ちゃんのおばあさんとお母さんには感謝だな」

「うちは皆、筍が大好きなのよ。早速、明日は筍ごはんでも作ろうかしら」

 挙げられたメニューが自分の家のものと同じだったことにくすりと笑いながら、ふたりの人好きのする笑顔に志穂子は少しずつ緊張の糸を解いていった。


「そうだ、志穂ちゃん何か食べて行かないかい?」

 突然、店主が思いついたように言う。

「そうよ、何か食べて行きなさいよ」

「せっかくですけど、今日はもう夕飯の準備をしてるので……」

 乗り気なふたりにたじろぎながら、志穂子は申し訳なさそうに謝った。

「そうよね。じゃあまた今度いらっしゃい。おじさん顔はイマイチだけど、作るお好み焼きはピカイチだから」

「悪うござんしたね、イマイチの顔で」

 拗ねたようにそう言う店主がまるで子供のようで、思わず志穂子は吹き出した。

「冗談抜きで、いつでも遊びに来てよ。ほら、うちはむさくるしい男ばっかりでしょ? ずっと女の子が欲しいと思ってたから、志穂ちゃんみたいに可愛い姪ができて本当に嬉しいの」

「はい。今度は時間がある時にゆっくりお邪魔します」

 じんわりと心に広がる温かさを感じながら、志穂子は小さく頷いた。そしてぺこりと頭を下げ、引き戸に手をかける。


「志穂ちゃん」

 扉を開きかけたその時、伯母はそう呼びかけるとカウンターの奥から志穂子の傍までやって来た。

「……志穂ちゃん、和彦はちゃんとやっているかしら?」

 言葉を探すように宙を見つめたあと、やがて彼女は小さく尋ねた。

「はい」

 志穂子は深く頷く。

「そう、なら良かった。のんびりした弟だけど、よろしくね」

「こちらの方こそ」

 頭を下げてきた伯母に対し、志穂子も慌てて頭を下げる。

「ねえ志穂ちゃん。わたしたち縁があって親戚になれたんだから、これからも仲良くして頂戴ね。おばさん、本当にあなたがこの町に来てくれて喜んでるのよ」

 今年の春は変化がありすぎて、志穂子はまだ上手く順応していない。けれど、この明るく優しい女性が新しい伯母になったことは、とても嬉しいことだと素直に思った。

「あと、圭介のこともよろしくね。無愛想な子だけど、仲良くしてあげて」

 志穂子が曖昧な笑みを浮かべていると、唯一の客がビールの追加を注文してきた。

「あの子も可愛いいとこができて、喜んでいるはずだから」

 志穂子の耳元に口を寄せて内緒話のようにそう囁くと、伯母は客に向かって愛想よく返事をする。そして、ぱたぱたと小走りにカウンターの奥へと戻って行った。


「お邪魔しました」

「ありがとう。暗いから気をつけて帰るんだよ」

「また遊びに来てね」

 挨拶を交わし、店を出る。カラカラと音をたてて引き戸を閉めると、志穂子はほっと息を吐いた。この春に新しくできた伯父と伯母は、とても優しい。けれども数えるほどしか会話をしたことのない大人に対し、気を使ってしまうのは仕方のないことだった。


 ほんの僅かの間に、空は完全に夜の色に塗りつぶされていた。

 志穂子はジーンズのポケットから自転車の鍵を取り出し、カチャリと差し込む。スタンドを蹴り上げてやって来た方向へとハンドルを向けると、前方にぼんやりとした黄色い光が見えた。自転車のライトであるその光は結構なスピードであっという間に近づいて来て、小さくブレーキ音を鳴らしながら志穂子の目の前で止まった。店の明かりが届く範囲の先の暗がりにいた為、その人物は志穂子に気づいていなかったらしい。黒のジャージに身を包んだその人物は、彼女の姿を認めると思わず固まった。

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