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イトコノコ  作者: キヨモ
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手探りの関係 1

 志穂子がはじめて彼に会ったのは、秋の終わりの頃だった。母親に促されて名乗った彼はお世辞にも愛想が良いとは言えなかったけれど、不思議と不快な感じはしなかった。

 親同士の会話が弾む中、向かい合って座る志穂子と彼の間に会話は無い。沈黙の中、ちらりと彼の表情を窺った。不機嫌そうではなかったが楽しそうにも見えず、感情が表れない表情からは何を考えているのかさっぱり読めなくて、志穂子は無意識のうちにじっと彼の顔を凝視していた。

 不意に、視線が交錯する。けれども何を話せば良いのか分からず、互いにさり気なく視線を逸らすと、気まずさを誤魔化すように目の前の料理に手を伸ばした。後日、あの店の料理は美味しかったねと母は言ったが、志穂子はさっぱりその味を思い出せなかった。


   ***


「おはよう、志穂ちゃん」

「おはようございます」

 未だ目が覚めきっていないぼんやりとした表情でリビングに入って来たその人と、志穂子はいつものように笑顔で朝の挨拶を交わす。

「志穂ちゃんは毎朝早いね」

 既に空になった茶碗と味噌椀を見やりながら感心したようにそう言うと、その人は緩慢な動きで椅子を引き、志穂子の目の前に腰かけた。一緒に住み始めて分かったことだが、見かけによらず朝は苦手らしい。


「昔から志穂は早起きなのよ」

 その人に味噌汁をよそいながら、何故か得意気に母が言った。

「へえ、偉いな。僕は昔から朝が苦手でね。毎朝、母さんに叱られてたよ」

 おどけた表情で肩をすくめる相手に対して微笑を浮かべると、志穂子はごちそうさまと手を合わせた。

「でも、いくら早起きだからって、今から登校するのは早過ぎやしないかい?」

「ちょっと早いけど、良いんです。この時間ならラッシュにあわないので」

 小首をかしげながら、志穂子は常に用意している答を返す。

「わたしも学生時代はラッシュを避けて早めに登校していたわよ。さすがに働き出してからは睡眠優先で、ギリギリに家を出てたけど」

「君たち母娘はすごいね。毎朝ダッシュで校門に滑り込んでいた僕には、到底できない芸当だ」

 その人は脱帽というように両手を上げると、目の前に出された豆腐の味噌汁に箸をつけた。その様子に声をあげて笑う母親に同調して志穂子も笑顔を見せ、身支度をする為に洗面所へと向かった。

 洗面所に三本並ぶ歯ブラシの中のピンク色のものを取り、歯磨き粉のチューブを捻り出す。そして歯を磨く間、志穂子は鏡の中の自分を見つめていた。

 ――上手く笑えていただろうか。

 そう自問しながら……。




 志穂子はいつも登校すると、教室へ行かずに特別棟の裏手へと向かう。入学当初は教室でひとりぼんやりとしていたのだが、誰もいない教室は居心地が悪く、やがて校内探検を始めた。そうして見つけたのが、特別棟の裏手にあるベンチだった。

 音楽室や美術室のある特別棟の裏手をわざわざ朝から訪れる人はなく、そこはいつも穏やかな空間が広がっていた。人影がないのは教室も同じだけれど、校舎内は何だか閉塞感を感じる。だから、予鈴より四十分も早く登校する志穂子がこの場所で過ごすことは、いつしか彼女の日課となっていた。


 本当はラッシュを避ける為にそこまで早く登校する必要はなかった。けれども早起きをしないと、あの人と家を出る時間が合ってしまうのだ。一緒に朝食をとり、譲り合いながら洗面所を使い、同時に家を出て駅まで向かう。想像しただけで息がつまりそうだった。

 いや、決してあの人のことを嫌っているわけではない。それは断言できる。良い人だと思うし、むしろ感謝している。きっと慣れていないからだと、志穂子はそう思った。いくら良い人でも、いきなり赤の他人と躊躇なく暮らせという方が無理な話だろう。もう少し慣れれば自然に笑顔が出ると思うし、構えずに会話をすることもできると思う。だから今は関わる時間を制限させて欲しいと、志穂子は心の中で言い訳をした。



「おはよう、志穂」

「おはよ」

 予鈴の十分前に教室へ向かうと、恵と美奈が声をかけてきた。入学から一ヶ月が経ち、クラスでは一緒に行動するグループが既に形成されつつある。この学校に志穂子と同じ中学の出身者はおらず、最初に話しかけてくれたふたりと何となく一緒に行動するようになっていた。

「今日の化学、自習なんだって」

 志穂子が席につくと、恵がさも重大なニュースかのように告げてきた。

「へえ、どうして?」

「風邪で寝込んでるらしいよ、安藤先生」

「そうなんだ」

「噂によると、安藤先生はひとり暮らしらしいし心配だな。お見舞いに行って、看病してあげたいよ」

 苦手な化学が自習になって内心ラッキーだと思っていた志穂子は、心配そうな恵にどう答えて良いか分からず曖昧に頷いた。志穂子のクラスの化学を担当する安藤は、昨年大学を卒業して赴任して来たばかりの教師二年目で、若く気さくな人柄の為に女子生徒から絶大な人気を誇っている。


「へえ、この時期に風邪なんて珍しいね」

「もう、相変わらず志穂はクールなんだから。ちょっとは安藤先生のこと心配しようよ」

 そんなこと言われても週に三回授業を受け持ってもらうだけの教師を、風邪くらいで正直そこまで心配できない。志穂子は困ったように苦笑を漏らした。

「いい加減にしなよ、恵。皆が皆、年上のおじさん好きだとは限らないんだからね」

 それまで黙っていた美奈が、横から口を挟んだ。ふたりは中学の頃からの友人らしく、いつも互いの物言いは遠慮がない。

「ちょっと、安藤先生はまだ二十五歳だよ。おじさん発言は撤回してよ」

「ハタチ過ぎたらおじさんじゃん。そんな絶対に振り向いてもらえない人を追いかけるより、もっと身近でカッコ良い人に目を向けようよ」

「おじさんじゃなくて、大人なんです。高校生の男子なんかみんな子供じゃない。だいたい、身近にカッコ良い人なんかいないでしょ」


 朝からハイテンションで言い合うふたりに呆れながら、志穂子は黙って一限目の古典の教科書を取り出した。慣れたとは言え、朝からこのテンションは少し疲れる。

「いるじゃん、田中先輩とか吉本先輩とか。B組の大村もカッコ良いし、あと圭介だっているじゃん」

 最後に出てきた名前に、志穂子は思わず美奈の横顔を見つめた。

「あんた、本当に圭介好きだね。まあ、田中先輩と吉本先輩がカッコ良いのは認めるけどさ」

「でしょー。てゆか、あれ圭介じゃん」


 美奈の言葉に、志穂子はぎくりと固まる。ちらりと教室の入り口を見やると、長身の男子生徒が顔を覗かせてきょろきょろと誰かを探していた。

「圭介!」

 そう名前を呼ぶと、嬉しそうに美奈が手を振った。目が合う前に、志穂子は慌てて視線を逸らす。

「うちのクラスに来るなんて珍しいじゃん。どうしたの?」

「太一いる?」

「鞄があるから登校してるとは思うけど。すぐに戻って来るんじゃない?」

「あっそ」

 そう言うと、圭介はあっさりと教室をあとにした。


「朝から圭介と喋れるなんて、超ラッキー」

「そんなに浮かれる意味が分かんない。相変わらず愛想のない奴だわ」

「そんなことないもん。ねえ、志穂?」

 こっそり安堵の溜息を吐いていた志穂子に、不意に話題が向けられる。

「へ?」

 油断していたので、思わず間抜けな声が漏れた。


「へ、じゃないよ。D組の金澤圭介くん、カッコ良いねって言ってたの」

「は、はあ……。同じ中学だったの?」

 美奈の質問には答えず、志穂子は先程から気になっていたことを尋ねた。

「そうだよ。わたしと恵と太一と、あと大宮が中三の時に同じクラスだったの」

 大宮志乃の名前を呼ぶ時だけ、美奈は少し眉を寄せた。窓際の席で化粧ポーチを広げて鏡を覗いている志乃の横顔を、志穂子はそっと見つめる。五月になってもクラスに馴染もうとしない志乃は異質な存在だったが、まさか美奈や恵と同じ中学だとは思わなかった。

「圭介は女子と殆ど喋らないんだけど、そこがクールで良いの。陸上部で運動できるし何気に頭も良いし、圭介がこの学校を受けるって聞いたから、わたし死ぬほど勉強したんだ」

「美奈はアホだったもんね。一緒に勉強してたわたしは教えるのに苦労したよ。まさか本当に受かるとは思わなかったけどさ」

「それは愛の力です!」

 そう言って胸を張る美奈を、志穂子はまじまじと見つめた。


「そんなに好きなんだ……」

「振られてるくせにねえ」

 志穂子の呟きに、美奈より早く恵が返した。

「え、振られたの?」

「うるさいよ、恵! いいのいいの、誰とも付き合わない硬派な圭介が好きなんだから」

「うわー、哀しい言い訳」

 涙を拭う真似をする恵を、美奈はむかつくと言ってぺしりと叩いた。

「高校の三年間でどうなるか分かんないじゃん。あーあ、ぶっちゃけ太一じゃなくて圭介が同じクラスだったら良かったのに」


「おまえ、最悪だな」

 不意に頭上で声がした。見上げれば、クラスメイトの太一が呆れたような表情で立っている。

「何よ、本音を言っただけだもん」

「開き直りかよ。同じクラスになっても、圭介はおまえみたいに煩い奴とは付き合わないと思うぞ」

 太一の辛辣な一言に反論しようとした美奈よりも早く、恵が思い出したように言った。

「そうだ、金澤があんたのこと探してたよ」

「おう、さっき廊下で会った」

 そこで予鈴が鳴った。ばらばらと、それぞれが席に着く。反論できなかった美奈は、腹いせに太一の脛に蹴りを入れて自分の席に着いた。痛てえと声をあげながら、太一も自分の席に戻って行く。これから一日が始まるというのに、志穂子はぐったりと疲労を感じていた。


(面倒くさい……)

 心の中で盛大に溜息をつくと同時に、担任が入室して来た。日直の号令で、のろのろと起立する。この学校を受けるんじゃなかったと、志穂子は激しく後悔していた。

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