猫の夢
この作品は弥生祐さん主催の「5分企画」参加作品です。「5分企画」もしくは「五分企画」で検索すると他の作者さんの素敵な5分小説を読む事が出来ます。
雄飛が猫の夢を見るようになって一年経つ。正確には猫の夢、というよりも叔父の修一の夢だ。だが不思議な夢を見始めたのは、きっとあの猫のせいだ。だから雄飛は不思議な夢を「猫の夢」だと思っている。それに断続的に「修一の夢」を見ているなんて思ったらなんだかきまりが悪い。
不思議な夢は、あの猫を拾ったのと同時に始まった。拾った、といっても実際に拾ったわけではない。夢の中での話だ。しかも拾ったのも雄飛の意志ではない。雄飛は動物の中でも猫、特に子猫が大の苦手だ。それも猫の性質や見た目が嫌というわけではなく、手触りが嫌なのだ。生温い毛も嫌だし薄い皮膚の感じも嫌、特に抱き上げた時に指先に触れる薄い皮膚の下の肋骨の感じなんて最悪だ。黒板を爪で引っ掻いた時と同じような寒気と虫唾が走る。これはもう生理的嫌悪なのだからどうしようもない。
それなのに気付いたら腕の中に子猫を抱いていた。指先にあの肋骨と柔らかい薄い皮膚の感じが鮮明に伝わってくる。反射的に雄飛はそれを振り捨てようとしてしまった。だが、子猫は振り落とされる事もなく、腕の中に抱かれたままだった。勿論、あの鳥肌の立つような感触も健在だ。つまり、身体は雄飛の意志では動かなかった。不審に思ってよく見れば、猫を抱く腕は自分のものではない。華奢な指先には薄ピンクのマニキュア、どうみても女のそれだった。腕だけではない。子猫が灰色の頬を埋めている胸には自分にはあるはずのない膨らみ。雄飛は酷く混乱した。その混乱をよそに女の身体は勝手に歩き始める。雄飛の意志ではその身体を動かす事は出来ない。……知らない女の身体に乗り移ってしまったのだろうか? でも感覚だけはきちんとある。抱いた子猫の重みも感じるし、あの嫌な感触も鮮明に伝わってくる。歩く際の視界の揺れ方も違って変な感じだ。その身体は雄飛の意志など無視して子猫を抱いたまま歩き続け、(メゾン・ド・オセアン)という名の白いタイル張りのマンションへと入っていく。「ただいま」と知らない女の声が頭の中に響いて、それを出迎えた人物が叔父の修一だった。……そこで目が覚めた。
目覚めてもしばらく指先に子猫の気味の悪い感触が残っていて、しばらくは夢だと思えなかった。しかしその感触も薄れてくると、知らない女、というよりも修一の彼女らしき人に乗り移るなんて非現実的すぎるという気分になった。どんなに見たものがリアルでも夢で当然だと思った。それにしても、何で叔父の夢なんか……
修一とは三年前に祖母の葬儀で会ったきりだ。彼は雄飛の母の年の離れた弟で、雄飛より十歳年上で今年三十になる。子供の頃は兄弟のように遊んでくれたが、雄飛が高校に入ったくらいからめっきり疎遠になった。疎遠になったのは修一が女の相手で忙しくなったからだ。殆ど彼の事など思い出す事もなくなっていたが、心のどこかでそれを恨む気持ちが少しあったのかもしれない。だから今更こんな夢を見たんだ。雄飛は自分の見た変な夢をそうやって分析して、自分の幼稚さに呆れた。
しかしそれからも「猫の夢」は何度も続いた。女の身体に入り込んで修一の部屋に居る。ついでに灰色の猫も。女の手が猫に触れる事に関しては心底嫌気が差したが、「猫の夢」を見るのは修一の日常をこっそり盗み見ているようで楽しい。夢だと判っているから罪悪感もない。雄飛の中で「猫の夢」を見る事は密かな楽しみになっていった。
「ユウヒが見てる」
どきり、とした。自分の上で修一がからかうように笑っている。バレたのか、と思った。視界が動いて灰色の猫を捉える。あぁ、あの猫の名前も(ユウヒ)だったな、と安心したのも束の間、修一の手が服の中へと入ってきた。「猫の夢」を見始めて一年、二人の情事に行き当たったのははじめてだった。雄飛はひどくたじろいだ。傍観の立場だったら、興味津々で眺めていたかもしれない。でも触れられる感覚も女の身体に圧し掛かる負荷も鮮明に伝わってくるのだ。夢から覚めて雄飛はしばらく自己嫌悪に襲われた。
次に見た夢は、もっと最悪だった。
「今朝午前八時頃、××県××市で轢き逃げがありました。被害者はA大学工学部二年生、館野雄飛さん。頭を強打して即死、警察は」
ベッドの中で寝そべったまま、テレビのニュースが告げるのを聞いた。修一は隣で眠っている。
目覚めるとじわりと嫌な汗が滲んでいた。単なる悪夢だ。雄飛はそう思うより他ない。誰かに相談するには馬鹿げすぎている。
「行ってくるよ」
「博多駅まで送ろうか?」
「いい。タクシーを呼ぶから」
「そう、気をつけてね」
沈んだ表情の喪服姿の修一が部屋を出ていくのを見送る。足元にユウヒが擦り寄ってきて鳥肌が立つ。
「ユウヒ、修一の甥っ子さんもね、あんたと同じ名前なんだって。もしかしたらユウヒは、甥っ子さんを亡くした修一を慰めるために、私に拾われたのかもね」
ふざけるな! 雄飛は心の中で叫んだ。女の手が猫の頭を撫でる度に苛々が募る。早く目覚めたい、必死に雄飛は夢を終わらせようと試みた。しかし夢だと分っていても目覚められないし、女の体から抜け出す事も出来ない。そして足掻き疲れた頃、電話が鳴った。女の手は受話器をとる。
「安藤修一さんのご家族の方ですか?」
「いえ、でもそのような者ですけど」
「先程、安藤さんの乗っていたタクシーが事故に遭いまして、今××病院に搬送されているんですが」
運悪く、そこで目が覚めた。単なる悪夢にしても後味が悪すぎる。どうせなら電話の内容を聞く前か、電話の内容を全て聞いてから目覚めたかった。念の為、母親に電話をして叔父の住所を訊いてみる。
「福岡県××市××メゾン・ド・オセアン302号室」
眠たそうな声で母は付け加える。
「あ、そういえば修一、去年から猫飼ってるらしいのよ。あんた猫大嫌いだからって苛めちゃ駄目よ」
……単なる悪夢だと思い込むわけにはいかなくなった。