『不安』と『期待』は、表裏一体
調子こいて長くなりすぎたので、変なところで切りました。
なるはやで続きの更新させていただきます。
日の出とともに、ふと目を覚ました。自室のグリーン系統のカーテンからチラつく光が、ひどく眩しい。
「……どこまでやったっけ?」
ベッドとは反対側に置いてる机の上で、ヒロはいつのまにか寝ていたようだ。頬に貼り付いていたB4サイズの原稿用紙を見れば、描き途中の漫画原稿が目に入った。
あぁ、いま二十四ページ目のペン入れか。締め切りまであと二週間……このあと全三十二ページの集中線、ベタ、ホワイト、トーンの作業が残ってる。間に合わないかもなぁ。
頭をガリガリ掻きながら起き上がれば、首も肩も腰も背中も、全部が痛い。フローリングの床にはらりと落ちた毛布を見たら、誰がかけてくれたのかすぐ思いついた。
その人物の顔を思い返して、その支援に報いるような結果を残せなさそうな罪悪感と、でももう少し睡眠時間を削ればいけるのでは?という葛藤も出てくる。
でも……『なにもしない』選択よりは、どれだけ醜くても足掻いた方がまだ誇れる。
「よし……!」
ヒロはまだ残っていた眠気を振り払い、机の上のライトボックスに載せた原稿用紙と付けペンで、続きを描き始めた。
「愛ちゃん、ちょっといいかな?」
分岐堂書店の名物店長が呼び出したのは、ここで一番後輩の大学一年生だった。
「なんですか、店長?おやつくださるんですか?」
最近は付け上がってきて本性が見えてきた愛が、乞食のようにたかってくる。成長期は止まっていそうなほど小柄だが、こと食べ物に関してはかなりがめつい。
店長は割と雑な緩すぎるルールで経営しているが、マメな部分もある。よく差し入れとしてお菓子を二階の事務室に置いていき、それらはだいたい愛が独占していることを誰も気づいていない。いや、ひとりいた。
「籠馬くんが今週から一ヶ月まるまる休みにしててね、珍しいからちょっと心配でさ」
店長が本気で心配している様子で、困ったように頭を掻いている。
愛の本性をこの分岐堂書店内で知っているのは、その籠馬ヒロだけだ。しかし彼は近頃、愛もシフトがまったく重ならないので不思議だなとは感じていた。
季節は少しずつ、春の香りを運んできている。愛ももうすぐ大学二年に進級予定だ。
しかし大学内にいる友達には、いろんな隠しごとや嘘を重ねている。大事な友達を裏切っているというわけではないが、まったく気のない男子学生のことを「好きなひと」にして『普通の大学生の女の子』というイメージを固めていた。
だけど本当の自分でいられて、仕事中も気が楽なのはヒロの存在があったから。女なのに女の子に恋をする自分、自分勝手で乱暴な自分。全部を受け止めてくれたのは、彼が初めてだ。
先輩としてもひととしても尊敬できる、兄のような大切な存在。そんなヒロの異変を、黙って見過ごすわけにはいかない。
愛は丸い顎に手を添えて少し考えてから、浮かんだ名案を店長に伝える。
「う〜ん、じゃあセンパイの彼氏に電話しておきますね!とんでもない害虫ですけど、なんか知ってるかも」
言いながら懐のポケットからスマホを取り出し、連絡先を探り始めた。
「ありがとう、頼むよ……ん?彼氏?」
うっかり自然と受け流すところだったが、籠馬ヒロは二十六歳の青年のはずだ。なんで『彼氏』?『彼女』の間違いでは?
店長の頭に突然もたげた疑問を、愛があっさり解決した。
「センパイの周りをウロチョロしてるゴミみたいな男が、片恋して無理矢理『期間限定の恋人』やってるんですよ〜」
「えっ……!?」
店長、齢五十七歳にして『若い子の謎文化』に初めて触れて絶句。
しかしそんな店長を他所に、愛がスマホの連絡先から『ゴキブリ』と登録されている番号へ手早くかけ始めた。コールが三十秒近く続いて切れてもなお、愛の鬼電は止まらない。
十五回目くらいで、ようやく通じたようだ。
「あ、ゴキブリ〜!センパイが絶賛生死不明らしいから、センパイのストーカーのアンタにちょっと確認したくて〜」
「ご、ゴキブリ……!?」
店長の声が驚愕で上擦った。
明るくて快活な可愛らしい声で『ゴキブリ』と電話……!?若い子のあいだではこれが普通のことなの!?
いろいろ聴きたいことはあるが、とりあえず電話の邪魔をしないよう黙っておくことにした。
しかし愛が持っているスマホの電話の向こう……『ゴキブリ』さんは、どうやらかなり怒っているようだ。
ときおり声が漏れて聴こえてくるのは、「黙れコバエ女!」とか「ボクいま三回目の会議が終わったばっかりなんだけど!」という怒声の次に、「ヒロがミイラになってたら、ボクもミイラになって同じ墓に入る……エジプトに新しいピラミッドを建造する用意しなきゃ……」というなんか規模や価値が大きく狂った悲しげな呟き。
愛に任せて大丈夫だったのか、女子学生に『ゴキブリ』と呼ばれるひとはいったいなんなのか、普段は穏やかな店長でもこころが揺れる。
しばらく『ゴキブリ』と電話を続けてスマホを懐に戻した愛が、店長へ深く頭を下げた。
「ごめんなさい店長、あの害虫すっごい期待外れの役立たずだったんで、早退してセンパイの家庭訪問してきます!」
「え……あ、うん……そうしてくれる……?」
店長はどうにか声を出したものの、あらゆる疑問が渦巻いている。
え?いや、早退はいいんだけど……この子がめっちゃ笑顔で『害虫』って呼んでるのが、あの純朴な籠馬青年の『彼氏』なの……?この多様化が進んだ社会においての理解はしてるつもりだから、籠馬青年がいいなら「恋人が男」であっても彼の考えや人間性を否定するつもりはない。しかし、『害虫』と付き合ってて大丈夫なの?
いや……私が『若い子の感性』に追いつけていないだけかもしれない。それに従業員といえどプライベートのことだ、深くは突っ込むまい。
店長がそう決めた矢先に、愛が年代物のタイムカードで退勤処理を済ませて帰り支度をしながら、新たな情報を追加した。
「店長ごめんなさい、いまから鈍臭い『ゴキブリタクシー』を待つんで、あと二十分くらい事務室にいてもいいですか?」
「最近の子どうなってるの!?」
我慢しきれなくなった店長の声が響き渡ってから、愛の宣言通り二十分ほどで分岐堂書店のある駅の古びたロータリーとまったく合わない、ほとんど新車のような黒いフェ○ーリが勢いよく突撃してきた。
なんだか不安になり、一時的に店を他の従業員に任せて愛を送り出す名目で気になる『ゴキブリ』さんと対面したが、どう曲がった思考で見ても完璧な美形の好青年で余計に混乱が生まれる。
愛がピカピカの黒いフェ○ーリ……『ゴキブリタクシー』に乗り込んで籠馬家へ向かう姿を見送ってから、店長がぼそっと独りごちた。
「最近の子の流行り?感性?……わからない。私も歳かな?」
車が黒いから『ゴキブリ』なのか?と無理矢理に納得できそうな理由付けをして頭から振り払い、とぼとぼと仕事へ戻った。
「で、なんでヒロは突然一ヶ月も休んでるの?」
憂は愛が教えた籠馬家の住所をカーナビに入力してから、分岐堂書店の前を後にして国道の方角へ車を走らせる。カーナビは画像でもルートを説明しているが、憂は一切見ることなくギアをチェンジして音声ガイドと方角を頼りに迷いのないハンドル捌きをこなしていた。
愛は定位置になっている後部座席で助手席側のシートに座って、実家の親が名義人でいつも座っている愛車よりフカフカの触り心地を楽しみながら呼吸するように悪口を語る。
「それがわかれば、タダ乗りとはいえこんな汚ったないタクシーわざわざ使わないって」
「おいコバエ、ボクはきちんと洗車も掃除もしてるし、車検も忘れず出してるからな」
憂の人形のような綺麗な肌に、怒りで青筋が立ち始めた。
新卒二年目でようやっと購入した愛車で、まだローンが残っている。しかしこの一年ほどで会社が急成長したのもあって憂自身の年収が爆上がりし、車だけでも繰り越し完済しようかと考えていた。
確かに車内は外観と印象の変わらない、清潔感と高級感を醸し出している。小さな埃やゴミひとつすらない、芳香剤のいい香りがしてまたしてもジャズが流れているので、コーヒーさえあればカフェの店内よりもゆっくりできそうだ。
しかし愛は容赦なくマニュアル車を忙しなくかつスマートに運転中の天敵を、ここぞとばかりに酷評していく。
「ただでさえ存在が害虫なのに、なんで黒なんか選んでんの?ゴキブリ呼び気に入ってんの?」
ぷーくすくす!とあからさまに嘲笑するコバエ女の憎たらしい顔を、運転中ゆえに殴りつけられないのがものすごくもどかしい。
「お前がボクをゴキブリ呼ばわりする前からこの車だよ」
ギアチェンジの際に、愛への怒りでギアを少し乱暴に扱ってしまった。コバエのせいで故障したら、修理代を請求してやろうとこころに決める。
というか、お前も何度もこれ乗ってるよね?
ヒロは免許がオートマ限定な上に運転技術が怖すぎるし、結婚を前提にした愛する恋人(彼曰くまだ仮だが)なのだから余裕で許せる。しかしこの女……先ほどからずっと、憂の愛車だから好きなだけ貶し続けていた。
「センス最悪だね」
ぷぷぷっ!という愛の嫌味たっぷりな笑みで、憂の顔に青筋が増えて痙攣し始めた。
黒一色なだけで、なぜここまで言われる?
ビジネスシーンで使うものなんか、黒一色ばかりで憂個人的には特に好きではないが選択肢がなくて、しかたなく使っているものも多い。
憂は女装趣味だが、『可愛いもの好き』というほどではないのであまり苦ではない。しかし女性社員たちが休憩中に不満を漏らしていたのを偶然聴いて、男女関係のない悩みなのだと感じた。
「黒い車なんかいくらでもあるだろ、世界中の黒い愛車のひとに謝ってこい」
ほら、いまも車種は違うけど黒い車とすれ違った。
黒い車なんて、ありふれてるんだ。ボクが『ゴキブリ』なんて蔑称つけられたせいで……。
『ゴキブリタクシー』と名付けられている愛車のことを考えると、なんだか深く落ち込んでしまった。
憂の落ち込みようがいつもよりひどかったからか、さすがの愛も慰めにかかる。
「まぁまぁ気にすんなよゴキブリ、いまから念願の『センパイのご両親への結婚のご挨拶』ができるかもよ?」
『ヒロと結婚』というキーワードひとつで、憂のすっかり丸まっていた背中がシャキッと伸びた。心做しか、先ほど愛が感じた車の蛇行も消えている気がしてホッとしている。
「ヒロのお父上とお母上のお好きな食べ物はなんだ?」
憂の眼光が、いつもより研ぎ澄まされて鋭くなった。
『お義父さんとお義母さん面談』を、なにがなんでもクリアしたい……そういう情熱を強く感じる。
愛もその気持ちは、わからなくもない。愛だって、ヒロのことは負けず劣らず大好きだ。いつもよりは素直に、敵に塩を送る真似をしてみた。
「センパイから前に聴いた話だと、おかーさん羊羹ばっかり食べてたから糖質制限ダイエットを二日で断念したって」
「と○やに寄ろう。高速飛ばせば東京まで大したことはない」
愛からの情報を得てほんのコンマ一秒ほどで、車はUターンをして東名高速でここから一番近い中井インターを目指し始めた。憂の判断の速さや行動力が、異常な気がする。
さすがの愛もUターンのときに受けた衝撃で、わずかばかり車酔いを感じた。
「ガチすぎるでしょ……だからアンタは一生ゴキブリなんだよ」
呆れた溜め息を吐きながら、愛は車酔いによる頭痛でこめかみを押さえている。
当の運転手は愛の左斜め前でヒロに会える喜びと『結婚のご挨拶』を待ちかねてウキウキし、珍しくハミングしながら、悠々と運転していた。ムカついたのでシートを蹴っ飛ばしたが、恋は盲目とはよく考えたものだ。彼はなにも気づいていないようだ。
「今日は午後から社長との大事な会議が入ってて、都合よくよさげなスーツと時計を選んできた……ついでにワックスもパソコン鞄に忍ばせてある。これは神の思し召しでしかない」
憂がヒロとの明るい未来を想像して、美しい顔を煌めかせている。
確かにいつも上等なスーツを着ているが、今日は輪にかけてとびきりの最高級そうなグレーのスーツ。ストライプが入っており、元々の長身を更に引き立てていた。シャツはさりげないポイントとしてライトブルー、ネクタイもシャツに合わせてブルー系。
髪は確かになにもセットしていなさそうな、元の髪質のストレート。しかしセットしていないことで、逆に幼さを出していた。
だがその……ひとつ重大な情報を知ってしまい、愛はまた溜め息を吐くことになる。
「大事な会議を気安く投げ出してるけど、アンタ本当に正規雇用の会社員なの?」
一応こんなバカでも、国内最難関の最高偏差値の大学をストレートで卒業後すぐに新卒採用で、国外にまで支社が拡大し続ける超大手商社勤務の、ガチガチの正規雇用正社員だと知っているんだけど……。
カーナビの左端に記録されている時刻を見ると、とっくに正午を過ぎている。もちろんここに憂がいる以上、会議の時間は間に合わないだろう。もう東名高速の東京方面に入ってるし。
『社長との会議』がどれだけ重大なものか、大学生の愛にもわかるというのに。
ちょうど赤信号になってブレーキを踏み続ける憂は、とても気持ちよさそうにグーサインをお見舞いした。
「滑り込みで半休もぎ取ってきたから無問題。それよりヒロとの結婚式は、グアムがいいかな?」
生育環境が日本国内屈指のブルジョワなため、憂もグアムは何度か行ったことがある。あの綺麗な海と空のしたをイチャイチャとかけっこする、ヒロと自分を想像して憂の顔が緩んでいた。これは至福。元から結婚式などに憧れはあまりないが、愛するヒロの晴れ姿は絶対に見逃せない。
ヒロはタキシード派か、それともウエディングドレス派か……どっちも似合う予感しかしない。タキシード姿はきっと凛々しくて最☆高だし、ドレスもまたヒロの可憐な姿をすぐそばで見れるなんて……!
ヒロが望むなら、自分がドレスでも構わない。女装は趣味だし、抵抗感などまったくない!ブーケトスでは情けで愛にくれてやる。
「まーたセンパイの人生に張り付く気だなゴキブリ!あたしはヨーロッパでセンパイとハネムーンする!」
なにか嫌な予感がしたのか、素早く愛も対抗心に火がついて、憂よりずっと『自分がどれだけ彼を幸せにできるか』をアピールしまくっている。
「新婚アツアツカップルの蜜月にしれっと付いてくるな、コバエ小姑」
憂のなかではなぜか『憂&ヒロの新婚カップル+お邪魔虫な愛とのハネムーン』という、謎の組み合わせが成立してたようだ。
お邪魔虫……そんなの、このあたしが認めるわけないだろ!邪魔なのはお前だ!と言わんばかりに、フカフカのシートに怒りで拳を叩きつけた。
「センパイとゴキブリの破局のためなら、この世の婚姻届をすべて燃やし尽くすのも厭わない!」
各市町村を全部巡り、婚姻届と名のつくものは全部燃やしてコイツと大好きなセンパイの婚姻を不可能にしてやる!と息巻いている。
「それお前も結婚できなくなるよ」
しらーっとした半眼で一瞬だけ後部座席へ目を向けて、愛の失策を鼻で笑う。
この世の婚姻届が絶滅したら、誰もヒロと婚姻できない。憂を嵌めるつもりが逆に仇となったな、とにやりと嗤う。
しかし愛もにやりと嗤い、ちっちっちと口にしながら右手の人差し指を振った。
「センパイとの婚姻届はゼク○ィで確保済みだし」
そう、ゼク〇ィの付録になっているみんな憧れの『ピンクの婚姻届』……愛はあれを入手して、自分の欄はとっくに埋めてある。あとはヒロにサインと捺印してもらえば、即座に婚姻完了。計画通り……!
残念だったな、この親の七光りバカ息子!
だが憂のその余裕めいた態度は、変わらないどころか強気だ。東京まで一切の休みなく高速を走ってなお、憂にはこころにも身体にも余裕がある。
「舐めるなコバエ、ボクならご当地婚姻届をヒロの好きな色と柄と地方にする。沖縄だろうが北海道だろうが、大人の財力でどうにでもなる」
海外に支社が多いグローバル化が進んだ会社の仕事柄、飛行機で出張もままあるので、航空会社の会員登録は済んでいて、クレジットカードも紐付け済み。スマホをちょっといじれば、いますぐファーストクラスの予約も可能だ。
「汚ったないな、クレカまで真っ黒なゴキブリめ!」
勤労学生の愛とガッツリフリーターのヒロとよく食事をするが、支払いは常に憂が担当している。
愛だけは後で請求されるのがかなり癪だが、支払いの際に憂が出しているクレジットカードは明らかに銀のクレカよりも金のクレカよりも最大グレードのブラックカード。
大学生にでもなれば、その価値や名義人の社会的地位も明白だ。大学生でもやろうと思えばクレジットカードを持てるし、親が持っているのでよくわかる。
沼城家は共働き夫婦で、中堅企業で正社員の父はよくクレジットカードでなにかと支払いを済ませている。もちろん、銀のカードだ。
愛がギリィ……と歯噛みして睨みつけているのを感じたのか、憂がにやりと「勝ったな」という微笑みを湛えた。
「ブラックカードなんか、しょせんコバエには一生持てないからね。僻みありがとう」
「キーッ!親の七光りボンクラ息子が!」
どーせそのカードだって、太すぎる実家のダディから賜ったシロモノだろ!?そうであってくれ!コイツの欠点を出してくれ!
そう強く願ったのも虚しく、憂が実情を明かす。
「このクレカも口座は全部ボクのだし、仕送りなんか必要ないし、別に父さんの会社にいるわけじゃないもん。新卒採用だもん」
父親と母親と兄の職業やキャリアや家系図を明かせば、確かに世界まで通用する超名家なのは明白だ。
しかし両親の教育方針により、兄も憂も中学生までのお小遣いの額は一般家庭の子たちとあまり変わらない少額だった。海外旅行はよく連れていってもらったものの、高校生になったら兄も自分も自発的にアルバイトしてお小遣い稼ぎをして自分の出費は賄っていた。だが両親は車の教習所代金と学費はきちんと払ってくれて、こうして無事に社会人生活を送っている。
もっとも兄も憂も優秀すぎて特待生として学費免除を受けていたが、学用品だけは自費だ。親が学費を払うなら、特待生でも学用品だけは出さなければならない。大学生にでもなれば学用品の一部に、ノートパソコンやタブレット端末を強いられる。
その高額な学用品も、父が全部払ってくれた。
しかし愛が憂の粗探しをしたいあまりに、まるでヤのつく職業の方のような可愛い見た目と声に反した横柄な態度で、憶測を語る。
「あぁ!?どーせコネ入社だろ、窓際社員風情が」
「うるさいな女子大生」
未だ親の扶養から抜け出せない学生風情に、そんな決めつけされて堪るか。
もちろん家庭環境は友人にすらペラペラ軽く語らず、就活中の面接でもコネなんか使っていない。縋れば確かにコネ入社なんか造作もないが、あれだけ厳格な両親が許すはずもない。兄も憂も、両親のおかげで完全な実力主義だ。親の七光りやスネかじりなんか利用せず、完全に自活している。
くそぉ……このゴキブリに、なにか欠点は……?
と探してようやく見つけた一点を、愛が胸を張って語り出した。
「二十四なんておじさんより、あたしの方がずーっとピチピチで可愛いし!」
欲にまみれた大人はみんな、女子高生も女子大生も大好物だ。若くて可愛いのが最大の売りになる。
二十六歳の多感なお年頃のヒロだって、きっと若い子の方に惹かれるはず!
これはいますぐ生まれ変わらなければ、絶対にひっくり返せない魅力だ。あたしの勝ちね、と確信したのに。
「年齢マウントするなら、ボクは社会的地位マウントでお返しするよ。ボクの貯金と年収なら都内の億ションもドバイの一等地も、キャッシュ一括で買えるもんね」
めちゃくちゃ胸を張ってドヤ顔している憂に、愛も負けられない!と必死で噛み付いた。
「金がありゃ愛がデケェ証拠にはならねぇんだよ成金ドラ息子が!」
今度こそ激ギレして運転席のシートをガンガン蹴ったら、憂に「事故るからやめてよ」と真っ当に怒られる。
金額=愛の深さではない。確かに正論だ。
しかし憂には自分には財力ひとつだけでは測れない、マントルを突き抜けた愛があるとかなり強く確信している。
「大丈夫、ボクがガッツリ働いて家事も育児も全部やるから。ヒロはただ……一生ボクの隣にいてくれるだけでいいの」
うっとりと自分とヒロの幸せ家族計画を本気で語る一方で、絶対に受け流せない深刻な現実を愛が冷たく突きつけた。
「そもそもアンタら生物学的に子供作れねぇだろ」
ヒロも憂も生まれついての男性で、生まれつき女性の愛とは違って生殖機能が明らかに違う。憂とヒロのあいだに血の繋がった子供ができることは、とりあえず生まれ変わって性別を変えないと永遠に無理だ。
しかし憂は堂々と、義務教育が終わってなさそうな反論を展開する。
「問題ない、ヒロなら生んでくれる」
「センパイの身体には生まれつき子宮と卵巣がねぇよ、気づけゴキブリ」
性転換手術して戸籍を変更しても子宮と卵巣が残っている元女性の現男性がパートナーとの子を妊娠して出産した、という海外のニュースはままあることだが、そもそもヒロは性自認男性で生まれつき男性だ。産道すら存在しない。
しかし憂はとんでもない非常識でしつこく食い下がる。
「知人から聴いたんだけどね、この世には『オメガバース』という素敵なシステムが……」
と言いかけた刹那に、愛が鋭く打ち砕く。
「完全フィクションを現実に持ち出すな、クソヤリチン」
愛の友人にも一部、その手の趣味の子がいて『オメガバース』について大学の食堂で熱く語られる日もよくあるから、男に興味がなくとも多少は知っている。
だからこそわかる。あれはフィクション。この世界のどこにも実在しないと、ハッキリ明言できる。
しかしそんな愛のツッコミですらアッサリ無視して、憂が運転しながら「あ、と○や見えた」と近くの駐車場へ澱みなく向かった。
それは紛れもなく、都内のと○やの店舗だった。
「ものの三十分であたし東京のど真ん中にいる!アンタ高速で何キロ出してたの!?」
神奈川県の端っこに位置する秦野中井インターからどれだけ休憩なしで飛ばしても、三十分で東京に到着するのは絶対ありえない。
そして全国に張り巡らされた高速道路にも、ある程度の制限速度が決められている。
これから免許を取りに行くつもりの愛ですらわかる、一般常識だ。
しかし憂は気軽そうに駐車をしながら、『ヒロのご両親へ結婚のご挨拶』しか頭にないような、とても免許持ちの成人とは思えない爆弾発言を投下する。
「愛の力があれば、制限速度なんか気にならない」
「ポリ公に捕まっちまえストーカーゴキブリ!」
絶対に制限速度を大きく超えた、設計上は時速三○○kmも可能な新幹線よりも速い限界値でここまで来た。
軽自動車の馬力では叶わないことだが、しかしフェ○ーリでも無理があるはずなのにまかり通っている現実と、「事故ってたらあたし、天敵と心中決定だったじゃん最悪なんだが」と頭を抱えて憂の後について人生で初めてと○やの店舗へ入った。
「……なんでお前らが揃ってうちにきてんの?」
都内のと○やで迷わず最高級グレードのギフトセットを購入して、また東京から東名高速に入ってとんぼ返りして籠馬宅のインターホンを鳴らしたら、都合よくヒロが玄関先に出てきた。
しかし久しぶりに対面したヒロは、どう見ても様子がおかしい。目の下にはクマが目立ち、声も疲れきったように掠れていた。
「ねぇ……センパイ、なんか痩せこけてない?いつもの超プリティキュートな姿が……」
ヒロのすぐ近くだが、憂と愛でコソコソ緊急会議を開き始めた。
愛が横目で見ているヒロの姿は、愛の言う通り痩せまくっている。何日も食べてないどころか、風呂も済ませているのかわからないような、ボサボサの髪。顔や腕以外にも全身に行き渡った、黒いインクの跡や見たことのない謎のグレーのシール?みたいな欠片。
憂もかなり戸惑っていた。
「正直なにがあったか、ヒロ検定一級のボクでも予想できないな。しかたない……お父上とお母上への手土産だったけど、と○やでカロリー摂取させよう」
ヒソヒソと相談してるふたりの手に提げられた紙袋を見たのか、ヒロが至極真っ当な疑問の声をあげる。
「なんでうちにと○やの羊羹なんか持ってきてんの?」
ここまでの経緯をなにも知らないヒロに大きな疑問が浮かんだものの、とりあえずふたりを家に招き入れた。
「センパイ、バイト一ヶ月まるまる休みってどういうことですか?」
ヒロが淹れた温かい緑茶の入った湯呑みに手をつけながら、愛が本題にズバズバ入り込む。憂はスーツのジャケットとベストを脱いでシャツとスラックス姿で、籠馬家のキッチンに立っている。
「とにかくヒロに栄養のあるものを食べさせないと」とヒロから許可をとって、冷蔵庫からいくつか食材を出してせっせと食事の用意をしていた。
驚くべきスピードでまず味噌汁を完成させて目の前に置かれたお椀の中身を啜りながら、ヒロが言葉を濁らせつつ返答に困った声を出す。
「あ、あー……うん……」
ヒロのそのものすごく言いづらそうな深刻な雰囲気により、憂がまた奇天烈な思考回路で理由を当てようとした。
「……!まさかヒロ、妊娠……?」
「は?」
憂が差し出してきた煮物が入った皿を受け取ろうとしたヒロの手が、ぴたりと止まった。
ヒロにとっては「どこからその思考に行き着くんだ?」とまるで噛み合わなくて宇宙人との遭遇みたいな発想だ。
「アンタとセンパイに一度でも身体の関係あったか?」
愛は湯呑みを食卓に割れそうな勢いでガンッと置いて、事実無根である証明に入った。愛の知る限りでは、ふたりに肉体関係があったことは一秒たりともない。そしてヒロが憂以外の人間と恋をできるようなモテる人生ではないと、確実に断言できる。もちろん愛自身は、虎視眈々と『センパイとの婚姻』を狙ってるけどね!
しかし憂がしつこく足掻いて、誰も予想できなかったとんでもない反撃をドヤ顔で繰り出した。
「間接キスなら最近許してくれる!」
確かにこの前、ヒロから飲みかけのペットボトルを分けてもらって、しかもあれだけ間接キスひとつで騒いでいたヒロは平然としていた。そんなことが普通に繰り返されている。だが……。
「ねぇなんでこのバカが高学歴なの?日本終わってない?」
小学生の保健体育でも学ぶ一般常識が、憂には明らかに欠如している。なのになぜ愛よりもヒロよりも圧倒的に日本最高峰な偏差値の超有名大学を、コイツは現役入学ののちに留年なしで卒業したんだ?大学側が狂ってんのか?
「というか僕が子供生める身体前提で話してんの、すっごい怖い……」
ヒロの全身に悪寒が走り、使い古して部屋着用に陥落させたヨレヨレの半袖シャツから出ている両腕を己の身を守るように抱えて、青ざめた顔をしていた。
「え、漫画の原稿のため!?」
愛が天真爛漫なツインテールを跳ね上げて素直に驚き、憂は少し眉を顰めて大人しく様子を見ている。
ひとしきり憂の手料理で満腹になってから、ヒロが本来の議題となっていた事態の理由を渋々と語った。
「……まぁ、そんなとこ」
恥ずかしそうに頭を搔いて、息苦しそうに答える。ちゃんと結果を出せるまでは、絶対に広めたくない話だった。
まさか今年で二十七歳になるおじさんが、まだ夢を見て仕事を放棄してまで必死に食らいついてるなんか、カッコ悪くて言えるわけがない。
「でもセンパイ、これまでもバイトしながら描いてたじゃないですか!」
同僚の愛にはよくわかる。休憩時間もあの狭い事務室で原稿と睨めっこして描いている、ヒロの姿はいつもの光景だ。
店長も他の従業員もみな、その姿を見ていてこころから応援している。特におしゃべり大好きパート主婦の石黒さんなんかは、「ヒロくんが描いた漫画が、うちの商品になる日が楽しみだわ〜」とワクワクしている。
しかし肝心のヒロは自分の感情や願いが、自分でもハッキリと言葉という形には作れない様子で曖昧な答えを出した。
「うーん……なんていうか、一念発起?」
これまで以上に投稿作へ熱を入れて、本気で挑みたいということだろうか。
「だからって、なんで急にこんな無理し始めたの?」
歳下なのに「歳頃の息子の素行で頭を抱える父親」のように、憂が深い溜め息混じりにとりあえずヒロの考えの欠片でも理解したくて質問する。
ヒロは憂と愛から視線を逸らし、イタズラが親にバレてバツが悪い子供のように唇を尖らせて、ボソボソと咄嗟にありそうな言い訳を作り出した。
「……べつに、このままじゃ親父とババァがいざ老人ホーム行きになったら、困るかなって」
これは本音のひとつでもある。
両親は名古木一族のような、経済的余裕があるわけではない。父は長年勤めているが中堅会社の主任で、母はパート主婦だ。妹はまだ高校生だから、これからの学費もまだかかる。
なのに長男のヒロは、ただでさえ年間一二○万を超える専門学校の学費を二年分出してもらったのに、卒業しても花開くことなく長年ただのフリーター。
かといって他になにか目立った得意なことや、特別な資格を持っているわけではない。職歴なんか、憂の足元にも全然及ばない誰にでもできるアルバイトだけだ。
ーー僕には、漫画しかない。
テーブルの下、膝の上に載っているヒロの拳が、密かに口惜しさとやるせなさで強く握りこまれる。
ヒロの思い詰めた様子を感じとったのか、憂がいつもより柔らかさを維持して訊ねた。
「お父上とお母上がお身体を崩されてるの?今日もご不在だし」
ここまでヒロが追い詰められているのだから、もしかしたら両親はいま病院にでも通院しているのではないかとつらい想像をした。だが顔を上げたヒロの顔には、そのような深刻さは見られない。それどころか。
「ん?一昨日から僕の従姉の結婚式に出席するって、ふたりでハワイに」
あっけらかんと両親の健在を伝えるヒロの顔には、「なぜそこまで大事になっているんだ?」という疑問が浮かんでいた。
「え?じゃあなんで……」
愛がすかさず口を挟もうとした、その瞬間に。
「ただいまー兄貴、あーしが作っておいたご飯食べた?……って、え?」
玄関が開いてすぐ近くにあるキッチンへ入ってきた、どう見てもバリバリのギャルな女子高生を愛も憂も怪訝な顔で見つめていた。金に脱色した髪を器用にアレンジして、耳にはピアスがたくさんついている。学校の制服であろう青いシャツの首元にはネックレス、同じく青ベースのチェック柄なブリーツスカートは短くて、なんだか危なっかしい。
その女子高生もまた、見慣れない客人に戸惑っているのか少し身を固くしていた。
籠馬家にしては珍しすぎる硬い沈黙のヴェールがかかり、なにやら雲行きが怪しくなっている。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます!
おわかりかもしれませんが、完全に新キャラ登場回としたかったのですが、想定より長くなって暇つぶしには邪魔な存在だと身の丈を知り、無理矢理区切りました。
愛ちゃん命名『ゴキブリ』が、個人的にだいぶ気に入ってます。憂はヒーローではありますが、ネタ枠として捉えてるのでお好きに『ゴキブリ』と呼んであげてください。