はじめてのキス に
「悪かったよ、さっきは……」
パソコンショップを出て健太は小さく呟いた。
周囲を歩く帰宅を急ぐ人の足並みや通りを走る車の音に、かき消されそうなほど小さな声だった。
「ど、どうしたの?」
思いもしない台詞に驚いてわたしは叫ぶ。
だ、だって、こいつがわたしに「ごめん」とか口走るなんて、過去を思い返しても記憶にはないことだった。
わたしの失礼な態度は、健太の癇に障ったらしい。奴は表情をスッと変えて不満を口にしてきた。
「何だよ、悪かったと思ったから謝っただけだろ」
ムッとした顔で足早に先へと急ぎ出す。まるでわたしを置いて行こうとしているみたいに。
「待ってよ」
わたしは慌てて追いかけた。
「人を変人みたいに言いやがって。謝って損した」
「ごめん、ごめんて」
遅れて隣に並んだわたしを、健太は見ようとしない。ツンと上を向いた鼻筋は、しっかり前へと向いたままだ。
ヤバい。かなり怒らせちゃった?
「本当にごめん。わたしも悪かった」
健太の腕を引っ張って一生懸命謝る。腕と言うより袖だったんだけど。
「……お前なっ!」
低い声にびくついた。
急に立ち止まった健太が肩を振るわせて怒っていた。何で?
電車を降りたわたし達は、トボトボと会話もなく家路を歩いていた。
今日は手も繋げていない。
わたしの手はブラブラと所在無げに、体の振動に合わせて揺れてるだけだ。わたしの左手とあいつの右手、お互い何も持ってないし、触れそうなくらいすぐ近くにあるのにね。
本当はさっきから何度か、冗談の振りして掴んでやろうと指を伸ばしかけた。でもその度に奴は大きく手を振って、こっちを牽制してくるのだ。わたしの下心に気づいているのかもしれない。
本気で呆れちゃったのかな。
バカみたいなカレカノごっこを、いつまでもやめないわたしを。
もうすぐ、わたし達の家が見えてくる。このまま喧嘩別れして、口もきかずさよならするしかないのだろうか。
「なあ」
健太がいきなり振り返った。
突然のことで返事が出来ない。
「喉、渇かないか? ジュースでもーーって、お前どうしたんだよ!」
こっちを向いた幼なじみはびっくりしたように大声を出す。わたしは顔を隠して声を漏らした。
「……どうしたって、何が?」
「だって、泣いてるじゃんか……」
戸惑ったような健太の声が届いた。
「うるさいなー……」
バカ、バカバカバカ! わたしのバカ! どうして涙なんて出ちゃうの? 何だって泣いちゃうのよ!
わたしは閉じた目をゴシゴシと荒々しく擦った。だけど擦っても擦っても滲み出てくる忌々しい涙は、止まる気配がなく段々苛立ちすら湧いてくる。
「何……泣いてんだよ」
途方に暮れたような健太の声。
ほら、困ってるじゃん、こいつだって。いいから早く止まりなさいよ、バカ涙。だけどこの涙って奴は、命令したってすんなり止まらないのだ。わたしだって、好きで泣いてやしないのに。
「泣いてる……んじゃないの、これは……アクビしたら出てきただけで……」
下手くそな言い訳に健太は黙り込む。そのまま躊躇ったような足音が数歩したかと思うと、突然駆け出してどこかへと行ってしまったみたいだった。
「ひっ、ひっく……」
健太が逃げた。
確かに泣き出した女ほど面倒くさいもんはないに違いない。だから女慣れしてないオタクのあいつには、持て余してしまう存在だってことぐらい分かる。面倒くさい幼なじみなんて構ってられないよね?
そんなこと分かりすぎるくらい分かってる。だけど……!
「ひどいじゃん……」
何も置いて行かなくてもいいじゃんか。
いつしかわたしは、わんわんと大声で泣いていた。健太に見捨てられたことが、自分でも驚くほどショックだった。
「ほらっ」
しばらくして、頬に冷たい何かが当てられる。
目を塞いでいた握りこぶしを外すと、顔の横にオレンジジュースの缶が見えた。
「そんだけ泣いたら……喉が渇いただろ」
走って来たらしい健太が息を切らして側にいた。
「飲めよ」
そう言いながら強引にジュースを手の中に押し付けてくる。わたしが受け取ったのを確認すると、彼は一緒に買ったらしいブラックコーヒーを飲み始めた。ごくごくと水分を嚥下する音と、合わせるように上下する喉仏。
「ふ〜、生き返った」
健太は満足そうに息を吐いた。
それから彼をポカンと見つめるわたしに、
「泣き止んだかよ?」
と、逸らし気味の視線を寄越してくる。
「……帰ったかと思った」
ポツリと言葉がこぼれて、後が続かない。頭は霧がかかったみたいにぼんやりしていて、夢の中にいるみたいだ。あれほど頑固に出ていた筈の涙は、意外すぎる男の行動のお陰で今ではすっかり止まっていた。
赤い顔した幼なじみは唇を曲げて、意地悪くうそぶく。
「帰ってやってもよかったけどさ……」
それから小さく笑った。
「けど、お前、情緒不安定みたいだし、俺の言い方もよくなかったし」
人通りのない薄暗い夕闇に染まる住宅街に、ポツポツと呟くぶっきらぼうな声が溶けていく。
「ちょうど喉が渇いてたし、この間から何かと奢ってもらってるし。……たまにはいいかなと思って。近くに販売機もあったし」
何よ、それ?
「缶ジュースはお返しのつもりだったの?」
「あのな、仕方ないだろ。この辺りにはコンビニだってないんだぞ?」
軽口を返したら、呆れたような抗議が戻ってきた。
だけどわたしが泣き止んだことを、内心ではホッとしているんでしょ?
だって全然怒ってないよね。言い方だってちっともきつくない。
あ〜あわたし、気づいてしまった……みたい。
どうして、健太といると気分がコロコロ変わってしまうのか。
どうして、健太の態度に一々反応してしまうのか。
こいつは単なる幼なじみでアニオタで、全然好みでもなんでもなかったのに。
そうだよ、ただの仮の彼氏だった筈なのに……。でもいつの間にか、わたし……。
ねえ、と健太の耳元に近づき声を潜める。目の前に、髪の間から赤くなった耳が覗いていた。
「……わたし、もっといいものが欲しいな」
戸惑う表情を見せる幼なじみの頬に、軽く触れるキスをした。言葉にする勇気のない弱虫の、精一杯の告白だった。
しょうもなくてすみません。
順調にいけば、あと二話の予定です。