名前をなくす夜
東屋の外で、子どもの笑い声がした。
くすくす、と湿ったような、喉の奥で転がすような笑い方。
神谷悠斗と九条蒼真は同時に立ち上がった。
「……来た」
蒼真が低く言う。
佐倉玲奈は悠斗にもたれかかったまま、まだ少しだけ意識が遠いようだった。
左手首の赤い『4』は、さっきよりわずかに濃く見える。
その下に増えた細い縦線も、ただの見間違いとは思えなかった。
「佐倉、立てるか」
悠斗が声をかけると、玲奈はゆっくり目を開けた。
「……はい」
答えはしたが、焦点が完全には合っていない。
蒼真は東屋の外へ視線を走らせる。
川沿いの遊歩道。
草むら。
街灯はまだついていない。
誰も見えない。
だが笑い声だけが、少し離れた場所からまた聞こえた。
くす、くす。
「姿を見せない」
蒼真が言う。
「でも近い」
悠斗は玲奈の肩を支えたまま、周囲を警戒する。
「病院に戻るのは無理そうだな」
「いや」
蒼真は少し考え、すぐに首を振った。
「逆だ」
「向こうがここまで出てきてるなら、病院側の方が動いてる」
「今、位置だけでも確認しないと後で詰む」
悠斗は眉をひそめた。
正直、玲奈の状態でさらに病院へ戻るのは危険だと思った。
だが、今夜の本命が病院内の“区園”なら、場所も知らずに21時台を迎える方がもっと危ない。
玲奈が小さく言う。
「行けます」
「無理するな」
「無理じゃないです」
玲奈はそう言ったが、声が少し変だった。
自分に言い聞かせているような。
その瞬間、また頭の中に蒼真の言葉が蘇る。
“自分が役目を果たさなきゃ”って考え始めてる。
それ自体が誘導かもしれない。
悠斗は玲奈の顔を覗き込んだ。
「佐倉」
玲奈がこちらを見る。
「今、自分の名前言えるか」
玲奈は少しだけきょとんとした。
だがすぐに答える。
「佐倉……玲奈です」
一拍遅れた。
ほんのわずかだが、悠斗にはそれが気になった。
蒼真も同じことを感じたらしい。
「今から何回か確認する」
「返せなくなったら、すぐ止める」
玲奈は小さくうなずく。
三人は東屋を出て、再び旧水上病院へ向かった。
夕暮れが深くなり、川沿いの道は人通りがほとんどない。
病院の灰色の建物が見えてくる。
その姿は昼間よりさらに重たく、口を開けて待っている巨大な影みたいだった。
裏口は、また半開きだった。
本当にずっと開いているのか。
それとも、三人が来るたびに開けられているのか。
今はもう区別がつかない。
中へ入る。
ひんやりした空気。
静けさ。
だが前よりも空気が張っている。
建物全体がこちらを意識しているような感じがあった。
蒼真が先頭で進む。
「一階の案内板」
「そこから“区園”を探す」
受付裏の廊下を抜け、古い案内板の前へ行く。
前回来た時は流し見しただけだったが、今見ると確かに奇妙だった。
薄れた文字が並ぶ中、ひとつだけ不自然に削れた部分がある。
『隔離◯園』
二文字目が削れていて読めない。
公園なのか、庭園なのか、区園なのか。
だが、その下にある矢印は地下を指していた。
「地下……?」
悠斗が呟く。
蒼真も目を細める。
「前は気づかなかった」
玲奈が壁に手をついたまま、かすかに息を吸う。
「地下、あるんですね」
「普通の病院なら機械室とか倉庫がある」
蒼真はそう言いながら、案内板の下を調べ始めた。
「問題は、入口がどこかだ」
その時だった。
玲奈がふいに廊下の先を見る。
「……あっち」
悠斗が振り向く。
「何が見えた」
「見えたというか」
玲奈は眉を寄せる。
「知ってる感じがしました」
最悪の答えだった。
蒼真も同じように考えたのだろう。
「一人で動くな」
「分かってます」
玲奈はそう答えたが、視線はまだ廊下の先に向いている。
悠斗はその手首を掴んだまま言う。
「案内しろ。でも離れるな」
三人は玲奈の“感覚”に従って進むことになった。
一階の奥。
事務室のさらに奥。
普段なら使われていないはずの細い通路。
そこに、半分だけカーテンで隠された扉があった。
古い業務用の鉄扉だ。
取っ手の横に、小さなプレート。
文字は消えかけているが、読める。
『隔離庭園』
「……庭園か」
悠斗が息を吐く。
“くえん”は“くかく”ではなく、“ていえん”の一部が歪んで読めなかったのかもしれない。
だが呼びかけの意図は同じだ。
病院内の公園。
あるいは、子どものための閉ざされた庭。
蒼真が扉を押す。
開かない。
「鍵か?」
悠斗が言うと、蒼真は無言でこちらを見る。
ポケットの中の四番の鍵。
悠斗はすぐ取り出した。
「これ……か」
差し込む。
ぴたりと合う。
カチ、と音がした。
鉄扉がわずかに浮く。
三人とも息を止めた。
扉を開ける。
その先は階段だった。
地下へ続く、狭いコンクリート階段。
湿った空気が上がってくる。
土と消毒液が混じったような匂い。
玲奈の身体が小さく震えた。
悠斗は反射的に聞く。
「まだ自分の名前、言えるか」
玲奈は少しだけ目を閉じてから答えた。
「佐倉……玲奈」
今度はさらに遅い。
蒼真が短く言う。
「急ぐぞ」
三人は地下へ降りた。
階段は思ったより長い。
地下一階というより、もっと深い場所へ降りている感覚がある。
途中で壁に貼られた子どもの絵が見えた。
太陽。
花。
家族。
そして、何枚かには必ず四人描かれていた。
父、母、子ども、もう一人。
最後の一人だけ、みんな白く塗られている。
「……趣味悪いな」
悠斗が呟くと、蒼真が低く返す。
「趣味じゃない」
「手順なんだろ」
階段を降りきる。
そこには、小さな中庭のような空間が広がっていた。
地下なのに、天井が高い。
吹き抜けになっているのか、上の方に薄暗い格子窓があり、そこから夕方の最後の光が落ちてくる。
床には人工芝の名残みたいな緑の布。
中央には錆びた滑り台と、小さなベンチ。
まるで子どものための室内庭園。
隔離庭園。
その名の通りの場所だった。
だが、異様なのはそこだけじゃない。
中央のベンチの前に、白い線で四角形が描かれている。
儀式の枠みたいに。
その四隅に、小さな名札が置かれていた。
A。
B。
C。
そしてD。
玲奈が息を呑む。
「……候補」
蒼真がすぐに近づこうとした瞬間、悠斗が止めた。
「待て」
「何だ」
「順番に見よう」
今この場所で不用意に中央へ行くのは危ない。
そういう直感だった。
蒼真も一瞬で理解したのか、頷く。
三人は外側を回るように庭園を確認した。
壁際には棚が並び、古いぬいぐるみや絵本が置かれている。
その中に、写真立てが一つだけあった。
玲奈がそれを手に取る。
写っていたのは、小さな女の子が三人。
全員白い入院着を着ている。
その横に、少し離れて立つもう一人の女の子。
私服姿。
泣いている。
写真の裏には、日付と文字。
『第四候補 顔合わせ』
玲奈の手が震える。
「……これ」
その泣いている女の子の顔は、幼い頃の玲奈そのものだった。
悠斗が歯を食いしばる。
病院で“みおちゃん”と呼ばれたどころではない。
はっきり候補として連れて来られている。
玲奈が苦しそうに言う。
「母は、一度だけ行ったって」
「でも本当は、もっと前から……」
蒼真が周囲を見回しながら言う。
「記憶を削られてるんだろうな」
悠斗は写真を奪うように見た。
三人の入院着の子どものうち、一人だけ首元に名札が見える。
『澪』
残り二人は読めない。
つまり、水上澪は一人。
でも候補は三人いた。
そして第四候補が玲奈。
そこまで考えた時だった。
地下庭園のどこからか、オルゴールの音が鳴った。
優しい、子守歌みたいな音。
玲奈の表情が、ふっと緩む。
「佐倉!」
悠斗が叫ぶ。
玲奈ははっとしたように目を開けた。
危ない。
一瞬だけ、完全に気が逸れていた。
蒼真が鋭く周囲を見る。
「音源を探せ」
棚の奥。
ベンチの下。
滑り台の裏。
すると、中央の白い枠の中心に、小さなオルゴールが置かれているのが見えた。
さっきまではなかったはずだ。
しかも、その蓋が開いて鳴っている。
「……出たな」
蒼真が言う。
オルゴールの側には、紙が一枚置かれていた。
また紙だ。
悠斗はうんざりしながらも、その文面を見ないわけにはいかない。
近づきすぎないよう、少し距離を取って読む。
『なまえを きめて』
玲奈の呼吸が止まるのが分かった。
蒼真が即座に言う。
「無視だ」
だが、その直後。
庭園の奥の格子窓の向こうで、何か白いものが動いた。
白いワンピースの女の子。
上から覗いている。
笑っている。
そして、今度ははっきり声が届いた。
「れいな」
玲奈の肩が大きく揺れた。
「返事するな!」
悠斗が怒鳴る。
玲奈は両耳を押さえた。
だが声は止まらない。
「れいな」
「れいな」
「れいな」
子どもの声が、あちこちから重なって響く。
格子窓の上だけじゃない。
棚の影。
滑り台の下。
ベンチの向こう。
どこからともなく、同じ声が湧いてくる。
玲奈は必死に首を振った。
「ちがう……」
その一言で、蒼真と悠斗の顔色が変わる。
返事ではない。
でも危ない。
玲奈は苦しそうに続ける。
「ちがう、私は……」
その時、左手首の『4』が赤く光った。
地下庭園全体の空気が、一気に重くなる。
中央の白い枠が、淡く光り始めた。
蒼真が叫ぶ。
「神谷、玲奈を連れて出ろ!」
「お前は!?」
「オルゴール止める!」
悠斗は迷った。
だが一秒もない。
玲奈の身体はもう、自分の足で立てていない。
「死ぬなよ!」
叫びながら玲奈を抱えるように引きずり、階段の方へ向かう。
背後で蒼真が中央の枠へ飛び込む気配がした。
次の瞬間。
オルゴールの音が、甲高いノイズに変わる。
ギィィィィン!!
そして、子どもの声が一斉に笑い声へ変わった。
くすくす、くすくす。
玲奈は半ば意識を失いかけながら、途切れ途切れに呟く。
「わたしは……みおじゃない」
「れいなじゃ……」
その先が続かない。
悠斗は階段へたどり着き、必死で振り返る。
地下庭園の中央で、蒼真がオルゴールを蹴り飛ばしていた。
だがその周囲に、白い小さな手がいくつも床から伸びている。
枠の中から。
まるで、誰かを引きずり込むみたいに。
「九条!」
悠斗の叫びに、蒼真がこちらを見た。
その顔は苦しそうだったが、まだ意識はある。
「上に行け!」
その声と同時に、地下庭園の天井から、砂みたいな白いものが降り始めた。
雪のように。
骨の粉のように。
それが玲奈の髪と肩にも触れる。
すると玲奈の口が、かすかに動いた。
「……そうまくん」
悠斗の血の気が引く。
玲奈の声じゃない。
もっと幼い。
もっと細い。
階段の下から、白いワンピースの女の子がこちらを見上げていた。
そして嬉しそうに言った。
「なまえが なくなるまえに」
その瞬間、玲奈の左手首の『4』の横に、もう一本縦線が浮かんだ。




