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印をつけられた者

佐倉玲奈は、旧水上病院の方を見つめたまま動かなかった。


夕方の光を受けた灰色の建物は、さっきまでよりも遠く見える。


それなのに、妙に近い。


呼ばれているような感覚が、まだ残っていた。


「佐倉!」


神谷悠斗が肩を掴む。


その声で、玲奈ははっと我に返った。


「……あ」


九条蒼真が鋭く言う。


「今、自分で振り向いたのか?」


玲奈は少し迷ってから、うなずいた。


「たぶん……」


「気づいたら、見てました」


蒼真の表情が険しくなる。


「やっぱり印の影響が出てる」


悠斗は玲奈の手首を離さず、刻まれた赤い『4』を見つめた。


細い線。


子どもの落書きみたいな数字。


でも、ただの汚れや傷ではないと分かる。


皮膚の下に染み込んでいるみたいで、見るほど嫌な感じがした。


「これ、どうにかできないのかよ」


蒼真は首を振る。


「分からない」


「ただ、前の観測者が消えた時も似たようなことがあった」


悠斗が顔を上げる。


「印が出たのか?」


「いや」


蒼真は少し言いづらそうに続けた。


「そいつは耳元を気にしてた」


「最初は虫の音がするとか、誰かが囁いてるとか言ってた」


玲奈が無意識に手首を押さえる。


「……私も、ちょっとだけ」


悠斗と蒼真が同時に見る。


玲奈は目を伏せた。


「さっきから、たまに聞こえるんです」


「はっきりじゃないけど、遠くで子どもが呼んでるみたいな感じで」


蒼真が即答する。


「返事はするな」


「分かってます」


玲奈はすぐうなずいた。


だが、その顔は青い。


無理もない。


自分の身体に意味の分からない印がついて、聞こえないはずの声まで聞こえる。


冷静でいられる方がおかしい。


悠斗はできるだけ落ち着いた声で言う。


「一回、場所を変えよう」


「公園までまだ時間あるし、病院の近くにいるのはまずい」


蒼真も同意した。


「駅前は人が多すぎる」


「でも開けた場所の方がいい」


少し考えてから、玲奈が言った。


「川沿いの遊歩道の先に、小さい休憩所があります」


「屋根だけの東屋みたいな場所」


「普段あまり人がいません」


三人はそこへ向かうことにした。


川沿いの道を十分ほど歩く。


途中、何度か玲奈の歩調が乱れた。


そのたびに悠斗が気づいて声をかける。


「大丈夫か」


「……大丈夫です」


答えはする。


でも、少し遅れる。


まるで、今いる場所から半歩だけずれているみたいに。


東屋に着いた頃には、空が少しだけ赤みを帯び始めていた。


夕方が近い。


21時12分まで、もうあまり時間はない。


三人はベンチ代わりの木の縁に座る。


病院からは十分距離があるはずなのに、玲奈の手首の『4』は薄くもならない。


蒼真はロッカーから持ち出した封筒を改めて開いた。


中身を確認する。


「まだ全部見てない紙がある」


悠斗も身を乗り出した。


さっきは逃げるので精一杯だった。


落ち着いて見れば、何かあるかもしれない。


蒼真が一枚ずつ並べていく。


水上澪の診療記録。


候補A、B、C、Dのメモ。


玲奈の幼少期の写真。


そして、封筒の一番底から、折り畳まれた紙が出てきた。


かなり古い。


端が黄色く変色している。


蒼真が慎重に開く。


手書きの文書だった。


『第四代替候補 定着条件』

その下に、箇条書きでいくつか書かれている。


玲奈が読み上げる。


「“観測者三名の成立”」

「“対象の認識”」

「“印の付与”」


そこで声が止まる。


三人とも、玲奈の手首を見た。


印の付与。


まさに今の状態だ。


悠斗が続きを促す。


「その先は」


玲奈は少し息を整えてから読む。


「“本人が自ら呼び声に応じた時、移行開始”」


蒼真が舌打ちした。


「やっぱり返事が条件か」


悠斗は紙を睨む。


「じゃあ逆に言えば、返事しなければまだ防げるんだな」


「たぶん」


蒼真はうなずく。


「少なくとも今の段階では」


玲奈はさらに下を見る。


「まだあります」


「“旧病棟四番保管庫を経由し、名の一致をもって安定化”」


悠斗が眉をひそめる。


「四番保管庫って、ロッカーのことか?」


「違うかもしれない」


蒼真がすぐに否定する。


「ロッカーは職員用だ」


「保管庫って書き方なら、別の場所の可能性が高い」


玲奈がぽつりと呟く。


「名の一致……」


その単語に、三人とも引っかかった。


悠斗が言う。


「“みおちゃん”と間違えられたって話」


「それと関係あるのかもな」


玲奈はゆっくりうなずく。


「私が昔、病院で水上澪と間違えられた」


「それが偶然じゃなかったなら」


「“名の一致”を作るために、最初から重ねようとしていたのかもしれません」


悠斗は言葉を失った。


名前を重ねる。


人格を重ねる。


そして器にする。


そこまで来ると、もう治療や医療ではない。


何か別の儀式だ。


蒼真が文書の裏を見た。


そこにも文字がある。


今度は筆跡が違った。


慌てて書いたような走り書き。


『第四候補は適合が高すぎる 見つけられる前に切るべき』


その一文に、悠斗はぞっとした。


「“切る”って何だよ」


「候補から外すって意味かもしれない」


蒼真は言う。


「でも方法は書いてない」


玲奈がじっと紙を見つめる。


「適合が高すぎる……」


自分のことを言われていると分かっている顔だった。


悠斗はすぐに言う。


「気にするな、って言っても無理だろうけど」


「まだ決まったわけじゃない」


玲奈は少しだけ笑おうとした。


でもうまくいかなかった。


「神谷さん」


「ん?」


「もし今夜、私が呼ばれても」


玲奈は自分の手首を握る。


「絶対に、返事しないようにしてください」


悠斗は眉をひそめる。


「“してください”じゃない」


「お前がしないんだよ」


玲奈は一瞬だけ黙った。


それから、かすかにうなずく。


「……はい」


その時だった。


東屋の柱に、コン、と軽い音がした。


三人とも振り向く。


誰もいない。


風も弱い。


なのに、もう一度。


コン。


悠斗が立ち上がる。


柱の陰を見る。


そこに、小さな紙片が画鋲で留められていた。


さっきまでなかったはずだ。


蒼真が止めるより早く、悠斗はそれを外していた。


紙には、たった一行。


『よるの くえんで まってる』


玲奈の顔がこわばる。


「……公園」


字はひらがな混じりで幼い。


だが今さら、子どものいたずらだと思えるわけがない。


蒼真が紙を奪うように受け取った。


「向こうから場所を指定してきた」


「今夜、公園が本番になる」


悠斗が言う。


「むしろ分かりやすくて助かる」


強がり半分、本音半分だった。


どうせ行くしかない。


事故の流れ。


公園の受け渡し。


玲奈の印。


全部が、今夜の21時12分へ向かっている。


玲奈がふと空を見上げた。


「……でも、“公園”じゃないですね」


「ん?」


「“くえん”って書いてある」


紙を見直すと、確かにそうだった。


“こうえん”ではなく“くえん”。


単なる書き間違いかもしれない。


だが、この状況ではそれすら意味を持って見える。


蒼真が低く言う。


「旧水上病院の案内板、覚えてるか」


悠斗は考える。


一階の古い案内板。


外来、事務室、資料室――


「あ」


玲奈も同時に気づいたらしい。


「隔離区画」


蒼真がうなずく。


「表記がかすれて、“くかく”の一部だけ読めなくなってた」


「“くえん”じゃなく、“区園”かもしれない」


「子ども用の隔離庭園みたいな場所があった可能性がある」


悠斗は舌打ちした。


「つまり公園じゃなくて、病院の中か」


「両方だろうな」


蒼真は紙を折り畳む。


「今夜の事故と公園は囮かもしれない」


「本命は病院側の“区園”」


玲奈は手首を押さえたまま言う。


「じゃあ、あの受け渡しも」


「病院へ誘導するための段取りだったのかもしれません」


線が一本につながり始めていた。


事故現場の図面。


公園での受け渡し。


四番の鍵。


そして印。


全部が、玲奈をある場所へ連れていくための経路だ。


悠斗は息を吐く。


「今夜は二手に分かれるのがまずいな」


「分かれる気はない」


蒼真は即答した。


「三人で動く」


「どっちが囮でも、こっちの人数は崩さない」


玲奈が少しだけ迷ってから口を開く。


「……私、ひとつ言っていいですか」


二人が見る。


玲奈は真っ直ぐこちらを見返した。


「もし私が本当に器として狙われてるなら」


「向こうは、私が来る前提で動いてるはずです」


悠斗は嫌な予感がした。


「だから何だよ」


「それを逆手に使えます」


玲奈の声は静かだった。


でも、決意があった。


「私が囮になります」


「却下」


悠斗は即答した。


蒼真も間を置かずに言う。


「論外だ」


玲奈は少しだけむっとした顔をした。


「最後まで聞いてください」


「嫌だ」


悠斗は珍しく強い口調で言った。


「今のお前、呼ばれてる側なんだよ」


「一番やっちゃ駄目な役だろ」


玲奈は言い返そうとして、少し止まった。


たぶん、自分でも分かっている。


それでも言わずにいられないのは、焦っているからだ。


印をつけられたのは自分だけ。


自分が動かなければ、という責任感がある。


でも、それが一番危ない。


蒼真が少し柔らかい声で言った。


「佐倉」


玲奈が顔を上げる。


「お前は今、“自分が役目を果たさなきゃ”って考え始めてる」


「それ自体が誘導の可能性がある」


玲奈は何も言えなかった。


図星なのだろう。


悠斗も続ける。


「囮とか作戦とかは、もっと安全な段階でやるもんだ」


「今は違う」


「まず今夜を三人で越える」


しばらく沈黙があった。


やがて玲奈は、悔しそうに小さくうなずいた。


「……分かりました」


空はかなり暗くなってきていた。


夕方が終わり、夜に近づいている。


21時12分まで、もう四時間もない。


蒼真は封筒の中身をまとめて鞄に入れた。


「一度だけ、病院に戻る」


「区園の位置を確認する」


「そのあと公園側を見る」


悠斗は頷く。


「順番はそれでいい」


玲奈も立ち上がる。


その時、不意に身体が揺れた。


悠斗がとっさに支える。


「おい!」


玲奈は額を押さえた。


「……大丈夫です」


だが声が弱い。


蒼真がすぐに手首を見る。


赤い『4』の下に、薄くもう一本線が増えていた。


縦線だった。


四の横に、細い一本線。


まるで。


次の数字を書き足そうとしているみたいに。


「……進行してる」


蒼真の顔が強張る。


悠斗は玲奈を支えたまま、病院の方向を見る。


もう待てない。


今夜まで、ではない。


何かが、もう始まっている。


そして玲奈はうっすらと目を閉じたまま、ほとんど聞き取れない声で呟いた。


「みおじゃない……」


二人が息を止める。


玲奈は続ける。


「わたしは……れいなじゃなくて……」


その言葉が最後まで続く前に、東屋の外で、子どもの笑い声がした。

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