代わりの器
病院全体が、ぐらりと揺れた。
神谷悠斗は思わず壁に手をつく。
天井の埃がぱらぱらと落ちる。
ロッカー室の蛍光灯もないはずの空間が、一瞬だけ白く明滅した。
「……っ!」
佐倉玲奈がよろめく。
九条蒼真がすぐにその腕を掴んだ。
「佐倉!」
だが玲奈の視線は、目の前の白いワンピースの女の子に釘付けだった。
女の子は両手を伸ばしたまま、笑っている。
「かわって」
その声は幼いのに、妙に澄んでいて、耳の奥に直接触れてくるようだった。
悠斗は反射的に玲奈の前へ出る。
「ふざけんな」
女の子を睨む。
だがその瞬間、また頭の奥がズキンと痛んだ。
知らない映像が流れ込んでくる。
白い病室。
泣いている女の子。
若い医師の声。
『澪ではもう持たない』
別の女の声。
『なら、代わりを探すしかない』
悠斗は思わず額を押さえた。
「……くそっ」
蒼真も同じように顔をしかめている。
「また見えたのか」
「……ああ」
玲奈だけは違った。
痛みよりも、強い戸惑いの表情。
「私、知ってる」
小さな声だった。
「この声」
悠斗が振り向く。
「何だって?」
玲奈は自分でも信じられないものを見るように、白い女の子を見つめていた。
「小さい頃」
「夢の中で、何回も聞いた気がする」
蒼真が鋭く言う。
「思い出そうとするな!」
だが遅かった。
女の子が一歩、また一歩と近づくたびに、玲奈の顔色が変わっていく。
まるで何かを思い出させられているように。
悠斗は玲奈の肩を掴んだ。
「佐倉、見るな」
玲奈の身体が小さく震える。
「でも……」
「いいから!」
強めに言うと、玲奈はようやく視線を外した。
その瞬間、女の子の笑みが少しだけ崩れた。
不満そうに。
子どもが玩具を取られた時みたいに。
蒼真が封筒を脇に抱えたまま、低く言う。
「ロッカー室を出る」
「ここにいると引っ張られる」
悠斗もうなずく。
今は読むより逃げる方が先だ。
三人は後退するように通路へ出ようとした。
だが、ロッカー室の入口に着いた瞬間。
目の前の廊下が、さっきとは違う形になっていた。
壁紙が変わっている。
古い職員通路ではない。
小児病棟の絵柄の壁。
うさぎ、くま、ぞう。
「……またかよ」
悠斗が吐き捨てる。
病院の中の構造が変わっている。
蒼真が舌打ちした。
「繋ぎ替えられてる」
「どういう意味だ」
「病院の中で場所の意味が入れ替わってる」
蒼真は廊下の先を睨みながら言う。
「たぶん、今ここは一階じゃない」
玲奈が息を呑む。
「そんなの……」
「この病院ならあり得る」
蒼真は即答した。
ロッカー室の中で、コツ、と足音がする。
白い女の子がまだそこにいる。
悠斗は振り返らなかった。
振り返ったら、今度こそまずい気がした。
「とにかく進むぞ」
三人は小児病棟らしき廊下を歩き出した。
走るべきか迷ったが、蒼真が首を振る。
「今は走るな」
「何で」
「この病院は、慌てるほど深い方へずれる」
理屈は分からない。
だが蒼真は十四回目の経験者だ。
信じるしかなかった。
廊下は静かだった。
さっきまでの激しい揺れが嘘みたいに。
ただ、空気だけが重い。
消毒液と湿気の混じった匂い。
壁の子ども向けの絵。
そして、ところどころの扉に手書きの名札が貼ってある。
305。
307。
309。
やはりここは三階の小児病棟に近い。
玲奈が小さく言った。
「神谷さん」
「何だ」
「さっき、少しだけ分かったことがあります」
悠斗は歩きながら玲奈を見る。
玲奈の顔色は悪い。
でも目は、さっきよりむしろはっきりしていた。
「“かわって”って、あの子は言いましたよね」
「ああ」
「たぶん、入れ替わりたいんじゃないんです」
蒼真が反応する。
「……どういうことだ」
玲奈は自分の言葉を確かめるように続ける。
「“代わってほしい”んじゃなくて」
「“代わりになって”って意味です」
悠斗の背筋が冷えた。
代わりになって。
つまり。
「器、ってことか」
蒼真が低く呟く。
玲奈はうなずいた。
「さっき写真を見た瞬間、流れ込んできた感じがあって」
「私は“候補”として選ばれてたんじゃなくて」
「“澪の代わりに入れる器”として見られてた気がします」
悠斗は歯を食いしばる。
最悪だ。
四人目になるのではなく。
誰かの代わりになる。
それが“四番移行”の意味だとしたら。
「でも何で四番なんだよ」
悠斗が言う。
「A、B、C、Dって記録があっただけだろ」
蒼真が歩みを止めずに答える。
「候補D」
「四人目じゃなく、“四番目の候補”だった可能性がある」
その言葉に、悠斗は一瞬固まる。
確かにそうだ。
自分たちはずっと“観測者が三人そろった次の四人目”という意味で考えていた。
だが、病院の記録は別の系統かもしれない。
候補A、B、C、D。
玲奈はD。
四番目の候補。
「じゃあ“次は四人目”って紙は……」
玲奈が言いかけた時だった。
廊下の先の病室の扉が、ひとつだけギィと開いた。
309号室。
中は暗い。
だが、扉の隙間から何かが見える。
ベッドの脇に、誰かが座っている。
子どもくらいの影。
三人とも止まる。
蒼真が低く言う。
「見るな」
だが今度は、その影の方から声がした。
「そうまくん」
蒼真の表情が凍る。
悠斗は蒼真を見る。
蒼真は完全に固まっていた。
「……知り合いか」
返事はない。
309号室の中から、もう一度声がする。
「そうまくん」
今度は少しはっきり聞こえた。
幼い女の子の声。
蒼真はようやく唇を動かした。
「違う」
「それ、俺を知ってるやつの声じゃない」
なのに名前を呼ばれている。
つまり。
悠斗の頭に、あの忠告が蘇る。
返事をするな。
呼ばれても。
絶対に。
病室の扉が、もう少し開く。
中から、白い腕が見えた。
ベッドのシーツを握っている。
蒼真の呼吸が浅くなる。
玲奈が小さく言う。
「九条くん、行っちゃ駄目です」
蒼真は何も答えない。
視線だけが病室に吸われている。
まずい。
悠斗はそう思った。
あの玲奈が引っ張られかけた時と同じだ。
呼びかけで、思考を崩される。
悠斗はすぐに蒼真の肩を強く引いた。
「九条!」
蒼真がはっとする。
その瞬間、309号室の扉がバンッ! と激しく閉まった。
廊下に重い音が響く。
中からはもう何も聞こえない。
蒼真は数秒遅れて、息を吐いた。
「……助かった」
本気の声だった。
玲奈が眉を寄せる。
「今、引っ張られてましたよね」
「ああ」
蒼真は隠さなかった。
「俺、前の周回で一回だけ、ここで妹の声を聞いたことがある」
悠斗と玲奈が同時に見る。
蒼真は苦い顔で続けた。
「実際に妹なんていない」
「でも、それでも一瞬、開けそうになった」
悠斗はぞっとした。
あれは相手の記憶や感情を使う。
名前を呼ぶだけじゃない。
一番弱いところを狙ってくる。
玲奈がぽつりと言う。
「じゃあ、私にあの子の声が馴染んでたのも……」
蒼真がうなずく。
「昔の接触の残りだろうな」
「一度でも触れられてたら、呼びやすくなるのかもしれない」
廊下の奥から、またコツ、コツ、と足音が聞こえてきた。
今度は一つではない。
小さな足音が複数。
しかも四方から近づいている気がする。
悠斗は唾を飲み込む。
「囲まれてる」
蒼真は素早く周囲を見た。
その時、壁際の非常口案内が目に入る。
矢印は下を向いている。
「非常階段がある」
「本当に通じるのか?」
「今のここで他に選択肢あるか」
蒼真が先に走る。
今度は止めなかった。
三人は案内に従って廊下を駆けた。
小さな足音も速くなる。
くすくす、という笑い声まで混じる。
309号室の扉も、背後でギィと開く音がした。
「見るな!」
蒼真の声。
悠斗は玲奈の手首を掴み、そのまま引っ張る。
突き当たりに鉄扉が見えた。
非常階段。
悠斗が体当たりするように扉を開ける。
重い。
だが開いた。
三人は中へ転がり込む。
錆びた階段。
薄暗い吹き抜け。
そしてここだけは、病院の嫌な空気が少し薄い。
「下だ!」
蒼真が叫ぶ。
三人は一段飛ばしで降りる。
三階。
二階。
一階。
階段はちゃんと続いていた。
今度こそ、本当に一階へ出られるかもしれない。
だが、一階の踊り場まで来た時。
鉄扉の前に、誰かが立っていた。
白衣を着た男。
顔は見えない。
首から上が、黒く塗り潰したみたいにぼやけている。
その男は、三人の前でゆっくりと頭を下げた。
そして胸元の名札だけが、はっきり読めた。
『水上 健吾』
玲奈が息を止める。
病院の元院長。
水上澪の父。
その名前の人物が、非常階段の出口を塞いでいる。
悠斗は思わず立ち止まった。
だが蒼真だけは止まらなかった。
「偽物だ!」
叫ぶと同時に、階段脇に置かれていた消火器を掴み、白衣の男へ投げつける。
消火器は男の身体をすり抜け、扉にぶつかって鈍い音を立てた。
だがそれで十分だった。
男の姿が揺らぐ。
霞みたいに崩れる。
「行け!」
三人はそのまま出口へ突っ込んだ。
鉄扉を押し開ける。
眩しい夏の光が差し込む。
外だ。
今度こそ本当に。
三人は病院の脇道へ飛び出し、そのまま建物から距離を取った。
息が切れる。
足が痛い。
でも生きて外に出た。
玲奈が荒く息をしながら言う。
「……今の、水上健吾なんでしょうか」
蒼真は首を振る。
「分からない」
「でも少なくとも、本物じゃない」
悠斗は封筒を握りしめたまま、病院を睨む。
「候補D……代わりの器……四番目の候補……」
少しずつ線がつながってきている。
だがその時。
玲奈が自分の手のひらを見て、硬直した。
「……何これ」
悠斗と蒼真が見る。
玲奈の左手首。
そこに、いつの間にか薄い赤い線が浮かんでいた。
数字だった。
細い子どもの字みたいな、歪んだ赤い文字。
『4』
三人の間から、言葉が消えた。
病院を出たのに。
まだ終わっていない。
玲奈が震える声で呟く。
「触られてないはずなのに……」
蒼真の顔色が変わる。
「いや」
「さっき、あいつが両手を伸ばした時」
「もう接触したことになってるのかもしれない」
悠斗は思わず玲奈の手首を掴む。
消えない。
こすっても落ちない。
皮膚の下に滲んでいるみたいだった。
玲奈は蒼白になりながらも、かろうじて声を出す。
「……私、もう“候補”じゃないんですか」
その問いに、誰もすぐには答えられなかった。
候補D。
四番目の器。
そして今、手首に刻まれた『4』。
それは選ばれた印のようにも、所有の印のようにも見えた。
遠くで、夕方の防災無線が流れ始める。
まるで何事もない普通の一日の終わりみたいに。
だが三人にとっては違う。
今夜の21時12分は、これまでとは決定的に意味が変わる。
そして玲奈は、自分でも気づかないうちに、ゆっくりと病院の方を振り向いていた。




