四番の鍵
神谷悠斗は、公園のベンチの下で拾った鍵を手のひらの上に乗せたまま動けなかった。
小さな金属の鍵。
病院のロッカーか、古い引き出しに使われていそうな細い形。
タグには『4』。
裏には薄く『MIZUKAMI』と刻まれている。
「……四番」
嫌な一致だった。
四人目。
玲奈の名前が書かれたシール。
『次は四人目』という紙。
そして今、四番の鍵。
偶然で済ませられる段階は、もう過ぎていた。
悠斗はすぐにスマホを取り出し、鍵の写真を撮る。
そのまま玲奈と蒼真へ送信した。
『公園のベンチ下で見つけた タグに4 裏にMIZUKAMIってある』
送信してから、鍵そのものをポケットにしまう。
落ち着いて考えろ、と自分に言い聞かせた。
この鍵は昨夜もそこにあったのかもしれない。
ただ、自分たちが気づかなかっただけかもしれない。
あるいは。
今日このタイミングで、誰かが“見つけさせた”のかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、背筋が冷えた。
悠斗は周囲を見回す。
昼の公園。
ベンチのそばで子どもがジュースを飲んでいる。
犬を連れた老人が通り過ぎる。
何も異常はない。
なのに、自分だけが別の層に立っているみたいだった。
スマホが震える。
蒼真からだ。
『触ったのか』
短い文だった。
悠斗はすぐ返す。
『拾った 今持ってる』
数秒後、すぐ返信。
『持ったまま一人で動くな』
その文面の強さに、悠斗は眉をひそめた。
続けて玲奈からも来る。
『母にMIZUKAMIって名前を聞いたら、少し反応しました でも“知らない”って言い直しました』
悠斗はその場で息を止めた。
知らないと答える前に、反応した。
つまり本当に関係がある。
母親は何かを知っている。
だが、思い出せないのか、思い出したくないのか、あるいは思い出せないようにされているのか。
もう一通、蒼真から届く。
『鍵は病院に関係してる可能性高い 18時待たずに合流する 今どこだ』
悠斗はすぐに位置を返した。
『公園』
既読がつくのとほぼ同時に、電話が鳴る。
蒼真だった。
悠斗は少し迷ってから出る。
「もしもし」
『今すぐその場から離れろ』
挨拶もなしだった。
「は?」
『鍵を見つけた場所が公園なら、見られてる可能性がある』
蒼真の声は低いが、かなり切迫している。
『駅前まで出ろ。人の多い場所の方がまだましだ』
「まだましって何だよ」
『いいから動け』
そこで通話が切れた。
悠斗は舌打ちしつつも、蒼真の声音が冗談ではないと分かっていた。
公園を出る。
交差点を渡る。
駅前へ向かって歩き始めた時だった。
反対側の歩道に、一台の黒い車が停まっているのが見えた。
昨夜の事故の車と同じ型。
同じ色。
悠斗の足が止まりかける。
だが昼間だ。
ナンバーも見えない距離。
偶然かもしれない。
そう思った瞬間、運転席の窓がゆっくり下がった。
中にいたのは、昨夜の運転手ではなかった。
女だった。
サングラスをかけていて、年齢はよく分からない。
だがその女は、はっきり悠斗の方を見ていた。
そして、口だけでこう言った。
「返して」
声は聞こえない。
けれど、読めた。
返して。
悠斗は反射的にポケットの鍵を押さえる。
次の瞬間、信号が変わり、人の流れが動き出した。
ほんの一瞬目を離しただけだった。
なのに、もう車はいなかった。
「……何だよ」
心臓が跳ねている。
返して、とは何を。
鍵のことか。
それとも、四人目に関わる何かを、自分が“持ってしまった”という意味か。
悠斗は足を速めた。
駅前に着いた頃には、じわりと汗をかいていた。
時計台の下には、すでに蒼真がいた。
自転車を止め、腕を組んで立っている。
その顔を見るなり、悠斗は少しだけ安堵する。
「急すぎるだろ」
「急ぐ必要がある」
蒼真はそう言って、悠斗のポケットを指した。
「鍵、見せろ」
悠斗は取り出して渡した。
蒼真は素手では触らず、ポケットから出したハンカチ越しに受け取る。
「そこまで警戒するのか」
「前例がない物は全部危険だと思え」
蒼真はタグを見た瞬間、顔をしかめた。
「……やっぱり四番」
「何か知ってるのか」
「少しだけな」
蒼真は声を落とした。
「前に病院の一階で、職員用ロッカーを見つけたことがある」
「番号が一から六まで並んでた」
「でも四番だけ、鍵がなくて開かなかった」
悠斗は思わず言う。
「じゃあこれ、その鍵か」
「たぶん」
蒼真は短く答える。
そこへ玲奈もやって来た。
少し息を切らしている。
「すみません、遅れました」
そしてすぐに蒼真の手元の鍵に気づく。
「それですか」
悠斗はうなずく。
「公園のベンチ下に落ちてた」
玲奈の表情が曇る。
「公園って……やっぱり受け渡しと関係あるんでしょうか」
蒼真は鍵をハンカチごとポケットにしまった。
「高い」
「ただの偶然なら、MIZUKAMIなんて刻まれてない」
玲奈は少し考えてから、静かに言う。
「病院に戻るんですか」
「今からだ」
蒼真は即答した。
「18時を待つ意味がなくなった」
悠斗も異論はなかった。
この鍵を見つけた以上、ロッカーを開けるべきだ。
病院の中で何が起きるにせよ、それが新しい手がかりになる可能性は高い。
三人は再び、旧水上病院へ向かうことになった。
駅前から離れ、町外れへ向かう道を歩く。
昼の光はまだ強い。
それなのに、三人の会話は重かった。
玲奈がぽつりと聞く。
「神谷さん、不審なメッセージの方は」
悠斗はスマホを見せた。
『四番目は もともとあなたではありません』
玲奈はそれを見て、表情を強張らせる。
「……やっぱり」
「何がやっぱりだ」
「私、少しだけ思ったんです」
玲奈は言いにくそうに続けた。
「“れいな 4ばんめ”って、本当に私のことじゃない可能性もあるって」
悠斗は眉をひそめる。
「どういう意味だ」
「昔の字って、今より崩れてたり、読み間違えたりすることがありますよね」
玲奈は自分の指先を見た。
「“れいな”じゃなくて、別の名前だったのかもしれない」
蒼真が小さく反応する。
「……例えば?」
玲奈は少し間を置いて言った。
「“れい”だけ同じで、別の人とか」
「あるいは、“れいな”は私じゃなくて、昔その病院にいた別の子の名前だったとか」
悠斗はそこまで考えていなかった。
確かに可能性はある。
だが今の状況では、希望的観測にも聞こえる。
蒼真は冷静に言った。
「その可能性は残す」
「でも現時点では、佐倉が一番近い」
玲奈はうなずいた。
否定はしない。
それが逆に痛々しかった。
旧水上病院が見えてくる。
川沿いの灰色の建物。
昼間なのに、近づくだけで空気が重くなる気がする。
裏口は前と同じように半開きだった。
三人は無言で中に入る。
ひんやりした空気。
静まり返った廊下。
やはり、ここだけ時間の流れが違う。
蒼真が先頭に立つ。
「ロッカーは一階の奥だ」
今度は三階には向かわず、そのまま一階の職員通路へ進む。
前回来た時には見逃していた場所だ。
受付の裏手を抜け、事務室らしき部屋の先へ行くと、確かに細長いロッカーが並んでいた。
一、二、三、四、五、六。
錆びた番号札。
そして四番だけ、他より少し新しい傷がついている。
誰かが何度も開けようとした跡みたいだった。
蒼真がハンカチ越しに鍵を差し込む。
三人とも息を止める。
カチ、と小さな音がした。
開く。
蒼真がゆっくり扉を引いた。
中には、意外なほど物が少なかった。
古い名札。
病院の職員証。
そして、茶封筒が一つ。
封筒の表には、黒い文字でこう書かれている。
『四番移行記録』
玲奈が小さく声を漏らす。
「……移行」
その単語は、これまでの手がかりすべてを嫌な方向へつなげた。
観測者が三人そろった時、次の段階へ移行する。
そして今度は、四番移行記録。
蒼真は封筒を見つめたまま言う。
「開けるぞ」
悠斗も玲奈も、黙ってうなずく。
封筒の中には、数枚の書類と写真が入っていた。
一枚目。
病院の診療記録のコピー。
患者名――水上 澪。
その下に、手書きで追記がある。
『適合不全 代替候補へ変更』
二枚目。
家族関係らしきメモ。
『候補A 失敗』
『候補B 定着せず』
『候補C 観測不可』
そして三枚目で、玲奈の手が止まった。
そこには幼い頃の写真が貼られていた。
病院の待合室らしき場所で、泣いている小さな女の子。
横には若い母親。
写真の下に書かれている名前は。
『佐倉 玲奈 候補D』
悠斗の頭が真っ白になる。
玲奈本人も、声を失っていた。
蒼真だけが歯を食いしばるように呟く。
「……候補じゃない」
「最初から、入れ替え先として見られてたのか」
その瞬間。
ロッカー室の奥で、コツ、と小さな足音がした。
三人が同時に振り向く。
誰もいないはずの通路の暗がり。
そこに、白いワンピースの女の子が立っていた。
昼間なのに。
病院の一階なのに。
今日はもう、隠れる気がないみたいだった。
女の子はじっと玲奈を見ている。
にこり、と笑う。
そして今度は、はっきりと声が聞こえた。
「みつけた」
玲奈の肩が大きく震えた。
悠斗は反射的に玲奈の前へ出る。
蒼真もすぐに封筒を掴み、叫んだ。
「閉めろ!」
だがその直後、ロッカーの扉がひとりでにバタンと閉まり、廊下の照明もないはずの天井が、一瞬だけ白く明滅した。
女の子の姿がぶれる。
笑っている。
近づいてくる。
足音はしない。
それなのに距離だけが縮まる。
玲奈が小さく呟いた。
「……違う」
悠斗が振り向く。
玲奈の目は、女の子だけを見ていた。
「この子、水上澪じゃない」
ぞくり、と背筋が冷えた。
「何で分かる」
玲奈は震える声で言う。
「さっき、見えたんです」
「写真を見た瞬間に」
「この子は……待ってた側だって」
蒼真の表情が変わる。
「待て、それは――」
女の子が、さらに一歩前に出た。
そして、玲奈に向かって両手を伸ばす。
抱きつこうとしているようにも見える。
迎えに来たようにも見える。
その口が開いた。
「かわって」
次の瞬間、病院全体が大きく揺れた。




