病院からの脱出
神谷悠斗たちは、三階の廊下を全力で駆けていた。
背後から、カラカラ、カラカラ、と乾いた音がいくつも追いかけてくる。
車椅子の音。
そう思いたかった。
だが、本当にそれだけなのかは誰にも分からない。
「早く!」
九条蒼真が先頭で叫ぶ。
佐倉玲奈がその後ろを走り、悠斗が最後尾についた。
三階の空気は冷たく、肺が痛い。
しかも走っているのに、妙に距離が縮まらない感覚があった。
廊下が長い。
さっき通った時より、明らかに長い。
「……っ、おかしい!」
悠斗が叫ぶ。
「階段、こんなに遠かったか!?」
蒼真が振り返りもせず答える。
「病院の中は、たぶん形が変わる!」
「止まるな!」
玲奈も息を切らしながら言った。
「後ろ、見ない方がいいです!」
そう言われると逆に見たくなる。
だが悠斗は歯を食いしばって前だけを見た。
見たら、たぶん足が止まる。
そんな気がした。
壁の動物の絵が流れていく。
うさぎ。
くま。
ぞう。
なのに、一枚だけ見覚えのない壁紙が混じっていた。
女の子が描いたような下手なクレヨンの家族の絵。
父、母、子ども三人。
そして端に、もう一人だけ、顔のない小さな人影が描かれている。
「……四人目」
悠斗の頭に、その言葉がよぎった瞬間だった。
バンッ!!
すぐ横の病室の扉が、内側から激しく叩かれた。
玲奈が短く悲鳴を上げる。
次の部屋。
その次の部屋。
まるで三人が通り過ぎるのに合わせるように、次々と扉が鳴り始めた。
バンッ!
バンッ!
バンッ!
「ふざけんなよ……!」
悠斗は叫ぶように吐き捨てる。
背後の音も近づいていた。
カラカラ、カラカラ、カラカラ。
しかも混じっている。
子どもの笑い声のようなものが。
高く、細く、湿った笑い声。
くす、くす、くす。
玲奈が震えた声で言う。
「……聞こえます」
蒼真が鋭く返す。
「無視しろ!」
ようやく廊下の先に階段が見えた。
見えた瞬間、悠斗は少しだけ安堵した。
だが次の瞬間、その安堵は吹き飛ぶ。
階段の前に。
白いワンピースの女の子が立っていた。
裸足のまま、手すりのそばに。
じっとこちらを見ている。
「……っ!」
三人とも反射的に足を止めかける。
だが蒼真だけは止まらなかった。
「突っ切る!」
「は!?」
悠斗が叫ぶより早く、蒼真はそのまま女の子へ向かって走った。
玲奈も遅れて続く。
悠斗も腹を括るしかない。
女の子は動かない。
にこり、と笑ったまま。
距離が縮まる。
あと五歩。
あと三歩。
あと一歩。
その瞬間。
女の子の姿が、煙のように横へ揺らいだ。
そして、すり抜けた。
悠斗はその感覚に背筋が凍る。
触れていないのに、冷たい水の膜を通ったみたいな嫌な感触だけが腕に残った。
三人は階段へ飛び込む。
下へ。
二階へ。
一階へ。
階段は普通だった。
少なくとも、三階の廊下よりは。
だが一階に降りたところで、悠斗は異変に気づく。
「……おい」
受付前のロビー。
本来なら外へ通じる正面玄関が見えるはずの場所に。
壁があった。
コンクリートの、何もない壁。
玲奈が息を呑む。
「そんな……」
蒼真が舌打ちする。
「閉じ込められた」
悠斗の全身から血の気が引く。
「裏口は!?」
「行くしかない!」
三人は一階の廊下を裏口へ向かって走る。
今度は背後の音だけではなく、前方からも何かが聞こえてきた。
ギィ……ギィ……
車輪ではない。
何か重いものを引きずるような音。
「囲まれてるのか……?」
悠斗が呟くと、蒼真が低く言った。
「たぶん、試されてる」
「何をだよ!」
「観測者として残るかどうかを」
訳の分からない言葉だった。
だが今は問い返している余裕がない。
裏口前の通路に差しかかった時。
玲奈が急に立ち止まった。
「待って!」
蒼真も悠斗も止まる。
「どうした!?」
玲奈は壁を指差した。
そこには、案内板の下に古い集合写真が掛かっていた。
病院のスタッフ写真。
さっき入った時は気づかなかった。
だが今、その写真の一番端に。
白いワンピースの少女が写っていた。
他の職員たちは真顔で並んでいるのに、その子だけが異様にはっきり笑っている。
しかも。
その隣には、もう一人子どもがいた。
顔が黒く塗り潰されている。
「……四人目?」
悠斗が呟く。
玲奈が写真に近づく。
「これ……裏に何か挟まってます」
写真立ての隙間から、小さく折られた紙がのぞいていた。
蒼真が周囲を警戒しながら言う。
「早く取れ」
玲奈が紙を引き抜く。
開く。
そこには震えた字でこう書かれていた。
『4人目を入れるな』
三人の空気が変わった。
“次は四人目”ではない。
“4人目を入れるな”。
正反対の言葉だった。
悠斗が言う。
「誰が書いたんだ、これ」
蒼真の目が鋭くなる。
「病院の中に、ループを止めようとした側がいたのかもしれない」
玲奈が写真を見つめたまま言う。
「じゃあ、この子……水上澪じゃない可能性もある?」
その時。
ギィ……と裏口の扉が、勝手に開いた。
三人とも振り向く。
外の光が差し込む。
川沿いの道。
雑草。
青い空。
出口だ。
「行くぞ!」
蒼真が叫ぶ。
三人は一斉に裏口へ飛び出した。
外の熱気が肌にぶつかる。
夏の匂い。
風の音。
病院の中にいた時には感じなかった、生きた世界の感覚だった。
そのままフェンスの隙間を抜け、病院から十分ほど離れた川辺まで走って、ようやく三人は足を止めた。
「はぁ……っ、はぁ……っ……」
悠斗は膝に手をついて息を整える。
玲奈も肩で呼吸をしている。
蒼真だけはまだ病院の方を睨んでいた。
「……追っては来てない」
その言葉に、ようやく少しだけ緊張が緩む。
悠斗は汗をぬぐいながら言った。
「何なんだよ、あそこ」
蒼真はすぐには答えなかった。
しばらくしてから、低く言う。
「前より明らかに反応が強くなってる」
「三人そろったせいだ」
玲奈は、さっきの紙を見つめていた。
『4人目を入れるな』
「これ、すごく大事な気がします」
「うん」
悠斗も同意する。
「“四人目”は必要なんじゃなくて、入れたらまずい可能性がある」
蒼真が腕を組む。
「でも、あっちは“次は四人目”って言ってきた」
「つまり」
悠斗が言葉を継いだ。
「誰かが、四人目を欲しがってる」
玲奈は静かに言う。
「そして別の誰かが、それを止めようとしていた」
風が吹いた。
川面が揺れる。
穏やかな昼下がりの景色なのに、三人の立っている場所だけが現実からずれているみたいだった。
その時。
玲奈がふと顔を上げる。
「……そういえば」
「何だ?」
「九条くん、さっき言ってましたよね」
「観測者として残るかどうかを試されてるって」
蒼真は一瞬だけ黙った。
そして観念したように口を開く。
「前のループで、一人いたんだ」
悠斗と玲奈が同時に見る。
「もう一人、観測者が」
「……四人目?」
蒼真は首を横に振った。
「いや」
「三人目になる前に会った」
「でも、次の朝になったら」
蒼真はそこで言葉を切る。
顔色が悪かった。
「そいつは、普通の住民になってた」
悠斗は意味が分からず眉を寄せる。
「は?」
「記憶を失ったんだよ」
蒼真ははっきり言った。
「ループに気づいてたはずなのに、次の周回で全部忘れてた」
玲奈が息を呑む。
「そんなこと……」
「ある」
蒼真の声は重かった。
「だから俺は言ったんだ」
「このループは、気づいたら終わりじゃない」
「観測者でい続けられるかどうかも条件なんだよ」
悠斗は背筋に冷たいものを感じた。
観測者でい続ける。
つまり。
この秘密に近づくほど、逆に外される可能性がある。
あるいは、消される。
玲奈が小さく呟く。
「じゃあ四人目って……新しく加えるってことじゃなくて」
「入れ替えかもしれない」
蒼真は何も言わなかった。
その沈黙が、答えだった。
三人でここまで来た。
けれど、このままずっと三人でいられる保証はない。
誰かが抜けて、別の誰かが入る。
そんな形で“四人目”が生まれるのだとしたら。
悠斗は病院の方を見る。
窓の一つに、白いものが見えた気がした。
目を凝らす。
だが、もう何もない。
ただの曇ったガラスだけだ。
それでも確信だけは残った。
あそこは、こちらを見ている。
ずっと。
そして今夜もまた、21時12分はやってくる。
事故。
公園。
受け渡し。
すべてが同じように繰り返されるはずなのに、少しずつ中身が変わってきている。
悠斗は拳を握った。
「……今夜だな」
蒼真が視線を戻す。
「ああ」
「病院で手に入れた情報を、公園と事故にぶつける」
玲奈も頷く。
「“四人目”が何なのか、今夜で少しは見えるかもしれません」
三人は川辺に立ったまま、しばらく無言だった。
風だけが流れる。
そして悠斗は、ポケットに入れたままだった小さなものに気づく。
病院から出る時、無意識に握っていたらしい。
取り出してみる。
それは、305号室の床に落ちていた、星型のシールだった。
色あせた小さなシール。
だが裏返すと、そこには鉛筆で小さく文字が書かれていた。
『れいな』
悠斗の呼吸が止まる。
「……佐倉」
玲奈が振り向く。
悠斗は震える指でシールを見せた。
玲奈の顔から血の気が引く。
そこに書かれていたのは、ただの名前じゃなかった。
『れいな 4ばんめ』
川辺の空気が、一瞬で凍りついた。




