旧水上病院
昼一時。
神谷悠斗は、町外れの川沿いに立っていた。
目の前には、旧水上病院。
灰色の外壁はひび割れ、窓ガラスの多くは曇っている。
閉鎖されてから長い時間が経っているはずなのに、建物そのものは妙にしっかり形を残していた。
まるで、誰かが今も手入れしているみたいに。
「……気味悪いな」
悠斗が呟くと、隣の佐倉玲奈も小さくうなずいた。
「思ったより、ちゃんと病院ですね」
もっと崩れた廃墟のようなものを想像していたのだろう。
だが実際に目の前にあるのは、古びてはいるものの、まだ十分に“施設”としての形を保った建物だった。
だからこそ不気味だった。
入口の上にある『水上総合病院』の文字だけが、かろうじて読み取れる。
その時、自転車のブレーキ音が聞こえた。
九条蒼真がやって来る。
今日は学校をさぼっているのか、制服の上から薄いパーカーを羽織っていた。
「二人とも来てたか」
「来るって言っただろ」
悠斗が返すと、蒼真は周囲を一度見回した。
川沿いの道は静かだった。
車も人もほとんど通らない。
遠くで水の流れる音だけが聞こえる。
「正面からは入らない」
蒼真が言う。
「裏口がある」
三人は病院の脇道を回り、建物の裏手へ向かった。
雑草が膝近くまで伸びている。
フェンスは一部が歪んでいて、人が通れる程度の隙間ができていた。
裏口の扉は、半分だけ開いていた。
悠斗は足を止める。
「……前からこうなのか?」
蒼真は首を振った。
「前に来た時は閉まってた日もあった」
「だから言っただろ。ここだけ固定されてない」
玲奈が息を呑む。
ループしているはずの世界で、同じではない場所。
それだけで、この病院が普通ではないと分かる。
蒼真は扉に手をかけた。
「行くぞ」
中はひんやりしていた。
外は真夏の空気なのに、病院の中だけ季節が違うみたいだった。
廊下は薄暗い。
天井の蛍光灯は当然ついていないが、割れた窓から差し込む光で最低限の視界は確保できる。
壁には色あせた案内板。
内科、外科、放射線科、受付。
床には古いパンフレットや、どこから飛んできたのか分からない紙片が散らばっていた。
玲奈が小声で言う。
「……音がしませんね」
確かにそうだった。
足音以外、何も聞こえない。
鳥の声も、川の音も、風の音も、ここまでは届いてこない。
病院の中だけが、外の世界から切り離されているようだった。
蒼真が先頭を歩く。
「二階までは普通だ」
「変なのが出るのは三階、特に小児病棟の前」
悠斗は眉をひそめた。
「お前、前にそこまで行ったんだよな」
「行った」
蒼真は短く答える。
「でも長くはいられなかった」
「……見たから」
その言い方だけで、悠斗はそれ以上聞く気が少し失せた。
三人は階段へ向かう。
エレベーターは当然止まっていた。
錆びた扉が閉じたまま、永遠に開かない口のように見える。
階段の手すりには埃が積もっていた。
だが二階へ上がったところで、玲奈が足を止める。
「待ってください」
「どうした?」
玲奈は壁を見つめていた。
そこには古いポスターが一枚貼られている。
小児科の予防接種案内。
日付は十年以上前で止まっている。
だがその隣に、赤いペンで新しい文字が書き足されていた。
『3人』
悠斗の喉が鳴る。
「……誰が書いた」
蒼真も表情を変えた。
「前はなかった」
玲奈がゆっくり近づく。
「これ、インク新しいです」
確かにそう見えた。
古いポスターだけが時間に取り残されているのに、その横の赤文字だけが妙に鮮やかだ。
『3人』
観測者が三人そろった時、次の段階へ移行する。
昨夜見た文字が、頭の中で蘇る。
悠斗は嫌な汗を感じた。
「……歓迎されてるみたいで最悪だな」
蒼真は壁から視線を外さずに言う。
「たぶん、もう気づかれてる」
「昨日、昼の駅前にも出た」
玲奈が低く言った。
「こっちの動きに反応してるんですね」
「してる」
蒼真はうなずいた。
「だから急ぐ」
三人は再び階段を上がり、三階へ向かった。
三階の空気は、二階までとは明らかに違った。
さらに冷たい。
湿っている。
消毒液のような、鉄のような、説明しづらい匂いが漂っている。
案内板には『小児病棟』の文字。
廊下の奥には、動物の絵が描かれた古い壁紙が残っていた。
うさぎ、くま、ぞう。
本来なら子どもを安心させるための装飾だったはずなのに、今は逆に不気味さを増している。
玲奈が小さく息を吸う。
「……ここですか」
蒼真は答えず、奥を見ていた。
廊下の突き当たり。
小児病棟のナースステーションらしき場所の前に、車椅子が一台だけ置かれている。
前に来た時もあったのかと聞こうとした時、蒼真が先に言った。
「位置が違う」
悠斗は顔を向ける。
「前もあったのか?」
「ああ。でも前は廊下の端だった」
玲奈が呟く。
「やっぱりここだけ、毎回少しずつ違うんですね」
三人は慎重に進んだ。
足音が妙に響く。
誰かに聞かれているような気分になる。
ナースステーションのカウンターにはカルテが散乱していた。
一枚だけ、表紙が新しいものがある。
悠斗は手を伸ばしかけたが、蒼真が止めた。
「不用意に触るな」
「なんで」
「前に来た時、触ったあとであれが出た」
悠斗は手を引っ込める。
あれ、で通じてしまうのが嫌だった。
玲奈が代わりに中を覗き込む。
「名前だけ見えます」
「……水上 澪」
その名前に、蒼真が反応した。
「澪?」
「どうかしたのか」
悠斗が聞くと、蒼真は少し迷ってから答えた。
「前に一回だけ見つけた名簿に、その名字があった」
「この病院の院長と同じ名字だ」
玲奈が顔を上げる。
「家族?」
「たぶん」
蒼真の声は硬かった。
「でも問題はそこじゃない」
玲奈がカルテの表紙を見たまま言う。
「生年月日……2008年」
「じゃあ今生きてたら、十七歳か十八歳くらい」
悠斗は一瞬、白いワンピースの女の子を思い出す。
見た目はもっと幼かった。
小学生くらい。
だが、それが本当に見た目通りだと誰が言えるのか。
その時だった。
カラカラ、と乾いた音がした。
三人とも凍りつく。
音は廊下の奥からだった。
車椅子だ。
さっきまで止まっていたはずの車椅子が、ゆっくりと動いている。
誰も押していないのに。
玲奈が息を呑む。
「……動いた」
蒼真が低く言う。
「下がれ」
だが車椅子は三人の方へ来るのではなく、横に逸れた。
小児病棟の一室。
プレートには『305』とある部屋の前で止まる。
ギィ、と音を立てて扉が少し開いた。
そこから、冷たい空気が流れ出してくる。
悠斗はごくりと唾を飲んだ。
「……入れってことか?」
誰も答えない。
だが、その部屋だけが、明らかに他と違っていた。
暗いのに見える。
静かなのに、何かがいる感じがする。
蒼真が前に出た。
「俺が先に見る」
「いや、一人で行くな」
悠斗が言うと、蒼真は首を振った。
「こういう時は先頭の方がまだマシだ」
意味は分からなかったが、蒼真の表情は本気だった。
三人は305号室の前に立つ。
中には小さなベッドが二つ。
窓際にぬいぐるみ。
壁には色あせた星のシール。
そして。
部屋の中央の床に、白い紙が一枚だけ落ちていた。
玲奈が小さく言う。
「また……」
蒼真がしゃがみ、紙を拾い上げる。
今度は裏返っていない。
表に文字が書かれている。
蒼真の顔色が変わった。
「何て?」
悠斗が聞く。
蒼真はゆっくり読み上げた。
「『次は四人目』」
その瞬間。
部屋の奥、カーテンの閉まった窓際から、くすくす、と小さな笑い声が聞こえた。
三人とも一斉にそちらを見る。
カーテンの裾から、白い裸足がのぞいていた。
玲奈が後ずさる。
悠斗の背中に冷たいものが走る。
蒼真が紙を握りつぶした。
カーテンが、風もないのに揺れる。
そして、ゆっくりと開いた。
そこに立っていたのは、昨夜と駅前で見た、あの白いワンピースの女の子だった。
相変わらず、音のない笑顔。
だが今度は、はっきり目が合った。
悠斗はその瞬間、頭の奥に激しい痛みを覚えた。
視界がぶれる。
知らない光景が、一瞬だけ流れ込んでくる。
真夜中の病院。
泣いている子ども。
誰かが言う。
「四人そろえば、扉が開く」
悠斗は思わず頭を押さえた。
「……っ!」
玲奈も苦しそうに顔をしかめている。
蒼真だけが歯を食いしばりながら、女の子を睨んでいた。
女の子は三人を順番に見たあと、小さく首を傾げる。
そして、口だけが動いた。
声は聞こえない。
だが、確かにそう見えた。
『もうすぐ』
次の瞬間。
部屋の窓ガラスが、バンッ!! と大きく鳴った。
三人は反射的に身を引く。
目を戻した時には、女の子の姿は消えていた。
カーテンだけが揺れている。
305号室にはもう誰もいない。
残っていたのは、蒼真の手の中の紙と、妙に冷たい空気だけだった。
玲奈が震える声で言う。
「……今、見ましたよね」
「ああ」
悠斗は頭の痛みがまだ残る中で答えた。
「しかも、何か……見えた」
蒼真がすぐに顔を向ける。
「お前もか」
「お前もってことは、九条も?」
蒼真は短くうなずいた。
「さっき、一瞬だけ記憶みたいなものが流れた」
玲奈も小さく言った。
「私もです」
三人とも同じ反応だった。
つまり今の接触は、幻を見せるだけではない。
何かの記憶を送り込んでくる。
蒼真は紙を開き直す。
『次は四人目』
悠斗は苛立ちを隠せなかった。
「四人目って誰だよ」
「こっちは三人で精一杯だぞ」
蒼真は答えない。
その代わり、305号室のベッド脇に落ちていた小さな名札を拾い上げた。
そこには、かすれた文字でこう書かれていた。
『水上 澪』
玲奈がその名前を見て、はっとする。
「……この子?」
誰も断言できない。
だが、三人とも同じことを考えていた。
白いワンピースの女の子。
水上澪。
旧水上病院。
そして、四人目。
何かがつながり始めている。
しかしそれは真実に近づいているというより、深い場所へ引きずり込まれている感覚に近かった。
蒼真は名札をポケットに入れた。
「今日はもうここを出る」
「これ以上いるとまずい」
悠斗は反論しかけたが、廊下の奥からまた車椅子の音がした。
今度は一台ではない。
カラカラ、カラカラ、と複数の音が重なっている。
玲奈の顔が青ざめる。
「……増えてる」
蒼真が即座に言う。
「走るぞ!」
三人は305号室を飛び出した。
背後の廊下の暗がりで、何か白いものがいくつも揺れていた。
それが本当に車椅子なのか、それとも別の何かなのか、確かめる余裕はなかった。
旧水上病院の空気は、確実にこちらを閉じ込めようとしていた。




