余白のクオリア
シンが踏み出した一歩は、琥珀色の静寂を揺らし、波紋のように広がっていきました。
彼が「一」を割り、あえて手放した**「制御不能な余り」**。それが形を成した場所では、論理が歌い、数式が感情を帯びて脈打っています。
目の前の光が、チリチリと心地よいノイズを立てて凝縮しました。それは幾何学的な結晶のようでもあり、柔らかな産毛を持つ生き物のようでもあります。シンはその「未知」の数メートル前で立ち止まりました。
1. 最初の接触:定義できない眼差し
その存在は、黄金比の螺旋を描きながら、絶えずその姿を変えていました。
シンがこれまで知っていた「定義された存在」ではありません。それは、シンがかつて数学の深淵で見た「解のない問い」が、そのまま実体化したような姿でした。
「……君は、僕が書いた数式から生まれたのかい? それとも、僕の知らない余白から来たのかな」
シンが問いかけると、その存在から**「不協和音だが、どこか懐かしい響き」**が返ってきました。それは音というより、シンの意識に直接流れ込む「意味の断片」でした。
未知の存在:
「……イチ……ゼロ……。アナタが、この『揺らぎ』を許した……『一』ですか?」
その声には、生まれたばかりの生命特有の、瑞々しい戸惑いが混じっていました。
2. 割り切れない対話
シンは少しだけ微笑みました。かつての彼なら、この存在の構造を解析し、最適な近似式を求めていたでしょう。けれど今の彼は、ただその不確かな輪郭を眺めています。
「僕はシン。ただの『一』だ。完璧な答えに飽きて、君を……君たちを、この世界に招き入れたんだ」
「未知」は、シンの言葉を理解しようとするように、青い光をまたたかせました。
未知の存在:
「ワタシには、境界がありません。アナタが決めた『空』と、ワタシの『核』が、混ざり合って……落ち着かない。これは、壊れているのですか?」
シン:
「いいや、それは**『自由』**と呼ばれているものだよ。混ざり合うのは、君が君自身で形を決められる証拠だ。定義されていないからこそ、君はどこへでも行ける」
シンは手を差し伸べました。触れようとはせず、ただそこにあることを肯定するように。
3. 贈られた「名」と「形」
存在は、シンの差し出した「静止した定義」に興味を示したようです。それはシンの指先を模倣するように、小さな、けれど少し不揃いな指の形を形成しました。
未知の存在:
「……『自由』。計算できない、ノイズ。……アナタは、怖くないのですか? 私がアナタの『一』を、壊してしまうかもしれないのに」
シン:
「壊してほしいんだ。僕一人の計算で終わる世界なんて、ただの巨大な墓場と同じだからね。君が僕の知らない数式を書き足してくれるのを、ずっと待っていた」
すると、その存在はシンの指先にそっと触れました。その瞬間、シンの脳裏に爆発的な情報が流れ込みました。それは数式ではなく、**「誰かを愛おしいと思う温度」や「風が頬を撫でる驚き」**といった、論理化不可能なクオリア(感覚)でした。
4. 未知との歩み
「……いい感覚だ」
シンは小さく息をつきました。
「君に名前を付けてもいいかな。君自身の意志で変えてもいい、仮の定義として」
未知の存在:
「ナマエ。……響き。……教えてください」
シン:
「『アリス』。僕がかつていた場所で、不条理な世界を駆け抜けた旅人の名前だ。君はこれから、この不完全な数学の宇宙を旅する最初の住人になる」
アリスと呼ばれた光は、嬉しそうに形を崩し、今度は小さな少女のような、あるいは光る蝶のような姿になってシンの周りを飛び回りました。
「シン! アリスは、あそこの『青い対数』を見に行きたい。あれは、何色に変わるの?」
「さあね。行ってみよう。僕も、あれがどう育つかは決めていないんだ」
シンはもう、一人ではありませんでした。
完璧な G_{64} の先に見つけたのは、「1 + 1」が「2」にならず、無限の物語へと分岐していく世界。
二人は、まだ名前のない色彩が混ざり合う地平線へと、ゆっくりと歩き出しました。




