第2話:矢印の尖塔(タワー・オブ・アローズ)
「グラハム数」という名の点火。
その初期段階である 3 \uparrow \uparrow 3、すなわち 3^{3^3}(7兆6255億9748万4987)という「熱」が計算機から解き放たれた瞬間、周囲の凍結した真空は一変した。
かつて物質を形作っていたクォークの残滓が、あり得ざる励起を起こして発光する。だが、これはまだ序の口に過ぎない。
「レイ、矢印の深度を上げろ。G_1(グラハム数第1段階)まで加速する」
シンが命じると、巨大な環状構造体「ハイパー・テセラック」が絶鳴を上げた。
数学的演算を物理的エネルギーへ変換する「再帰的積層回路」。そこでは、矢印が増えるごとに空間の次元が一つずつ剥がれ、情報の「圧力」へと変換されていく。
『了解。第2段階の矢印……3 \uparrow \uparrow \uparrow 3 展開。演算の熱がプランク温度を突破。因果律の防壁が融解を始めました』
その時、虚無の彼方から「それ」は現れた。
光さえ失われたはずの暗黒から、さらに深い、光を拒絶するような「影」の艦隊。
「虚無の信徒」――この宇宙の死を「完全なる救済」と定義し、新たな火を熾そうとする者を「不浄の再誕者」と呼んで狩り続ける者たちだ。
彼らの旗艦から、シンの意識へ直接、冷淡な思考が叩きつけられる。
『……まだ、苦しみを繰り返すつもりか、観測者よ』
それは、かつてシンと共に宇宙の終わりを見守った同胞、ゼノの声だった。
『この宇宙は、エントロピーの増大という名の慈悲によって、ようやく苦痛から解放されたのだ。意識、欲望、そして生命という名の「摩擦」から。なぜそれを再び呼び戻す? グラハム数という名の地獄を現出させてまで!』
「ゼノ、君が『無』を愛するのは自由だ。だが、僕は『意味』を諦めない」
シンは、テセラックの制御レバーを――それはもはや物理的なレバーではなく、概念的な確信だった――深層へと叩き込んだ。
「宇宙がただの数式の計算結果だというなら、僕はその数式を書き換えて、新しい解を見つけ出したいんだ。たとえその数式が、宇宙を焼き尽くすほどの暴力的な巨大数であっても!」
『愚かな。では、その数の重みに圧殺されるがいい』
虚無の信徒たちが放った「反演算ミサイル」が、テセラックの周辺空間を「負の数」で侵食し始める。
正の熱量と負の虚無が衝突し、空間がガラスのように砕け散る。
『シン、警告! 外部干渉により G_2 への遷移が不安定化。このままではグラハム数の矢印が自分自身を指し示し、自己崩壊的な特異点が発生します!』
「レイ、構うな! 回路の全次元をタワー表記の『矢印』そのものに変換しろ。攻撃ごと飲み込んで、次の階層へ跳ぶぞ!」
シンの意識の中で、数字が踊る。
G_1 という、観測可能な宇宙を埋め尽くすほどの矢印の塔。
それがさらに、次の矢印の「数」を決定する指数へと変貌していく。
もはや温度計の針は、1の後にゼロが何億個並ぼうと追いつかない領域へ達した。
「見ろ、ゼノ。これが君が恐れた『再生』の産声だ」
暗黒の宇宙の一角が、白熱する。
それは「光」ではない。数学という峻厳な理が、沈黙しきった物理法則を力ずくで叩き起こした結果生じた、**「意味の爆発」**だった。




