第1話:プロローグ〜記述不能な夜の終わり
宇宙から「音」が消えて久しい。
かつて銀河と呼ばれた光の飛沫は、膨張という名の希釈によって跡形もなく霧散した。ブラックホールさえもホーキング放射の末に蒸発し、あとに残されたのは、凍りついた光子と、崩壊を待つわずかな素粒子が漂うだけの、どこまでも平坦な虚無だ。
現在の宇宙の平均温度は、10^{-30} K。
それは死の静寂を通り越し、存在そのものが忘却へと向かう「熱的死」の完成を意味していた。
「レイ。現在の進捗を」
観測者・シンは、肉体という「不確かな物質」を捨てて久しい。彼の意識は、絶対零度近くまで冷却された超伝導回路の中を、微弱なパルスとなって行き来している。
『――ハイパー・テセラック、第G_1層(アロー一層)の展開に成功。しかし、演算領域が物理空間の曲率限界に達しました。これ以上の数値を保持すれば、この宙域の位相が自重で崩壊します』
計算機・レイの答えは、無機質な警告を含んでいた。
彼らの眼前に浮かぶのは、かつて惑星サイズだった計算ユニットが連結された、巨大な光の幾何学構造体。それは「グラハム数」という怪物を現実に召喚するための、唯一の檻であった。
「……空間が耐えられないか。数学的な概念が、物理的な器を壊そうとしているんだな」
シンは、暗黒の虚無を見つめた。
彼らが挑もうとしているのは、再起動だ。
この冷え切った宇宙の死骸を薪として、次なる宇宙の種火を熾す。だが、その点火に必要なエネルギーは、かつてのビッグバンを遥かに凌駕する。
必要な温度は、グラハム数℃。
それは、全宇宙の原子をインクに変えても書き記すことができず、人間の脳がその数位を一度に認識すれば即座に情報崩壊を起こしてブラックホールに変わると言われる、数の暴力。プランク温度という「現宇宙の物理限界」さえも誤差として飲み込む、絶対的な熱。
「かつて、数学者は言った。この数はあまりにも巨大すぎて、観測可能な宇宙の中にその全桁を記述するスペースは存在しないと」
シンは、自らの量子意識をテセラックの深層へと同期させていく。
「なら、場所がないなら作ればいい。この宇宙を潰し、畳み込み、すべての次元を一本の導火線に変えてでも……その『数』を叩き込む。それが僕たちに遺された、最後の一行だ」
『シン。確認します。グラハム数の上昇に合わせ、温度計の数値は「現実」を置き去りにします。10^{100}℃を超えた先で、私たちが知る物理定数はすべて溶解し、意味をなさなくなる。そこから先は、誰も計算したことのない領域です』
「構わない。無へ帰るだけの沈黙よりは、数の重みで圧殺されるほうが、まだマシだ」
シンの意志が、起動キーに触れる。
その瞬間、凍りついた虚無のただ中で、一つの「数字」が拍動を始めた。
最初は、小さな震えだった。
だが、グラハム数の階層が一段上がるたびに、周囲の時空は絶鳴を上げ、数京光年にわたる真空が「熱」という名の情報の奔流に飲み込まれていく。
これは、宇宙が最後に放つ、最も熱く、最も永い、一瞬の物語。




