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第二章 交錯する二人 (4)

■■■



湯気は浴室を満たして湯船に浸かる私を柔らかに包み込み、壁のガラス窓に浮かぶ小さな水滴たちは大きな水の塊になりながら枠下へと滑り落ち、あとに続く水滴の道を幾筋もつくっている。そんな中で天井が湯煙で霞むのを浴槽に背をもたれかけながら見上げて私は一息つく。その吐息の音は壁に染み込むかのように、すぅーっと消えていった。

日本に来てから休む暇もなかったからか、お風呂のお湯のせいなのか分からないけど、全身の疲労を私は強く感じる。でも、ものすごく気持ちが良かった。身体が融けるような快感。アニメで見た光景をこんな風に体験するのは不思議な感覚だったけど、そんなことすら汗と一緒に流されてしまい何も考えられなかった。

これが、日本のお風呂か。

こんなのを知ってしまったら故郷(くに)に帰ったとき、どうすればいいんだろう? パパにバスタブを家に欲しいとねだってみようかな。だけど、今回の件でいろいろ迷惑かけちゃったし、これ以上は流石に甘えられないよね。なら、やっぱり諦めるしかない。残念だけど。


「ふ────………………。よし、上がるか」

小さく呟き、私は立ち上がって浴槽から出てフォールディングドアの取っ手に手をかけた際、今さらながら着替えのことを改めて考える。入る前にもどうしようかと悩んだんだけれど、すっかり日本のお風呂文化への好奇心により一瞬で忘れ去られたのだ。

どうしよう。

脱衣室へ出てカゴの中にある一番上のタオルを取り、濡れた体を拭きながら考える。また制服を着ればいいだろうと思うけど、黒崎くんにドン引きされそうで恐くなり、発想を白紙に戻す。ただでさえ廃墟に住んでるって告白して同情されてるのに、これ以上の失態は重ねたくない。

まったく、どうしてこんなときに使える魔法がないのだろうか。魔法使いと言っても不便なものだ。催眠かけたりだとか、呪いだとか、炎を自由自在に操るだとか、空を飛べたりだとか非現実的な事は沢山できるくせに日常生活では何の役にも立たない。

なんで毎日、私は魔法なんかを律儀に修練してるんだろう。

赤い髪に絡みつく水をタオルで拭き取りながら私は憂鬱な気分になった。魔法のことを考えるとせっかくお風呂で流した疲れがまた蓄積されてしまう。

「はぁー……」

ドタ、ドタドタ。

遠くで何かの足音。

ガタン、ドタドタドタ!

扉を閉める音、近づいてくる、さっきと同じ足音。

そして、すぐそばで止まり、

ガラガラガラガラッ!!


「あっ」


「え?」


目が合う。

黒い瞳。黒い髪。若い男の子。日本人。クラスメート。

黒崎くん。

突然けたたましく開かれた戸は彼が開いたものだと理解するのに私は数瞬かかった。

数瞬もかかってしまった。

その数瞬の間に彼の視線が下に少し下がったのを私は見逃さなかった。そこで引き戸の向こうから吹き込んできた微風が肌に当たり私は自分が素っ裸なのを全身で感じた。嫌というほど感じた。

つまり、裸を見られ────────────

「ち、ちち、ちがうんだ。お、おれは、きがえを」


「キャア────────────────────────────────────ッ!!!」


私の叫びは家全体に響き渡った。



■■■



なぜ俺はあの時、確認を取らなかったのだろう。

焦っていたとはいえ、いきなり女子がお風呂に入っている戸を開くことは非常識にも程があるだろう。これが幼馴染みの遥とかなら、さして問題はないのだけれど、相手はここ数日間の付き合いでしかない紅野である。明らかに俺の行動は正しいとは言えないものだった。

でもある意味で、健全な男子高校生としては何も間違ってないとも言えるかもしれない。うちのクラスの連中なら確実に、ああいう事をするだろう。しかし、俺がそんなキャラか? 紅野に好意を抱く気持ちを持っているっていうのか? うーん、正直わからない。

俺は納得できる着地点を考えながら自分のところに配膳された肉じゃがを見下ろす。紺の丼に盛られたそれは机の上に二人分、用意されていた。もちろん、ご飯、味噌汁、ほうれん草のおひたしなどの主食、主菜、副菜も二つずつ、鏡で映しているかのようにしっかりと置かれている。

目の前に鎮座する紅野は母親の婦人服を着て袖が余りまくっているが、なんの違和感もなく着こなしてしまって、「美人は何を着ても華になる」を体現してるのだった。

「黒崎くん、これ凄く美味しいよ!」

対面に座って肉じゃがを喫食する彼女が味の感想を俺に伝えてくる。べらぼうに明るい。

「あぁ、うん。ありがと」

なのに俺は生返事しかできない。

先程まで大変ご立腹だった紅野の機嫌は肉じゃがが取り持ってくれた。

彼女は今や喜色満面の笑みで肉じゃがを頬張っており、もともと感情がコロコロ変わりやすい人だとはいえ、なんてちょろいんだろうと思う俺である。

そんな彼女につられて俺も肉じゃがをロボットのように口へと運んでみるが、いつも食べ慣れている甘醤油の味を感じとることがうまくできない。

それはやはり思春期の若い情欲の蠢動によってもたらされたものなのだろう。

箸で刺したジャガイモを見つめても、ただただ、頭の中では白い裸体が残像を揺らしながら躍動するばかり。

俺はやわらかさと美しさの共存を更なる高みへと昇華した姿を見た。見てしまったのだ。さっきのアレは決して誰も見ることを許されないであろう、包まれた神秘のベールが剥がされていた一幕だった。

体という器から魂はすっぽりと抜け落ち煩悩が俺を蝕んでいき、こんなんじゃ、味覚どころか五感すべてがうまく機能しないというものだ。実際に視界はぼやけ、箸を持つ手の感覚は不明瞭になり、俺は無作法な食い方を晒してしまう。箸を操るのも面倒臭くなってきた。もういっそのこと素手で食べてしまおうか。

「黒崎くん? 大丈夫?」

彼女の声が聞こえて俺は正気を取り戻す。

「だ、大丈夫だよ。あはははは」

空笑いして、じゃがいもを口に入れて何回も噛み、舌の上を転がしてはみるが、やはり味はよく分からないままだった。


午後九時になる五分前。

なぜか俺は洗面所の前で紅野と一緒に仲良く歯磨きをしており、鏡には気まずい顔の俺と目をパチパチとしばたたせてる紅野が、肩を触れ合わせるぐらいの近さで歯を磨き合ってるのが映っている。ちなみに紅野の使っている歯ブラシはアメニティのものだ。

あっ、肩、当たった。

いきなりの感触に俺はびっくりする。彼女は全く意に介してない様子だが、勘弁して欲しいものである。俺にはもう横に避く場がないのだ。俺は今、紅野と壁にサンドされている状態であり、実にいたたまれなかった。

だから早々に歯磨きを終わらせることでこの場から逃れようとプラスチック製のコップに入った水で口をゆすぐ。すると紅野も俺に倣って歯磨きを終わらせることにしたらしく、水を使わず口の中の歯磨き粉を吐き出し、そのまま歯磨きを終えた。いわゆるイエテボリテクニックと言うやつ。

洗面所のある脱衣室から出ると時刻は、ちょうど九時になっていた。

寝るにはだいぶ早いがもう眠い。今日は過労死するほど疲れた。それなのに、

「黒崎くん、明日からのことについて話し合いたいんだけど」

紅野がそそくさと二階へ上がろうとしていた倦怠オーラ溢るる俺を呼び止める。結果として俺の体は二階へと続く階段の方を向いたまま停留することとなった。

「話?」肩越しに訊き返す。

「うん。明日から学校を調査するの。その具体的な話」

俺は物凄く逡巡したが、結局、ダイニングに残ることにした。眠気は消えないどころか更に強さを増す一方だ。

二人、テーブルを挟んで回転椅子に腰を落ち着け、話し合いを始める。

「具体的にどうするの?」

単刀直入に訊く。早く寝たいからだ。

「聞き込みをするの」

…………シーン。

「え、それだけ?」

「うん」

紅野は至極当然と言わんばかりの真剣な顔だった。

「いやいや、それだけで魔法使いかどうか判かるもんなの?」

「多分、判かんないけど……」

「なんじゃそりゃ」

呆れて口調が不躾なものになってしまう。

「まずは情報を集めようってことだよ」

彼女の表情は努めて平静を装ってはいるが、声に筆舌に尽くし難い怒気が潜んでおり、これ以上、悪態をつくと恐ろしい目に遭うと感じた俺は口にチャックをすることにした。口は災いの元、災いの元。とっくに俺の眠気は明後日の方向へ飛んでいってしまっていた。

「一応、何も収穫がなかったときは、罠を仕掛けてみるけど」

「罠?」気になって俺のファスナーが早くも緩んでしまった。そういう意味じゃないから。口元のファスナーだから。比喩だから。

「うん。あんまりやりたくないんだけどね。面倒くさいし……」

彼女の人差し指が机の上でトントンと音を立てる。

「なんで面倒くさいの?」

「うーん、だってね? 罠を仕掛けるには最初、結界を学校全体に張らないといけなくなるからさ」

「ふーん。……あるポイントだけとか出来ないの?」

「出来はするけど持続性がないんだ。術者が近くにいればだけど、そういうわけにもいかないしね……」

「へー、難しんだね。魔法って」

「そう、ムズカシイんだよ。魔法」

嘆息しながら机に突っ伏す紅野。

すると彼女の頭頂部のつむじが俺の視界に入る。それを眺めていると………………………………

とくん、という衝動。

なぜだか弱ってる彼女を見て、俺の中に嗜虐心が芽生えた。だがこれは正真正銘、悪心だ。イケナイことで抗わないといけないものだ。

でも本音を言ってしまえば、あのつむじに触りたい。

こんな気持ち、母親と遥以外には抱いたこともない。

イケナイことをしたいお年頃。スリルを感じたい邪悪な精神。青春の鼓動。

そんな衝動と自制心の争いの果てに、

彼女のつむじを指で突いてしまった。

「キャッ!? え?」

紅野は頭頂部を抑えて身体を猛烈に起こす。

何が起こったか理解してない様子。

俺も自分で何をしてるのかよく解らなかった。

だから、これは誰のせいでもない偶発的な事象。

つまりは事故。そう、事故なのだ。

「何したの?」

全てを把握したのだろう、紅野が冷たい目で俺を問いただす。

彼女にとっては、どう考えても事件だった。

「いっ、いや! そのぅ……あのー、えっと、あー、…………………………これにて、御免!!」

俺は逃げた。階段へと脱兎の如く駆けた。理由はなかった。……嘘つけ。

「あっ! まて────っ!!」

彼女が追いかけてくる。

逃げてしまったものはしょうがないので、俺も意地を通すことにして逃げ続ける。

そこでなぜか現代文の授業で習った言葉が頭を過ぎった。

『意地を通せば窮屈だ』

これは、たしか漱石先生のお言葉である。

しかし、ごめんなさい先生。百年以上過ぎても人間はそうそう変われないようです。


それから、責任者不在の追いかけっこは二時間ほど続いたのだった──────。


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