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第二章 交錯する二人 (1)

翌朝。

無事、帰路に着いた俺はあの後、すぐに二階にある自分の部屋のベッドに潜り込んで眠りについた。質の良い睡眠とは言えなかったが、目覚めたときには幾分か頭はスッキリしていた。

俺は昨夜の出来事を順序だてて整理する。

あれは、間違いなく紅野さんだった。

彼女があそこで何をしていたのか、俺にはてんでわかりはしない。が、火を扱っていたこと、これは確かだ。あの明かりはゆらゆらと揺れていたし、暖色だった。

そこで俺は嘆息し、思う。

…………学校に行きたくない。

学校に行って教室に入れば、紅野さんとは嫌でも顔を合わせることになる。それをどうにかして避けたい。ならどうするんだ? 学校を休むか? それとも我慢して行くのか? もしかしたら、紅野さんにだって弁明したいことがあるかもだろうし、俺が勘違いしているのかもしれないし、それに、ずっと不登校を決め込むわけにもいかない。

俺は熟考して、

「はぁ…………、いくかぁー……」

やむを得ず登校することにし、昨日できなかった教科書類や体操服の準備をしていると、やにわに家のインターフォンが鳴った。

瞬間、心臓が止まる。

凍りつく時間。

もう一度、家中に鳴り響くインターフォン。

その音で我に返った俺は室内モニターがある一階へ、転けつまろびつ階段を下り、恐る恐るモニターを覗き見る。そこに映っているのは、

前髪を整える遥だった。



「司、昨日ごめんね」


開口一番、謝罪。

遥は人がまばらにいる朝の揺れ動く電車内で俯きながら膝枕しているバックの上に乗せた手を見つめて謝りだした。今日も無言のまま登校するのかと思っていたから、俺は少し面食らう。

「い、いや、いいよ。別になんとも思ってないから……」

「…………ありがと」

ガタンゴトン。ガタンゴトン。ガタンゴトン。

二人は再び無言になった。俺の心はむずむずする。遥ばっかり謝ってずるいと思う。だから、

「俺の方こそ、なんかごめん……」

「え?」

俺の横顔に窺うような視線を向ける遥。

「だ、だからさ、俺が遥を怒らせたことは事実としてあるわけだし、俺も罪悪感がないかと言われたらないとも言いきれないし…………。だから、ごめん」

「…………」

返事のない遥の方を粛然と見る。

「いいよ、許す」

そこには朝日に照る、困り笑う顔があった。

「ハハ、変な顔」

「……お前だって、変な笑い顔だっつーの。……ったく」

「あー、ひどいんだぁ」

間。

「ふっ、くくく……」

「アハハハ」

俺達は久々に笑いあう。

きっと周りから変な目で見られていることだろう。しかし、そんなものお構いなしだった。

電車を降りても、二人は久しぶりの会話に花を咲かせて、学園の靴箱がある玄関で一緒に上履きに履き替え、教室前まで話し込んでから手を振って別れた。そして、清々しい気持ちを抱えて俺は自分のクラスに意気揚々と入る。そこで、


紅野さんと目が合った。


タキサイキア現象の再来。

心の中に渦巻く真っ黒な恐怖。

歩を進める足は鉄球でも引きずってるかのように重くのろいのに、動悸はどんどん激しくなって呼吸がままならない。紅野さんは俺から目を離さない。あれだけ表情筋の優れていたはずの顔は、今やどんな感情も浮かび上がらせない仮面へと化していた。

一歩一歩、着実に彼女との距離は縮まっていく。

そして、とうとう俺は自分の席へと至り着いた。

紅野さんのレーザーサイトはまだ俺を捉えている。

昨日までしていた挨拶は、当然あるはずもない。

俺は息を止めて、緩慢な動作で椅子を引き、着席する。この際、後ろはコンマ一秒たりとも見なかった。これが悪手だった。昔から妄想癖のある俺にとって、背後から感じる不可視のプレッシャーは蛇に睨まれた蛙どころの騒ぎじゃなく、いつ包丁で刺し殺されてもおかしくはないほどの強烈なリアリティのある不快感を持ったものだった。

怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。

「お前ら〜、おはよ〜。ほら、そこの男子、早く座りなさ〜い。……まったく〜」

田中夏愛先生、登場。

その睡魔を誘う声色で俺は谷底に落ちていくような恐怖から救い出された。それは誇張でもなんでもない、紛うことなき天使の声であった。ありがとう、大天使なっちー。

だが、多少おさまっただけでプレッシャーの出どころである紅野さんは今もなお俺の真後ろに存在し続けて念を送ってきている。

故に我思う。今日一日ならびに、これからの学校生活をどのように過ごしていくかを真剣に、それこそ試験やら進路やらと同列に考えていかなければならない、と。

もしかしたら俺、この歳にして禿げるかもしれないな。

そんな嫌な想像をする苦悶男子生徒の肩を、なんの前触れもなく背後から雪女もびっくりの白い人差し指が二回、軽く叩いてきた。

「HRが終わったら、私と一緒に来て」

極限まで小さくされた囁きは俺の全身から血を急激に抜き取っていく。自分だけでなく世界までもが色を失っていく。今、自分の姿を鏡で見たら、全力を出し切って燃え尽きたどこぞの東洋太平洋チャンピオンボクサーのように真っ白になっているに違いない。

HRの時間はつつがなく進む。その中で田中先生が連絡事項をいくつか話しているが、俺の脳内では先程の紅野さんによる囁きが反芻しまくり、諸連絡を外部に追い払ってしまう。

誰でもいい、誰か助けてくれ。今からでも遅くはないから、俺をこの苦しみから解放してくれよ。幼少の頃、憧れた正義の味方達はどこにいるんだ? ここに救いを求める一介の学徒がいますよ。

そんな現実逃避むなしく、終わってくれるなと祈っていたHR時間も無情に終わりを迎え、終了を告げるチャイムが鳴った瞬間、紅野さんに俺は手首を掴まれて廊下まで引っ張られる。

「ちょ、ちょっと!」

「いいから、黙ってついてきて」

廊下に出れば、たちまち周りの男子生徒から羨望の眼差しが降り注ぎ、嫉妬や驚嘆の声を漏れ聞くが、俺の抱えている畏怖などそいつらには知るよしもなかった。

で、彼女に腕を引っ張られ最終的に行き着いた場所は、扉が一つだけある屋上階段の踊り場だった。人の気配も当然なく、埃も溜まっているような雰囲気など芥子粒ほどもない寂寥感漂う空間で、さっそく彼女が訊いてくる。

「昨日、私が何をしていたか見たこと詳しく話してみて」

「詳しくたって…………厨二病的なセリフを言いながら火遊びしてたくらいしか憶えてないよ」

「全部じゃん!」

「いや、途中からだよ!」

紅野さんは訝しむ。この男子は嘘をついていると、誤魔化そうとしていると信じてやまない目をしている。困ったものだ。

彼女は呟く。

「…………わかった」

何がわかったというのだろう?

「なら、私の人差し指を見て」

彼女は人差し指を突き立て、俺の目の前まで持ってくる。俺は中指を立てられたのかなと思ったので少し安堵するが、もしかしたら目を潰されるのではという危機感を瞬間的に抱き、体がこわばってしまう。それでも自然と視線は細長い指に向かってしまった。

「集中して指先を見つめて」

彼女の声が頭の中に直接、響いて、次に、


『────我を信じること疑わず、迷いの螺旋より逸脱せし虚ろを其の身に宿して眠れ────』


こってこての羞恥心の欠片もない厨二ゼリフが耳に残響した。

呪文を言い終わった本人は、それはそれは大変やりきったという満足気なドヤ顔をキメている。その顔を見てようやっと俺が感じていた疑念はある確信へと変わった。紅野さんは、あの森下と同じ、いやそれよりも遙か雲上の高みにいる埒外であり、比類がないヤバい人種である、ということに。

俺の中で紅野さん…………いや、紅野のヒエラルキーは急降下し、底辺にまで墜落した。

俺は光をなくした眼で紅野を見つめる。

「あ、アレ!? もも、もしかして効いてない?」

彼女はなぜだか本気で驚いているらしい。ここまで病に染っていると笑いを通り越して呆れるほかなかった。

「そろそろ、いいかな? 教室戻りたいんだけど」

俺は強気に出る。

「あ、え? ご、ごめん……」

狼狽する紅野。

彼女の横を通り過ぎ、俺は教室へ戻るため階段を降りていく。

当然とばかりにそれを許す彼女ではなかった。

「ちょっ、ちょっと待ってよ!!」

俺は階段の中腹で足を止め、彼女を肩越しに見上げる。

「……誰にも言わない?」

「言わないよ。そもそも、誰も信じてくれないだろうし」

「ホント?」

「うん」

「…………わかった」

弱った彼女の顔を見ていると正直、心が痛むが、厨二病罹患者を甘やかしてはいけないと、俺は身をもって知っている。だから容赦はしない。俺は再び階段を下り始め、教室を目指す。



それから紅野は一日中、俺のあとをつけだした。


四六時中、どこにいても彼女が視界の片隅におり、休み時間、昼休み、廊下、図書室、挙句の果てには男子トイレまで、あらゆる場所で見かけたし、何回も目が合った。その度、彼女は素知らぬ顔をして誤魔化そうとするが、それがあまりにも不出来な欺瞞で目も当てられなかった。「今日はいい天気だね」とか「あれ? 黒崎くん、偶然だね」とか、このレベルである。

そのせいか、俺はとんでもなく辟易してしまった。

森下が二人になったようなものだ。相手をするだけ無駄なのは自分でもわかっている、わかってはいるのだが、相手が女子ということで森下みたいに激しく突っぱねることが俺には出来ない。ある意味、森下よりタチが悪かった。

だから放課後、

「紅野さん、そこにいるのは分かってるんだよ」

麗らかな春の日差しにより、たんぽぽの生えた地面が暗く陰る誰もいない体育館裏で俺は背後にある真っ白な物置き小屋へと言葉をつい投げかけてしまった。すると行き場を失ったハムスターのように白い立方体の裏から彼女が姿を現した。俺は振り返り、そんな彼女にズバッと言う。

「何か言いたいことがあるなら聞くから、こっそりついてくるのやめてくんないかな」

よしゃ、言ってやたぞ。ざまぁみやがれ。

「……なら素直に聞くけど、黒崎くんって魔法使い?」

「は?」

こちらから許可しておいてなんだが、いきなり出てきた質問がこれでは、俺の反応も妥当というものだろう。

「なんの冗談?」

「冗談とかじゃなくて、本気なんだけど」

俺は頭が痛くなった。まるで三蔵法師の呪文によって緊箍児を締め付けられている孫悟空のような気分だ。

こちら側から見てとれる彼女の目は大マジで、陽光を照り返す碧眼の輝きには曇りなど全くなく、純粋無垢な美しさを放っている。その曇りなき眼を見つめていると、俺の決意はいとも簡単に萎縮し折れてしまった。だから、もう、やけっぱちで、

「なんでそう思ったの?」

相手の話に乗ることにした。

「昨日、貸してもらった消しゴム憶えてる?」

「え?」

昨日の記憶を辿ってみる。あった。

「うん、憶えてるよ」

「その消しゴムに、微かだけど魔力の残滓を感じたの」

俺は絶句した。

この悪夢は、いつまで続き、どうやったら覚めるんだろうか? 俺は、それが何よりも知りたかった。

「それにもう一つの理由として、私の催眠魔術がかからなかったこともあるんだけど、本当に黒崎くんは魔術師じゃないの?」

呆れ果ててしまって、返答しようにも唇の薄皮が膠で接着されたかのように開けず、喉が小さく鳴るばかりの俺。

「……その反応をみると、ほんとに違うみたいだね。黒崎くん自体には魔力をいっさい感じないし」

彼女が距離を詰めてきて、

「手、出して」

と言ってくるので、俺は好きにしてくれとばかりに右手を差し出した。紅野は真剣な眼差しで、その手を両掌で挟み、じっくり撫で回す。

俺はたまらなく恥ずかしかった。こんな状況を人に見られたなら、変な誤解をされるやもしれず、そうなればただでさえ馴染めていないクラスでさらに孤立してしまうだろう。

「よし」

何がよしなのか分からないが、飽きるように俺の手を解放する紅野。

「疑ってごめんね。今あったこと、全部忘れてもらうと嬉しんだけど……」

手を合わせて下から見上げてくる彼女を俺はとても卑怯だと思う。そんな懇願する仕草をされたら誰もが享受するに違いなかった。もちろん俺もだ。

「りょうかい」

そう返して、俺は人気のない体育館裏を後にする。

彼女もズルいし、俺も甘すぎる。

これにて、放課後の彼女との折衝は幕を閉じた。

──────はずだった。

学園から出て、遥と駅のプラットホームで帰りの電車を待っていると、20メートル離れた鉄柱に見覚えのある赤い長髪の翻るのが視界に入る。十中八九とは言わず、間違いなく紅野だろう。こんなところまでストーキングするとは……。

俺はいち早く無視することにし、遥と電車が来るのを待つ。紅野はもはや隠れる気もない頻度で遥と肩を並べる、こちら側を覗き見ている。

早く来ないかな電車。

「どうしたのさ。そんなソワソワして。変だよ?」

遥が怪訝な表情をして言う。

「んー、いや、まぁ……」

気の抜けた相槌を打ちながら紅野の隠れている方向を横目に見やれば、彼女は若くてガラの悪い男にかまをかけられていた。後ろを向いていて彼女の表情は分からないが、とても困ってるに違いない。流石に助けないと駄目かなと思うと、丁度いいのか悪いのか微妙なタイミングで電車の姿がすぐ傍まで来ているのが目について俺はつい迷ってしまう。今、助けに行けば電車は過ぎ去って、紅野にストーカーされていることなど何も知らない遥にイヤな思いをさせるだろうし、だからといってクラスメートの女子が困っているのなら助けないと男の名が廃るってもんだし。そのクラスメートの女子がどんなに頭のおかしな奴であろうと一人の女子であることに変わりはないのだし……。

どうしたものか。

電車はもうホームに着く前。

もう一度、紅野のいる方を見る。

電車が着き、扉が開く。

「ちょっと、司? 何してんの? おーい」

かまをかけていた男が周りを挙動不審に見渡して、頭を掻きながらホームから立ち去っていくのが見えた。そして、赤い髪の彼女の姿はもうどこにも見当たらなかった。

「……もう! 早く行ってよねっ!」

背中を遥にどんっと強く押されて、俺は電車内にたたらを踏みながら乗車する。

「ぼけっとするのも、いい加減にしてよ。まったく」

「ん、すまん……」

扉が閉まり、電車はゆっくりと走り始めた。

俺はさっき見た事について考える。

彼女がホームにいなかったのは逃げるために走り去ったからで、あの男はあの瞬間まさに紅野を追いかけようとしてたのではないか。そう、考える。考えてしまう。俺はあの時、遥と紅野を天秤に掛けて遥の方をとったんじゃないのか。ならこれで良かったんじゃないのか。そう自分に言い聞かせないといたたまれない。そうだ、あれは彼女の自業自得なのだから、仕方──────

「!?」

いた。

紅野がいた。

偶々、眺めていた貫通扉の向こう側、俺達とは別の連結された車両の扉に彼女は背中を向け寄りかかって立っていた。鳥肌が立った。それはそう、まさに────戦慄。先程までの彼女に対する憂慮など頭の中から吹き飛んでしまうほどに俺は慄いた。まさか、このまま家までついてくる気なのか? 嘘だろ? 冗談じゃないぞ、と。

「司、どうしたの? 顔色悪いけど、もしかして酔った? 袋いる?」

「いや、大丈夫。酔ってない。酔ってないけど、それに限りなく近い状態ではある」

「はぁ?」

意味が分からないと言わんばかりの顔を作る幼馴染みのことなど気にしてなどいられなかった。

いくらなんでも家まで来るのは明らかに度を超えている。普通の人間のすることじゃない。やっぱり、あいつはヤバイ奴だと俺は改めて思い知る。

電車が目的の駅に着き、降車しても紅野の尾行は続き、俺が何とか遥の気を引きつつ歩き続ければ、とうとう家まであと五分で着いてしまう距離となっていた。本格的に策を講じないといけないのに俺は何もいいアイデアが思い浮かばず、焦燥して、どうにか考える時間をつくろうと不自然に歩を緩める。なのに、そんなもん知ったこっちゃない遥がせっつき、俺の歩行速度を後ろから押し出しては無理無体に上昇させた。

もう、家は目前に迫る。

後ろのストーカーの気配は、まだある。

もう、無理だ。

ここまで来て俺に何をどうしろというんだよ。どうしようもないだろ。ならどうにでもなれってもんだ。俺は考えることを放棄した。

すると案外、何事もなく遥とそれぞれの家の門扉前で到着した。

「また明日」

別れの挨拶を交わして遥が家へ入るのを待ち、姿が見えなくなったところで俺は後ろにある直立した電柱へと振り返る。

「紅野さん、もう出てきなよ」

「……バレてたか」

紅野が髪を耳にかけながら出現する。あの体たらくで、よくもまぁ格好つけれるものだ。しかし、それでも様になっているのだから、こちらも何も言えない。

「こんな所までついてくるなんて、いったい何を考えてるんだよ」

「それは、ごめん……」

怒れる俺に対して紅野は誠心誠意に頭を垂れて詫びる。だが、再び持ち上げた顔には意を決したような表情が浮かんでおり、次の言葉を続けた。

「でも、聞いて。黒崎くんと体育館裏で別れた後に、偶然これを見つけちゃったんだけどさ……」

彼女が紺色のスクールバッグに隠し持っていた黄土色の塊を取り出して俺に見せつけてくる。

「何、それ?」

「これは、操り人形(ドール)の欠片。魔力を練り込まれた土塊で……」

俺は頭を搔き、饒舌に話す彼女の声を遮るように、つい、

「あのさぁ! いい加減にしてよ。魔力がどうだの、魔術がどうだの、そんな存在もしないものをさ、さも当然あるかのように宣うのはやめろよ」

反発してしまう。語気は強まり、口から出る言葉には熱がこもって、自分でも止めることができないほど感情が溢れてきて、

「もう、俺はそういうのからは卒業して新しい人生を歩んでるんだ。いつまでも妄想に逃げるのはとっくにやめたんだよ。紅野さんがアニメの真似事をするのは個人の自由だからさ、咎めはしないけど、でも俺をその妄想に巻き込まないでくれよ!」

全部、ぶちまけた。

幼馴染みにすら打ち明けたことのない心情を洗いざらい紅野に叩きつけた。そこで、押し寄せた大波が引けば残るは沈静のみであるように、俺は冷静さを取り戻し、言いすぎてしまったと後悔する。

高純度の本心を真っ向から受けた彼女は、太陽を背負いながら凝然と俺を見据え、端麗な顔を憤慨の色に染めて、

「なら、魔法みせてあげる」

そう断言した。

それから紅野の提言によって俺は彼女を家にあげ、一階にあるダイニングにて話を聞くことになった。回転するダイニングチェアに彼女を座らせ、その対面のチェアに俺も腰を下ろす。

彼女はすこぶる不機嫌そうだった。

「本当は魔法のことは秘匿にしなくちゃいけないんだけど、黒崎くんにも関係のある話になってきちゃたし、簡単に話すね」

俺は面倒くさくなってダイニングテーブルの上に置いてある花柄の箸入れに目を落とす。その内、一輪の白い花の柄が窓から差し込む西日によって赤く染まって照り返っており、それを深く考えずに眺めていると紅野の話が静かに始まった。

「まず最初に簡単な説明をするけど、魔法、魔術というのは、火、水、土、風の四つの元素に分ける事ができるの。まぁ、魔術体系によって数は変わるけどね」

俺は洗脳されてる気がしてならないが、これ以上、彼女を刺激するとあとが怖いので、黙って話を聞くことに意をそそぐ。

「で、今回の、この操り人形を構成する物質が土だったこともあって、私は黒崎くんをつけ狙っているのが、土元素の魔術師と考えたの」

「つけ狙われてる? 俺が?」

「そう。その魔術師の目的が何かはわからないけど、黒崎くんを狙ってるのは確かだと思う」

理解不能。俺の脳味噌が、そう、エラーを吐く。

「だから、黒崎くんのあとをつけたの。私は別に黒崎くんに迷惑をかけるつもりはなくて、ただ、その魔術師の正体が何なのかを突き止めたかったの」

間。

「……でも迷惑をかけたのなら、もう、つきまとうのはやめる。……だけど、私が魔術師なのは妄想とかじゃないから信じて欲しいの」

間。

「……紅野さんは何元素なの?」

我知らず、俺は自然と口を開いて尋ねていた。そこで、自分の心がときめいているのを感じた。

俺の心には、まだ中学の頃の情熱が潜んでいたのだ。

「え? ……信じてくれるの?」

「信じるか、今はなんとも言えないけど、とりあえず紅野さんの話を聞いてみようと思ってね。見せてくれるんでしょ? 魔法」

「……ありがとう」

彼女の面差しは、いつもの穏やかなものになり、心機一転、身を乗り出して俺の問いに答える。

「私の元素は、火」

それを聞き、俺は境内の一幕を思い返す。

「じゃあ、神社の火の正体って魔法によるものだったんだ」

「うん」

数々の疑問の答えが解明されていき、何だか段々と面白くなってくる。

「あれは、基礎元素魔術(クラフト)って言って、術者の元素によって変わる基礎的な魔術なの。私の場合は火の玉だけど、水元素の術者なら水の玉、風なら小さい球体型の竜巻、土なら土塊が発生して、これを応用して、その元素の様々な魔術を行使できるんだ」

もう、嘘でもいい。そう思う。俺はとっくに彼女の話に腹を空かせた野良犬の如く食らいついていた。

「手、出してみて」

そう言われた通りに俺が手を出すと、彼女はその開かれた手の五本の指へ、親指には親指、人差し指には人差し指と、自分の五指の先端をそれぞれの指へ重ね合わせて、

「今から魔力を放出するから、集中して感じとって」

「俺でも感じとれるもんなの? それ」

「魔力ってのは、いわばエネルギーだからね。生きとし生けるものなら、誰だって感じとれるはずだよ。もしかしたら、ちょっと痛むかも」

彼女の五指の先に力が少し入るのを感じる。俺も魔力を感じとるために集中しようとするのだが、誰もいない自分の家のダイニングで美少女クラスメイトと二人っきりで指をくっつけあっているという、この状況に妙な気を起こしてしまい、つい顔がニマニマしそうになる。それを隠そうと俺が唇を内側に巻き込もうとした、そのとき、五本の指先に熱が伝わるのを感じた。

それは、とても熱く、斥力がはたらいていて、まるで彼女の指から磁場のようなものがつくられ、磁力を発生させているようだった。

そんな不思議な感覚に呆然とし俺は言葉を失う。

「どう? 感じる?」

「う、うん……」

「この放出された魔力を呪文によって変換させる術のことを魔術って言うの」

彼女はくっつけていた指を離し、

「信じてくれた?」

そう、俺に訊く。

しかし、俺はまだ信じきれないでいた。なにかトリックがあるのかもしれないと信じてやまなかった。なのに指先には先ほどの斥力のはたらきが微かに残っていて、とても変な気分。

「……し、信じるよ」

「ふぅ、よかった」

紅野は安堵の息を漏らす。

彼女の髪は夕焼けでより一層、赤みを増し、妖艶な光沢が端正な輪郭をさらに強調している。

なにもかもが赤で埋めつくされる空間で、俺は紅野の言うことを信じるか、信じないか未だに逡巡し、言葉を探そうとしてもみつけだせない。紅いダイニングには、どこからか聞こえてくる下校中の中学生達の賑々しい声が反響するばかりだった。

こういう空気は大の苦手だ。昔からいかんとも形容しがたい焦燥感が襲ってきてしまう。だが、こういうときの対処法を俺は知っている。それは空気を変えれば少しは気が紛れて落ち着けるということだ。

視線を紅野より下に落とし、テーブルの上に何も乗ってないことを今更ながら気付いた俺は、このことを利用しようと機転を利かせ、

「な、なにか飲み物、出すね。」

彼女へと飲み物を持っていくために返事も聞かずに座っていた椅子を回転させて、そそくさと席を離れ、ダイニングと隣接するキッチンの食器棚横にある冷蔵庫まで移動する。

よーし、気分が落ち着いてきた。ストレスが緩和されていく感覚のなんと素晴らしきことか。

冷蔵庫を開ける。

「えーと、お茶と水、野菜ジュース、サイダー、どれがいい?」

俺は冷蔵庫に入っていた飲料物を左から順に列挙し、紅野に訊ねた。

──────カサッ。

ん?

────────────カサッ、カサ。

なんだ?

何かが食器棚と冷蔵庫の狭い隙間から急に飛び出してきた。高速移動するソレは左に曲がるや否や、減速過程をすっとばして、ニュートンさんもびっくり仰天の緊急停止をした。

凝視するまでもないソレは、別名を(あぶらむし)。日本に生息する数、およそ236億匹。どこの家庭にも一度は出現したことのある焦げ茶、もしくは黒の嫌われ者、厄介者であり、あらゆる害虫の頂点に君臨するキングオブ害虫。

要するに、ゴキブリだった。

どっから侵入してきたんだコイツ。排水溝か? 換気扇か? それとも干してある洗濯物を取り込んだ時に付着していたのかな? まぁ、どうでもいいか。処せばいいだけだし。

俺は断罪を決行する意を固め、開けていた冷蔵庫をゆっくりと閉め、相手に気取られないよう、慎重に動き──────


「あっ!」


気づかれた!!

しかも、よりにもよって紅野の方に駆けていきやがった。

紅野に危険を知らせなければ。

「紅野さん! そっちにゴキブリが!!」

「えっ!?」

彼女は俺の大音声に驚いて、新幹線並みの速度で突進してくるゴキブリを碧い瞳に捉えた。

「いやっ、いや、いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや────────────っ!!!」

紅野は、びくっと腰を少し浮きあげたかと思いきや、回転チェアの座面の上に爪立ち、右足をダイニングテーブルの上に堂々と乗せて、ホラー映画ばりの悲鳴を上げる。いやいや、大袈裟な。

そんな事どうだっていい漆黒のスピードスターは、お構いなしに(はね)を広げ、紅野めがけて飛翔し、それに動転した紅野は回転する椅子に軸である左の足を取られバランスを崩して物の見事な転倒を披露し、床に腰を強打した。

「ひぃ──────っ!」

しかし、今の彼女にとって痛覚など、たわいもないものでしかなく、すぐさま、お尻をつけたまま後ずさり始める。が、壁により無情にもその勢いは制止され、バタバタとする足は空を蹴るだけだった。

まさか、彼女がゴキブリ苦手だったなんて。

大騒動の渦中にありながら、俺は脳天気にも思う。ないものねだりの極致で完璧超人の紅野エルにも弱点があったのだ。彼女だって人であるのだから、当たり前と言えば当たり前なんだけれども。

────仕方ない。

紅野さん、俺が始末するから、じっとしてて────────そう、俺が呼びかけようとしたとき、

大気が振動しながら、熱風が巻き起こった。

部屋中の温度が急上昇し、俺の全身を包み込んだ。まるで夏場の海にて肌を焼かれているかのような灼熱が紅野を中心に据えて集中し渦を巻く。彼女が引き起こした現象ということは一目瞭然だった。


『────灼熱の中にある数多なる煌めきよ、彷徨える焔よ、我の元にてその姿を形と成し輝け────』


このフレーズはあの時の!!

俺が想起する間に、紅野が前に突き出す開かれた右の掌にはハンドボール大の火玉が浮かんでおり、部屋中を灼熱色に染めあげた。あらゆる物が影を伸ばし、ダイニングが現代アートへと様変わりする中で俺は思う。

……ウソだろ、ホントだったのかよ?

まったくもって情けない話だ。

あれだけ彼女が(のたま)っていたのに……。

そこで俺は、ようやっと彼女が魔法使いであることを受け容れた。



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