第一章 黒歴史と魔法 (3)
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いつもの事と相も変わらず友人のいない教室に入る。だがそんなことはどうだっていい。昨日から俺の日常は一ヶ月遅れの春を迎えたのだ。俺は悠然と机に鞄を置き傲然と席に座る。それと同時に後ろを振り向けば、
「ねぇ、アイルランドの料理には何があるの?」
「エルちゃんて英語もペラペラなの?」
「え──!? お化粧してないのー? こんなに綺麗でキメ細やかなのに? 羨ましいなー。このっ、このっ!」
「すごく日本語上手だよね……え? お父さん学者さんなの!? あぁ〜だからか。もう遺伝子からして頭がいいんだ」
昨日と相も変わらないクラスの人間で形成された壁がそこにはあり、それを見て俺だけでなくクラス連中にとっても新しい春が来ているのだという事を否が応にも理解せざるを得なかった。世界というものは俺一人を中心に回ってはいないのだった。
正面に向き直り黒板を見て、肩の力を抜きながら軽めの溜め息をつく。大丈夫、話す機会はこれからいくらでもあるさ。幸いなことにクラス連中の中にはアニメの話を出来るやつは数少ない。ほとんどが運動部の推薦で入学したいわゆる陽キャと呼ばれる輩だ。仲を深められるアドバンテージは充分、俺にある。昨日、話した限りでは彼女はかなりのアニメオタクだ。そんな彼女の趣味に合わせられる奴などこのクラスにはいないと、自分に言い聞かせて俺は安心を得る。
だが、それは束の間の一瞬の内に瓦解する安心だった。
教室の引き戸に他クラスで構成された烏合の衆が揺れ動いているのにふと気づいた数瞬後に、しまったと思った。俺の脳内計算では一年B組の38人だけしか頭数に入れておらず、他クラス合計160人を計上から見落としていたのだ。それと同時に学校は三年制ということも頭から欠落していた。そうだ、学園には生徒が約600名在学しているのだった。競争相手のあまりの多さに俺は驚嘆し焦燥した。質が高くても圧倒的な数の前では、そんなのは瑣々たるものでしかないことは誰しもが思考することではないのか。
後悔の念に駆られている俺が嫉妬心に塗れた視線を出入口に向け続けていると、唐突に打って変わって群衆が統制のとれた動きを始めだした。
そんな摩訶不思議な光景の理由を俺は知っている。
いつものように飽きもせず、相も変わらず朝っぱらから病を抱え、どうしようもない衝動のままに行動を開始したヤツが来たという事だ。
そう、
──────ガードオブレジェンズもとい森下嵐が。
案の定、その本名の通りに嵐のような大袈裟な動きでバレリーナのように回転しながら、一般生徒が自動ドアが開くかのごとく避ける事で出来たゲートを通過し、俺の傍らにて森下は停止した。もちろん周りを囲んでいた人垣も紅野さんだけを残して無くなっている。つまり周辺1メートルの空間は俺、森下、紅野さんの三人しか存在しないトライアングル均衡状態になったということだ。
少しの間。
「フハハハハッ! トライブッ!! 此度こそ勝負をして貰うぞ」
森下は三竦みの拮抗を崩し、大声で捲し立てる。
「其の首に一体、どれ程の懸賞金が懸けられていると思うておるのだ。十億コッパーだぞ。オレから逃げ果せたところで貴様の首を狙う者は浜の真砂の数程おる。金銭に目が眩んだ下賎な者共に無惨に殺されるだけであろう。なれば、今此処でオレとの決着をつけるのが貴様にとってもオレにとっても花と散れるというものだ」
鳥肌が立った。
軽い目眩もする。
それは、ただ単に羞恥心の欠けらも無い森下を遠く眺めている外野からの視線により恥辱を受けたことで起こった精神的反応か、もしくは過去の自分が森下と重なり合って見え、忘れようとしているトラウマが蘇り、まるで俺自身が恥をかいているかのような気分になったことで引き起こされた身体的反応なのかもしれなかった。まぁ何にしても、とてもとても嫌なことに変わりはなかった。
すると、
「ねぇ、ガードオブレジェンズさん? えっと、黒崎君の友達……じゃなくて復讐相手? でいいのかな。私は紅野エルって言うんだけど、よろしくねっ!」
森下に手を差し出す笑顔の紅野さん。なんと握手を求めているらしい。絶対よした方がいいのにと思っていると、差し出された白いしなやかな手を見て森下は明らかに動揺をしはじめた。俺を見て、紅野さんを見て、もう一度俺を見る。どうやら俺に助けを求めているらしい。だから俺は顎をしゃくって握手を返せと促す。
「う、うん……」
今までの気迫はどこ吹く風という気弱な返事とともに握手を返すガードオブレジェンズさん。
凄い。紅野さんの明朗快活オーラは森下に罹った重篤な病でさえ浄化してしまうのか。やり場に困ってこちらに泳がせた森下の瞳と俺の瞳がかち合った。
にやぁ。
俺は嘲笑うかのように口角を上げ、にやにやと顔をほころばすと、その反応を見て森下は顔を赤くし、握っていた紅野さんの手を丁寧にゆっくりと振り解いたかと思えば、来たときよりも速い足取りで教室から出ていった。よっぽど今の醜態を俺に晒したのが恥ずかしかったのだろう。俺はその有り様があまりにも愉快で笑ってしまいそうだった。それというのも、これまでの奇行の方を恥ずかしいと思わない、あいつのズレ具合があまりにもおかしかったからである。
「あらら、行っちゃった……」
紅野さんは残念そうに呟く。
あぁ、何故この人はどんな人間に対しても平等に、対等に接することができるんだろうか。なんて素晴らしく綺麗な人なんだろう。
────だけど、
それじゃ、みんなからどんな目で見られるか分かったもんじゃない。
正直言って森下と紅野さんは相性は悪くないだろうし、森下だって根っからのオタクだから話が弾むことは間違いなしだ。ただ、オタクとは無縁の陽キャひしめくこのクラスで上手くやっていくにはアイツとはある程度の距離感で接さなければならないと俺はそう思う。
素直に綺麗なまま、人間関係とは築けないものだ。
余計なお節介だとは思いつつも、
「あんまり、あいつと仲良くしない方がいいよ」
「ん、なんで?」
「周りの反応を見てたら分かると思うけど、あいつ嫌われてるんだよ。ここの連中にさ」
「え、そうなんだ」
紅野さんは教室を見渡す。クラスの奴らはひそひそと何やら悪い噂話をしているらしい。当然、話の主題は森下のことだろう。
「でもさ……」
紅野さんは俺の方に顔を戻したかと思えば、俺の目をしっかりと見据えて端然と、そして怒気を含んだ笑顔で、こう言い放った。
「私、そういうの嫌いだから」
一時限目の授業が終わり、休み時間になった。
俺はなんて馬鹿なことをしたのだろうと思う。余計なお世話というのは分かっていたはずなのに、なぜかあんなことを口走ってしまった。その結果、授業中ずっと紅野さんに話しかけずらくなって後ろが向けなくなり、それでも気になって無駄に緊張して耐えられなくなって、チャイムが鳴ったと同時に廊下へと避難した。窓枠が付いている方の壁にもたれかかって窓の向こう、空に浮かぶ雲を眺める。
「はぁ……」
今日はやけに溜め息が出る日だな。そう思いたそがれていると、朝の出来事が回想された。
今思えば朝からついてない日だった。
昨日のことを引きずって、遥とは朝から一回も目を合わせなかった。もちろん約束事である登校は一緒にした。が、全く会話はなかったし、こちら側から顔を背けてるしで重苦しく、どんよりとした嫌な通学だった。電車内がそれなりに混んでいたから何とか暇を潰せたが、あれが空いていたと想像するとストレスで胃に穴が開きそうだ。
そんな俺を白い雲は舐めるように見下ろして、ゆっくりと流れている。
ほどなくして予鈴が鳴った。
教室にとぼとぼと戻り自分の席に着いて物理基礎と書かれた教科書を適当にぱらぱらと開き眺めながら授業のチャイムが鳴るのを待つことにすると、紅野さんが申し訳なさそうに、
「ごめん、消しゴムの予備とかってある? 廃きょ……コホン、家に忘れちゃってさ」
と俺の肩を指でとんとんと叩きながら話しかけてきた。
俺は鼓動が早鐘を打ち始めるのを感じた。
「え? あ、うん。あるよ」
慌てて前に向き直り机の上にあった筆箱を漁り、すぐに予備の消しゴムは探り見つけたのだが、恥ずかしさを誤魔化そうとわざと探しているふりをして時間をかけた。そうして気分がなんとか落ち着いてから、とっくに手中に収めていた消しゴムを紅野さんが差し出す掌に乗せて渡す。
「ありがとっ!」
さらに鼓動が増す感覚。
お礼を言う紅野さんの笑顔を見て、そこで二つの疑問が浮かんだ。
なぜ、紅野さんは隣の席の女子生徒に頼らなかったのか?
なぜ、わざわざ前の席の男子生徒である俺に頼ってきたのか?
そう考えだすと心が妙に浮き足立ってくる。
つまり紅野さんは俺のことを嫌いになったわけではなかったということだ。それどころか信頼している節さえあるじゃないか。
どんどんと訪れてくる安堵によって俺は頭が冴えてきた。
一時限目のあのどんよりとした気持ちは俺の自惚れさが招いた勘違いで、俺なんか紅野さんにとっては全然、特別な存在じゃないし気にしすぎだった。なら、どうしてあんな風に気にする癖がついたのか、そんなもの今の冴えまくっている俺の頭なら容易に理解できる。
────それは昔の黒歴史が俺を未だに呪縛しているからだ。
憑き物が取れたかのような納得。そろそろ俺があの黒歴史から解き放たれる日は近いのかもしれない。こんなに晴れやかな気分が今まであっただろうか。
いや、ない。
曇ってた頃の俺には見えなかった景色が今の俺にはみえる。それは、あの廊下で見上げた白い雲が漂っていた空の鮮やかな青。こんな気持ちになれたのも全て、紅野さんの浄化の力によるものなんだろうか。だとしたらなんて凄い力だ。
そう思い巡らせ浸っていると、
「どうしたの? にやにやして」
不思議そうに俺を見つめている紅野さん。
「いっ、いやぁ、何でもないよ! ハッハハ……」
「?」
紅野さんが首を傾げるのを最後に見届けて前を向けば、ちょうど授業開始を告げるチャイムが鳴り響いた。
なんであの病の発作はいつもこんなに唐突なのだろうか。
なんで毎度毎度、俺のそばに来ては呪言のような妄想を語り聞かせるのだろうか。こっちがご丁寧に塩対応を決め込んでも全くお構いなし。これはもう、嫌がらせと言っても過言じゃないのではないだろうか。が、今となってはもう遅い。気づいたときには俺はクラス中の奴らにこいつの仲間の一員とみなされていたのだから。
──────この目の前で黙って突っ立ている森下嵐の仲間に。
「なんだよ。言いたいことがあるなら早く言えよ」
毎度お馴染みの恒例行事と化した森下の登場は昼休み時間で本日二回目の登場だった。紅野さんが教室に居ないのを見計らってやって来たのだろう。
弁当を一人つついていた俺は、お構いなしで声を出している馬鹿の唾が入らないよう、弁当にプラスチックでできた蓋をして両耳を手で塞ぎ、そうしてからいっとき経つのを待った。するといつの間にやら長い台詞を言い終わって森下はこちらを無言で上から凝視しており、そこにはいつもとは違った趣の気持ち悪さがあり、その沈黙に耐えられなくなって仕方なく話をしていいぞと促したのだ。
森下が一文字で結んでいた口を開く。
「今迄の話を聞いていたか?」
「いや?」
「…………フハハハハッ! ならば改めて告げよう」
威張り散らすかのように胸を張り、そこに右手を張り付けて声高らかに言葉を続ける森下。
「此処から東に一哩向かった先に造営されて在る鳴神殿にて近頃、人喰い陰火が顕れると伝え聞いた。其処でだ。此れをオレと貴様とで討伐し合おうではないか。其の討伐数で競い、因縁の決着をつけてくれようぞ!!」
せっかく聞く気になってもこれだ。とても同じ言語を使ってるとは思えない。傍から聞けば何かの呪文にしか聞こえないだろう。
だがしかし、こいつの放つ言葉を理解できてしまう俺。はぁ……、物凄く憂鬱で不愉快な気分だ。
つまり────『学園から東に約1.6キロ行ったところにある鳴神神社に最近、人魂がでるらしいから、これを一緒に確かめに行こう』と森下はこう言っているのだ。普通に言えっての。あと、どうでもいい事だが、なんでヤード・ポンド法なんだよ。そこは世界観設定として尺貫法だろ。
「オレの提言は貴様の耳に届いたか?」
ここは素直に返そう。
「あぁ……」
「善し! ならば本日の夕刻、神木ゼルコバーゼの下にて貴様を待つ。約定を守るは必然の事だ。必ずや赴けよ」
神木ゼルコバーゼとはおそらくケヤキの事だろう。たぶん学園の正門両脇に二本生えている内のどちらか片方で俺を待つと言っているのだ。
────行くわけねぇ。
「いや、行くとは言ってないぞ。勝手に決めるな」
「何だと?」
「俺にだっていろいろな用事があるんだ。なのに今日の放課後待ち合わせってのは急すぎるだろ。そこはせめて休日とか……」
「貴様が一度でも他日の約定を厳守した事があったか?」
「うっ……」
つい、先ほど蓋した弁当箱に目をそらす俺。
「何時も何時も、其の様に貴様は約定を破棄してきた。此度で何度目だ? オレは数えているぞ。八十三度目だ。…………貴様との決着を付けたいという、オレの唯一の願いを貴様は幾度となく無下にしてきた……っ! オレは許せないっ! 貴様を、貴様を……、貴様を…………っ!」
ヤバい。森下に変なスイッチが入った。
森下の声は潤んでおり、周りの生徒もその声を聞いてざわめきだす。いつもなら森下をそしっていた口からは森下に対する同情の色を帯びた言葉が漏れ、逆に俺を非難する声がぽつぽつと浮き出ていた。
やばい。
焦り始める俺の心。加速して引き伸ばされる時間。全身の毛穴から汗が吹き出る感覚。クラス中の非難してくる視線は中学のとき嫌というほど浴びまくったあらゆる軽蔑の眼差しを想起させ、トラウマが脳裏に駆け巡り、俺はそれを耐えることが出来ない。
だからだろう、勝手に小心者の口が動いてしまった。
「わ、わわ、分かった、わかった! 行けばいいんだろ? いけばっ」
あーぁ、言っちまったよ。
そんな投げやりな言の葉をしかと聞き取った森下は満足げな顔をして告げる。
「……フフフ、その言葉、今この場にて衆目を集め貴様を縛りつけたものとする。逃げれなくなったな。ここにいる全員が証人となるだろうさ」
心底嬉しいのか、堅苦しい喋り方がほんの少し柔和になり、いつものキャラが剥がれかかっているガードオブレジェンズさん。
「フフ、ハハッ! ハハハハッ! フハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
項垂れる俺を残し、森下は嬉々とした笑い声を上げながら教室を去っていった。廊下からの哄笑が尾を引くように残響し、教室内にいつもの活気が戻る中、頭を傾ぐ先にある食いかけの弁当箱に目を向ければ、プラスチック製の蓋の上で窓から差し込む光を反射してキラキラと奴の唾が照り輝いており、
「はあああああぁぁぁぁぁぁぁ────────────……………………」
今日一番の大きな溜め息が出た。
そうやって溜め息が尽きない一日は放課後になっても終わりを迎えることができず、俺はたった一人、約束を守るため校門を正面から見て右に生えているケヤキのすぐそばで森下が来るのを待つ。
ってゆーか、アイツの方が遅れるのかよ、と心の中でツッコミながら、戦前からあるらしいと風の噂で聞いた老樹にもたれかかって一息つく。周りを見やれば、列をなし三々五々と我が家へと向かう帰宅部、それとは逆に学校指定の緑のジャージ姿で西に沈む赤へ吸い込まれるように走り込みをしている様々な運動部など、大勢の人達で校門周辺は溢れていた。
そんな雑多な人混みのただ中に構えてある校門を眺めながら何故か今日に限って何も言わず先に帰ってしまった遥のことをふと考える。そういうことは今までもあったし、そんなに珍しいことでもないのだが、一言もなく帰るなんてことは今まで一度もなく、一人で帰るときは必ず何かしら連絡をよこしていたのに今回は無かった。
…………それほどまでに俺を避けてるってことか。
まぁ、無理もない話だ。中学の時から思春期特有の訳のわからない病に罹った馬鹿の世話をし、阿呆が自分可愛さで身勝手に選んだ進学先へと無理をしてまでついてきたのに、それを毎日一緒に通学すればいいだろうなどと甘い考えで責任から逃げていた卑怯者のことなんざ愛想が尽きて当然ってもんだ。俺だってそんな奴、幼馴染だろうが親友だろうが知人だろうが縁を切りたいと思うし。
「はふぅ~~…………」
無意識に溜め息をつこうとして、これ以上溜め息を出すのは絶対に嫌だと思い、無理して阻止しようと口を閉じた結果、鼻の方に空気が漏れて変な声が出てしまった。……恥ずかしい。
誰にも見られてないよなと周りを見回すと体を向けてた方向、生徒が往来する校門を挟んで、あちら側のケヤキで俺をずっと待っていたらしい奴とそいつが掛けているメガネのレンズ越しに目が合ってしまった。
もちろん、森下だ。
こちらに気づいたアイツはいつもの調子で人の波によりごった返している中を分け入り掻き分けては俺がいるケヤキの下まで蜘蛛を思い浮かばせる動きで到着した。その挙動はとても二足歩行を主とするホモ・サピエンスのそれとはまるで違う。人間なのかコイツは?
「ふぅ…………待たせたな」
台詞を言い終わった森下は呼吸を整えて格好をつけてはいるが見た目は黒縁の眼鏡をかけて、手にはスクールバックを持った、ただの一般男子高校生にしか見えない。先程の事を頭からキレイさっぱりに取り除けばだが。
森下の眼鏡に反射する西日が俺の目を刺す。
「別に待ってないけど」
「何を言うかと思えば、其のように恥じらうものでもあるまいに、此の、この」
もはや設定を忘れ、キャラもオリジナルも見失ったガードオブレジェンズでも森下嵐でもない眼鏡をかけただけの男子生徒が俺を片手で揺する。コイツ、誰?
それを面倒臭く思った俺は、
「早く行くぞ。鳴神神社なんて行ったことねーんだからお前が案内しろよ」と言い、先を急がせた。
「そう、焦らずとも良い。時と言うものは誰に対しても平等なのだから、オレと貴様とで今、此の時を存分に分かち合おうではないか……って、話を聞かずに行くな!!」
返事も聞かずに歩き始めていた俺の後ろから届く奴の声へ対して肩越しに振り返って言い返す。
「俺とお前じゃ、時間の使い方が違うっての」
森下の目は眼鏡の反射により、ほとんど見えず、何を考えてるか伺い知れない。
「鳴神殿は其方ではないが」
「…………」
無言で森下のもとへと引き返した。
鳴神神社は学園から東へ1.6キロメートル先にあり、この辺りの地域の中では一番と言っていいほど影が薄く、寂しさを感じさせる狭小な神社だが、その歴史は古いらしく、室町時代に創建されたものだとインターネットに書いてあった。それと全くそのままの同じ内容を移動がてら森下から聞かされ、俺はすっかり覚えてしまい辟易した。
そして、神社があるとスマホの地図に表示されている場所に辿り着けば、そこには建物がないどころか境内も見当たらず、あるのは鳴神山という小山で、その山の正面と思われる場所に石でできた大きな鳥居が立っていた。どうやらその鳥居をくぐって階段を上ると境内が見えてくるらしい。
時刻は午後六時五十二分。
ここまで来るのに四十分もかかっていた。普通なら二十五分ぐらいの距離なのにだ。それはやはりというべきか、森下が道すがらコンビニで大好物のチョコミントアイスを買ったからで、そんなものを食いながら歩けば誰でも時間はかかるし、しかもアイスの足りなかった分の小銭まで俺が出すことになってしまった。
全くもって最悪である。
「お前、本当に返すんだろうな?」
「無論だ。オレは貴様と違い、約定は守る。必ずな」
俺は怪訝な顔をしながら薄暗い空を見上げる。太陽はとっくに西へと姿を隠し、東から夜の闇が忍び寄っている中、雲は逆光で真っ黒になりながら天空に浮いていた。
すると、
「いたたた……」
いつもうるさい大声の森下がとんでもなく小さな言葉を漏らす。
「どうした?」
俺は体調でも悪いのかと思って訊ねた。
「否、……何でもない」
腹をさすって尻を鳥居脇の石塀の角に押しつけながら強がるガードオブレジェンズ。
「……トイレか」
俺が冷めた目で見れば、森下は俯いて青ざめた顔をさらに下へ傾けて首肯する。こんなに弱ってるコイツを見るのは初めてかもしれない。
「はぁ、言わんこっちゃない。早く行ってこいよ。俺はここで待ってるから」
その言葉を聞き、森下は静かに緩慢な動作で石塀から離れ、右手を腹、左手をケツに配置し、内股になりながらトイレを目指して小走りで去っていった。俺はその様子を眺め、あいつも人間なんだなと呆れ返り、鳥居の柱にもたれかかってスマホでショート動画でも見ることにした。
────三十分。
この時間が何を意味するのかといえば、直近のスマホで確認した時刻から経過した時間であり、そしてアイスを早食いして腹を壊したアホが便所を捜し求めて姿を消してから流れ去った時間でもある。
遅い。
たかがトイレに行くだけで何をそんなに手間取るというのか。ざっと計算して移動に五分、所用に五分、帰還に五分、計十五分で終わるはずだ。だのにその倍、時間がかかっている。これは贔屓目に見ても異常だと言えるだろう。
スマホに表示される時刻は7:32。
空はとっくに闇に覆われ、目の前に敷かれた道路にはライトを照らした自動車たちが跋扈し、どこからともなく吹く生温い風が鳥居側の萌え木をざわざわと揺らす。
これ以上は待っていられない。
そう思った俺は、境内へ上がろうと決心した。
銀色の手すりが設けてある石段はやけに長くて傾斜がきつく、一分ぐらいかけて上がっていくと二基目の赤い鳥居が姿を段階的にあらわしだした。一呼吸置き、信号機の高さぐらいはあろうかという鳥居をくぐると境内の全体が見渡せるようになり、右から左へ目を動かせば、そこは明かりがないためかかなり暗く、辛うじて木々のシルエットと拝殿の形がうっすらと認識できる程度だった。
とても不気味だ。
どれだけ目を凝らせども、そこには吸い込まれるような闇しかなく、街の遠鳴りや枝葉の擦れる微かな音は唾を飲み込む音よりも小さく聞こえる。まるでこの場所自体が世界から隔離されているかのように……。
…………あれ?
この感覚、俺は前にも経験したことがあるぞ。
突如、急に生まれ出てたデジャヴの正体を突き止めようと脳が自然と働き、頭の中に白い壁を赤いものが覆う映像がモアレを起こしながら浮かんできた。そして連想ゲームのように次々と陽光が当たり輝くアレキサンドライトの碧、流星の軌跡のような鼻梁、上履きが床面を蹴る音や時計の秒針が刻む音、チョークが黒板の上を走る音、深緑色へ書かれた端然たる白い文字───────────
紅野 エル
そうか。
あの時の紅野さんと似てるんだ。
次元が違うかの如き、切り離された存在。
俺たちが過ごす世界とは別の空間にあるこの拝殿は、いつも何の変哲もない薄汚れた教室との共在に違和感を生みだしてしまう紅野さんと一体どう違うというのだろうか。
俺は胸をすく思いで息を吐いた。
なぜだか溜め息が尽きない今日一日のストレスがその吐いた息と一緒に流れていくような気持ちになった。一日の終わりとしてはキリがいいし、これでいいじゃないかと思ってしまう。
人魂の噂は結局のところ噂でしかなかったということで、もうこのまま帰ってしまおうか。森下には悪いが約束はちゃんと守ったわけだし、アイツのトイレが長いのだって悪いし、明日の学校で「先に帰ってすまなかった」と取り繕えばいいだろう。どうせいつも通り、性懲りもなく俺のとこまで来るんだろうしな。
目の前の闇間へ春風が後方から吹き渡り、俺の頬を掠めた。
────その風が幻覚だったのか予兆だったのか、それは今でも分からない。ただ、この後の出来事が俺の網膜にはまだしっかりと焼き付いている。
突然、
視界の片隅が真っ白になった。
一瞬のことで息を呑んだが、すぐにその現象が光によってもたらされたものだと悟った。人間というものは不思議なもので、そんな暗中模索の状況下でも光源を探し見つけようという好奇心が働くのか、俺も例に漏れず件の人魂かと思い、暗い境内の奥のさざめく木々の下、光があったと思しき参道外れの左隅に細め凝らした目を向ければ、そこにはまだ薄れゆく、灯火に近似した光が微かに残り、その傍らに、
人影が見えた。
女だ。
背の高さからして俺より低いし、髪も長くて線も細い。目がやっと闇に慣れてきたというのもあり、そのシルエットからまず女であることは間違いないだろうと確信した。まぁ、仮に女装した男だったとしても、こんな時間にこんな場所で火遊びみたいな事をしているのはどっちにしろかなりヤバいと思う。
どうする?
注意するか?
客観的に考慮すれば、それが正しい行為だと理解してはいるのだが、この場から離れたいというのが俺の主観的な感情だ。それでなくとも今日はいろいろ嫌なことが立て続けにあって、やっと、大小様々なしがらみから解放されて気分良く家に帰れると思ったのに。
だからだろうか、そう考えだしたら自然にここ最近の鬱憤が怒りへと変換されてふつふつと沸いてきた。
なぜ心機一転で遠方の高校に通学しているのに友人が一人も出来ないまま一ヶ月経ってんだよ。
どうして幼馴染みである遥とも仲違い起こして、うまくいってないんだよ。
大体、なんで俺はこんなところにいるんだよ。
これって誰のせい? シンプルに森下のせいか? それともクラス連中のせい? もしくは生まれ持った俺の運の悪さ? はたまた大局的に見て社会全体のせい? ──いや、そんな単純なもんじゃない。
悪いのは、目の前にいるアイツだ。
もっと具体的に言うなら俺は、今までずっと体制から外れた社会悪から目を逸らし、過去の自分の過ちからも目を背けて逃げ続け、それらのせいだと甘えては行動を起こさなかった自分に腹が立っているんだ。だからこそあの人影は、今の甲斐性なしな俺にとって超えるべき壁で、そういう存在なのだ。
そんな風に突き詰めて着地すれば、もうやる事は一つとばかりに、ほとんど八つ当たりとも取れる面責をあの人影に対してしてやろうと覚悟を決めて歩を進めだしたそのとき────────────
鮮烈な二度目の光。
闇を払い除けて広がっていく一面の白。
あまりの眩しさに一瞬、目を開けず視力を完全にシャットダウンされるが、その閉じた瞼の上からでも閃光は容赦なく貫通し、俺の頭の中を真っ白にした。
「な、なんだ!?」
俺は驚きのあまり声が勝手に漏れる。そしてその自分の声と一緒に人影の声も俺の耳に入ってきて、
『────灼熱の中にある数多なる煌めきよ、彷徨える焔よ、我の元にてその姿を形と成し、輝け────』
そんな厨二病100%の言葉を唱え、消えゆく残光に照らされて顕わになった人影の正体を見た。
その綺麗な横顔を俺は知っている。
それは紛うことなき、昨日転入してきたクラスメイト────紅野エルのものだった。




