第一章 黒歴史と魔法 (2)
■■■
私、紅野エリは魔法使いだ。
先祖代々から母方の家系が生粋の魔法使いで、その脈々と続いてきた遺伝子が私の中にはある。魔法使いの血は絶やしてはいけないらしく、魔術の素養が少しでもあるのなら地獄のように苦しい鍛錬をしなくちゃいけない。
ぶっちゃけ、私は今どき魔法使いなんて時代遅れだと思う。ナンセンスの極み、そのものでしかないし。なのにママは私に魔術を教え込んだ。それはもう狂気を感じるくらい基礎から応用まで、埃まみれで紙もシミだらけ穴だらけな古い魔導書に書かれてること全部、家の離れにある石造りの暗い地下空間で朝から夜まで寝る間も惜しんで叩き込まれた。拒絶しても泣き喚いても休みなく毎日続けるのだ。
ああいうのをいわゆる毒親と呼ぶのだろう。
一般人であるパパの血を強く引いていたら今頃は普通の生活が私を待っていたんだろうけど、純正な魔女であるママの血をこれでもかと受け継いでしまった私には苦しい魔術鍛錬の日々が待っていたのだ。そんな下限を下回るくらいの低いモチベーションで嫌々やっていたにも拘らず、魔術がメキメキと上達していったときは自分の中に流れる魔女の血に絶望し恐怖した。
────普通の女の子になりたかったよ。
だから、私は躊躇なく家出をすることを決めた。
私はパパに相談をして、協力させることに成功し、そして具体的な計画を練ってくれたパパに諸々の責任とママの怒りを全部押し付ける事にしてママに許可なく出国した。ごめんね、パパ。
旅路は飛行機の乗り継ぎなどもあり約二十時間かかるけど、家にいる精神的苦痛に比べれば座席の床ずれによるお尻のヒリヒリとした痛みなんかさしたる問題ではないし、それに初めての一人旅ということもあり興奮してて、あっという間に二十時間という時は過ぎていった。雲の絨毯が水平線の向こうまで敷き詰められた空を窓の外から見下ろしながら読書に勤しむ、そんなフライトが終わり、日本に降り立ったときは感動のあまり泣きそうになった。
まぁ、流石に涙を流すことはなかったけどね。
日本を目的地に選んだのは、パパが日本人という事もあり日本語を第三言語として習得していたのもあるけど、やっぱり一番の理由はアニメーションだろう。
厳しい鍛錬の後は嫌というほどくたくたになって何も手につかなくなるけど、ベッドの上でスマホを見る事は簡単にできるので、鍛錬終わりの余った時間にスマホを見る生活を続けていると、自然と日本のアニメ文化の存在を知り、晴天の霹靂のごとき運命の出会いを果たしてしまった私は日本語が理解出来たことも相まって、どっぷりとその沼にハマっていくことになった。アニメを見る時間は私にとっては心の安らぎであり至福のひとときなのだ。
今ではアニメ声優のプロフィール、来歴、出演作などの情報を調べるのが密かな趣味となっているほどで、次は監督とかアニメーターの情報なども知りたいとか思ったり思わなかったり……。
まぁ、そんなこんなで日本に到着した私は、エリ大地に立つ!! ぐらいの軽い感じで学園、役所での手続きを無事に終え、すっかり楽勝モードになっていて、
「学校に初登校するまでは観光でもしておこうかな。行きたい聖地も沢山あるしね」
そういうことで私は喧騒の街へ希望と待望と願望を胸に抱いて駆り出した。
──────────────────失敗した。
なんでこんな単純な事を忘れてたんだろう。人生は山もあれば谷もあるという事を。
それはそれは有意義な聖地巡礼の帰り、私が住むことになった築九年の賃貸アパートの部屋にソイツは出現した。
春とはいえども自慢の長髪がじんわりと蒸れるぐらいに蒸し暑く、空もまだ明るい午後十六時三十分。玄関でスニーカーを脱ぎ、多種多様なアニメグッズが詰まった紙袋、そして財布と化粧ポーチが入ったブランド物の黒いショルダーバックを何もないダークブラウンのフローリング材の床に置いた瞬間、視界の端で四センチ大の黒い物体が新幹線並みの速度で私の後方に駆けていった。
何だあれは?
もしかしてママの使い魔?
いや、魔力は感じない。ということは生き物なのか? だけど嫌な感じがする。こう、生理的に無理な嫌悪感というか、硬い拳銃の銃口を後頭部に突きつけられているかのような、冷たい緊張感。アイルランドでは感じることのなかった気配だ。カサカサと鳥肌が立つ音を立てながらソイツは部屋の中をさも自分の居場所のように彷徨いており、背中に感じる汗に黒い嫌悪の気配が混じり、泥水となって流れているかのような感覚が私の全身を駆け巡る。
これ以上、この空気を感じたくなかった。
早くこの得体の知れない存在を目視しなければ、安心は得られないだろう、そう思い至ると私は勇気を振り絞り、思いっきり後ろに振り向いて未知の生物の姿を確認した。
白い壁に小さな黒いシミのようなナニか。
目に入ったソレには、黒く鈍い光沢を放つボディに六本の脚が生えてピクピク動く長い触覚が備なわっていて、
「これ、ダメだ…………」
しっかりと目視してしまったが故に、私の中にある何かがプツンと音を立てて切れ──────
それから先の記憶はない。
ただ、あの未知の生物が私の部屋に存在しているという事実が我慢できなかった事だけは憶えている。
未知との生物と遭遇し格闘すること二十分余り、その存在の気配が無くなったことに気がついた時には部屋の中は牛柄のように黒く焼け焦げていた。
そう、魔法を使ってしまったのだ。
秘匿にしなければならないのに無意識に使ってしまった。しかも、こんな些細な出来事で。
────────これが、私の日本生活初にして人生最大の失敗。
ほどなくして異変を感じ取った隣人が通報したことにより、大家のおばさんが血相を変えながらアパートに駆けつけてきた。大家さんは部屋を一瞥し、私を見つけるなり鬼の形相で怒鳴りつけてくる。
私は謝った。誠心誠意、視界が渦を巻いてぐるぐる回るくらい頭を下げて謝った。頭の中は真っ白で何も考えられなかった。その後、何とか大家さんの怒りが収まる頃には私の頭も話し合いができるぐらいには整理されていて、流石に部屋の中に現れた黒光りする謎生物と相対し、驚愕のあまり無我夢中で魔法を使って焼き尽くした、なんて言えるはずもなく、料理をしていた際の火の消し忘れという嘘をつくことにした。料理なんかたいしてできっこないのに。
かなり無理がある言い訳なので大家さんは訝しんではいたが、私のこれでもかという必死な顔を見て諦めたのか一応、納得はしてくれた。
「ふぅ……分かったわ…………。でも、学校には連絡をしますから」
どくん。
それは、まずい。
脳裏にパパの言葉がよぎる。
────問題は起こすなよ。もし起きた場合、お母さんを頼らないといけなくなるからな。
「ダメですっ!! それだけは、ダメですっ!!」
私は着古しのだぼだぼなスラックスパンツにあるポケットから携帯を取り出そうとする大家さんの腕をめちゃくちゃに掴んで制止する。
「何言ってるの!? 一人暮らしで保護者もいないのに、どうやって責任とるのよ!?」
「弁償しますからっ!!」
「え!?」
「敷金はもちろん返さなくていいですし、私が部屋の修理費を出しますっ!! だから大事にだけはしないでくれませんか?」
「で、でも…………修理するとなると結構な金額になるし、それに大家としては……」
「お金は父に振り込んでもらってありますから、お願いします……っ!!」
数分間の押し問答の末、私の圧に押し負けた大家さんは剣呑な顔をつくりながらも渋々、了承してくれた。良かった。何とか大事にはならずに済みそうだ。そう胸を撫で下ろすと、ある一つの懸念が生まれ落ちた。
それはここでの生活を安寧に送れるかどうかということだ。大家さんの懐柔には成功こそしたが、アパートの隣人や近所の人達が今日の出来事をどう捉えているか分からない。噂が広まれば遅かれ早かれ学校側に連絡がいく。それじゃ本末転倒だ。ママが日本に飛んで来て問題の一切合切を片付け、私をアイルランドに連れ戻してしまう。なら私がすることは一つしかなかった。正直言ってかなり無茶苦茶だけれど、ママが来日する恐怖よりは全然マシだ。
私は舌を噛み切るぐらいの覚悟を決めて大家さんを見定める。
「大家さん、最後にもう一つお願いしていいですか?」
「えぇ……? これ以上、何があるって言うの?」
私のことをすっかり恐れてしまって大家さんの顔は引き攣っていた。やっぱりこれじゃ、穏やかにここでの生活はできないだろう。
私は一呼吸置いて落ち着きながら言葉を紡ぐ。
「私はここを出ていきます。だから、どうか私の事を他の人達には黙ってて貰えませんか? 隣の部屋の人や学校の先生とかに。心配しなくても、ちゃんと修理費は出しますので」
言った。勇気を振り絞ってすらすらと自分の意思を伝えた。だけど、
「それは流石に…………無理。駄目よ。私だって貸主以前に大人としての責任があるの。十五の子供、ましてや女の子を一人にして追い出すなんてこと、絶対できない」
「大丈夫ですよ。日本まで一人で来ましたし、お金も十分ありますから、すぐ別の住居を探しますよ。学校の方には私から伝えますから」
「いいやダメ。その、わがままは通せません」
何回も交渉をして粘ったが大家さんは首を縦に振らない。それはやはり責任者としての面子や沽券に関わるからだろう。このご時世、大人になればなるほど社会の厳しい視線や逆風を浴びたくはないのだ。こうなっては大人というものは是が非でも動かない。
足下のアスファルトの黒は薄くなっていく空により青みがかって、西に沈んでいく太陽の光が建物の影の色を濃くしていき、その中で私という存在はあやふやになっていくような気がした。
……仕方ない。
そして私の中に真っ黒な渦が、巻き始めた。
────あの手を使うしかない。
私が最も得意で、私が最も苦手なもの。
────────魔法だ。
「なら大家さん。私の人差し指を見てください」
人差し指を立てて戸惑う大家さんの眼前にかざす。
「……何をするつもり?」
暗闇の中にある小さな光を捕らえるイメージで身体の奥底に感じる熱を引き出す。この熱こそが魔力。魔力とはいわば特殊な生命エネルギーの事で魔法はこのエネルギーを出力しながら呪文詠唱することで発動できる。
私は催眠魔法の呪文を唱えた。
『────我を信じること疑わず、迷いの螺旋より逸脱せし虚ろを、其の身に宿して眠れ────』
これは対象の相手を催眠状態にし、術者の暗示にかかりやすくする魔法だ。理屈としては「相手の思考を全て無にし、そこに一つの情報を与え、その情報を軸にして一度無くした様々な考えを再構築していく」という大掛かりなもので、かなりの高難易度な魔法らしい。これは私の捉え方だけれど、完成された長方形のパズルを分解した後、まっさらになった長方形の枠の中に存在しなかった全く別のピースを置き、それを起点として分解されたパズルのピースを組み換えて元の長方形に戻すようなものだ。でも、そうなると隙間だらけのちぐはぐなパズルが完成することになる。この隙間をどれだけ大きく作らないようにするかが術者の腕の見せどころと言えるだろう。魔術にもセンスは必要なのだ。
そんな術にかかった大家さんは目を虚ろにしながら「分かったわ」の一言を残して近隣住民に事情を話すため、ふらふらとした足取りで私の側から離れていく。これで大家さんの脳内では、私が問題を起こした事で修理費を払うことになったまま、火事の責任を取ってアパートを出ていくことを了承した────というものに書き換わったはずだ。
どうせ催眠魔法を使うのならなぜ修理費を払うままにしたのかといえば、それは催眠魔法の書き換え内容に無理があったり矛盾があると効果が薄まるというのもあるが、やはり一番の大きな理由は責任を取るということになるだろうか。自分のした事は自分でかたをつける。これは私のポリシーであり、生き様だ。ズルをして生きるのは嫌いだから。
溜め息ひとつ、そして思案。
残る問題は学園関係者への辻褄合わせをどうするかだ。大家さんは今ので大丈夫だとしても学園側には私の住所は知られている。これじゃ意味がない。後々バレてしまう。なにか手を考えなくてはいけない。すると、みぞおちの奥の方で何かが蠢く感覚がすると同時に私の頭上には私と同じ姿をした白い翼の天使と黒い羽の悪魔が楽しそうに仲良く、ぐるぐるとメリーゴーラウンドのように回りながら顕れた。
何かを耳元まで下りて来て呟いてくる。
──また、魔法使おうよ。
私の姿をした悪魔が囁く。
────使っちゃいなよ、魔法。
天使も囁く。
──────使うか、魔法。
私はそう決めた。
それから私は権謀術数をめぐらせ催眠魔法を駆使して様々な学園関係者をその魔力で酔わせた。担任の先生はもちろん、禿頭の教頭や、おでこにシワが何筋も刻まれた校長も容赦なく手にかけた。
これがママにバレた暁に私はこの世に留まれるだろうか。
そんな嫌な想像をしないよう努めて数日経ち、胸を高鳴らせながら初登校日を迎えて、自己紹介を無事に終えると親切なクラスメートの男の子に運ぶのを手伝ってもらった席に腰を下ろした。
その後はクラス中の人達から質問攻めにあい、その質問ひとつひとつに答えるのはなかなか大変だった。けれど嬉しかったし、みんな明るくて元気でとてもいい人達ばかりだった。でも、アニメの話にはあまり興味無さそうな感じで私は少し残念に思ってしまった。
アニメって凄く面白くて素晴らしいのに……。
そして来日はじめての昼休みになり、集まってきたみんなと話してるとなぜか突然、私の周りから人が離れだした。私が何か悪いこと言っちゃたのかなと黙考していると、
「オレの名はガード・オブ・レジェンズッ! ブラック・ブラッド・ブレード略称をトライブ、此処で逢ったが悠久の刻!! 貴様を討ち堕とさせてもらおうぞ!!」
いきなり、そんな大声が私の鼓膜を振るわせた。
目の前では机運びを手伝ってくれた黒崎……くん? に別のクラスの眼鏡をかけた男子がなにかアニメのセリフみたいなものを大袈裟な手振りとセットで語りかけている。話を聞いてみると、どうやら黒崎くんが彼の妹を殺したというシリアスな話をしているらしい。でも、黒崎くんはかなり険しい顔をしてる。ものすごく嫌そう。すると、黒崎くんが時計を指し示して一言、
「チャイム、鳴るぞ」とだけ言うと眼鏡をかけた彼は一目散に教室を出ていってしまった。
私は走り去った彼を目で追うために回した首を前に戻し、溜め息をついている黒崎くんを見やる。
もしかしたら……。
私は問いかける。
「ねぇ、もしかしてアニメとか好きなの?」
「えぇ!?」と驚く黒崎くん。その次に出てくる言葉を私はワクワクしながら待つ。黒崎くんが緊張の面持ちで口を開く。
「う、うん、好きだよ。…………もしかして紅野さんも?」
その返答を聞いて私はものすごく嬉しくなった。彼の手まで取ってブンブン振りながら喜んじゃった。ちょっと、はしたなかったかな?
まぁ、ともあれ前の席の黒崎くんはアニメが好きということですぐに仲良くなった。見ているアニメのジャンルもほぼ丸被りだった。
「俺はね、やっぱり伝説の五話のライブシーンかな。最初のドラムの音に心を奪われたよ」
「わかるよ。でも私はねー、タイトル回収からの特殊エンディングがかかる八話が大好きだな」
「あの話も良かったよね」
そうやってなぜか鼻血が出たので血が出ないよう鼻にティッシュを詰めた黒崎くんと好きなアニメのことについて話してると、私は誰かの視線を感じた。ものすご〜く重い気配がする右方向へ瞳を動かすと教室入口から黒色のミディアムヘアをした背が低い女子生徒がこちら側へ向けて邪念を放ちながら覗き込んでいた。とんでもない怒気を含んだ顔をしている。もしかしてあれが日本のデーモンっていう鬼?
「どうしたの?」
黒崎くんが私の様子を見て不安げな顔をしていた。
「ちょっとごめんね。用事ができちゃった、私」
「え?」
きょとんとする黒崎くんへ、いつもの癖で両手を合わせて謝りながら教室のドアから頭を出しているデーモン……じゃなくて謎の女子生徒の元へ向かうことにした。
「えーと、名前を教えてもらっていいかな?」
鍵が掛かっているのでそもそも開けられない屋上へのドアには立ち入り禁止の張り紙が貼ってあって、そんな鈍く銀色に輝くドア一枚しかない閑散で寂しい踊り場に私と彼女は二人、向かい合って立つ。私的には教室前の廊下でも良かったのだが、どうやら彼女は二人きりで誰にも聞かれずに静かな場所で話をしたかったらしく、この場所を選んだようだった。
「私はC組の芦屋遥」
そんな芦屋遥と名乗った少女は私を凝然と見据えて、やにわに名乗った。そんな彼女の見据えてくる目には憎悪の色が混濁と渦を巻いていた。
「わ、私は紅野エルって言います。よ、よろしくねっ」
そんな彼女に名乗り返してから友好の証として握手をしようと手を前に出すが、その手を見向きもせず彼女……芦屋さんは唸り声のような低いトーンをした声で言葉を吐く。
「貴女は司と仲良さそうに話してたけど、どういうつもり?」
「え?」
自分でも驚くぐらい間抜けな声が出た。
「だからさ、司と仲良くなってなにをしようとしてるの?」
戸惑う私に芦屋さんは噛み砕いて、また問いかけてくるが、改めて聞かれても理解はできない。相手の意図や聞きたいワードが全くと言っていいほどわからなかった。
「えっと、よく分からないんだけど……」
「だからぁ! 司の事どういう風に見てるのって訊いてるのっ!!」
「ど、どういう風にって言われても、ただのクラスメートだとしか……。そう言う貴方こそ、黒崎くんとはどういう関係なの?」
「私は司の幼馴染!!」
……あぁ、なるほどね。理解っちゃった。
この目の前で今にも噴火しそうなくらい顔を真っ赤にしてる黒髪の女の子は、黒崎くんの事が好きなんだ。それで黒崎くんと仲良く会話してた私にやきもち焼いて、さっきからずっと感情的になっているんだ。
そう思うと、話を理解するまで鬼のように映って見えていた彼女は全然普通の恋する女の子で、なんだかとても可愛く思えてきた。飼い主を取られて不機嫌にワンワン吠えてくる犬みたい。
だから、つい私は芦屋さんの小さい頭を撫でてしまった。
これは理性で抑えられるものじゃなかった。
「なな、なにするのっ!? あなたっ、あ、あ、頭おかしいんじゃない!!?」
当然、撫でられていた手を払って頭を両手で防御しながら縮こまる芦屋さん。そりゃあそうするよね。馬鹿にされてると思われても仕方ないよ。
「ご、こめん! つい可愛いなと思って頭撫でたくなっちゃって」
自分でも意味のわからない謝罪をする。
「美人だからって調子に乗っちゃって──っ!!!!」
とうとう堪忍袋の緒が切れた芦屋さんが吠えながら威嚇してくるドーベルマンさながらの剣幕で向かってきた。私は一瞬、驚いたけど頭一つぶん身長が違うとやっぱり力の差というものが物理的にしろ無自覚にしろ出てしまい、芦屋さんの小さい肩に両手をつっかえ棒のようにして乗せるだけでいとも簡単に抑えることに成功してしまった。それでも負けじと前に踏み出そうとして芦屋さんは身体に力を込めてくる。そんな芦屋さんの目尻には涙らしき輝きが見てとれた。とっくに憎悪の色は無くなってキレイで純真無垢な恋する少女の目をしていた。
流石に気が引けた。
それで両腕の力を緩めると芦屋さんは急に支えのひとつを失って結果的に私の胸の中に顔をうずめることになり、自然と抱き合う形になった。彼女のフローラルな髪の匂いが鼻を掠める。
少しの間。
そのまま時間が止まったかのように二人して狭い踊り場で寄り添いながら立つ。まるでライバル関係の二人が最後の決着をつけるかのような雰囲気が踊り場に流れた。すると冷静さを取り戻したのかすっかり大人しくなった芦屋さんは私からから離れ、
「もういいっ! ……勝手にすればっ!!」
そう言い捨てて階段を下りていった。
私は彼女の後ろ姿が見えなくなっても、階下の方を見下ろし立ち竦んでしまう。そのまま数分間は身動きが取れずにいた。やがて授業開始五分前の予鈴が鳴りだすと私はふと我に返り、すぐにクラスへと戻った。
来日して最初の放課後になった。
夕暮れに赤く染まる、タイルで舗装された帰り道をひとり歩きながら私は考える。無事に一日を問題なく過ごせた。やり通せた。けれど懸念の一つである学校生活は何とかなるとしても別のさらに大きな懸念の一つである、住む場所がないという私の頭を悩ませる問題について。新たに賃貸を探したくても火事の修理費等により、お金はあるようでないようなものだ。お金は日常生活の必要最低限な額に、お小遣いをプラスしたものを全額として約一年分もの額をパパが口座に振り込んでくれている。その限られた額の中でやりくりをしていくというのが、パパが娘である私の家出を手伝う条件の一つでもある。お金の使い方、大切さを覚えて欲しいというパパなりの考えがあるのだろう。────けれどパパ、残念ながら私は早々に窮地へ立たされています。
赤い空を眺めて、これからの不安を多分に抱えながら私は立ち止まり、目を閉じて深呼吸。
よし、と気持ちを新たに目を開けて歩き始めると、人通りが少ない交差点で信号を渡れないでいる腰の曲がったお婆さんがいた。そのお婆さんの隣で次の青信号を待っていると近くにある茶色の廃墟アパートが視界に入り、私は嫌気が差した。ほどなくして青信号になりお婆さんが渡るのを手助けした別れ際、お礼として飴玉を貰った。包みには黒砂糖味と印刷されている。その飴を変な味だなと思って舐めながら先ほど見えた場末の廃墟アパートまで歩いていき、辿り着くときにはすっかり口の中にあった飴は溶けてなくなっていた。そして周りに人がいないかきょろきょろ確認してから、錆びついて軋む鉄の門扉をゆっくり開き仄暗い建物の中に立ち入る。
今やここが私の住処なのだ。
ねずみ色の床には大小様々な瓦礫、空き缶やビニール袋のごみ類が雑然と散らばり、壁にはおびただしい亀裂が入り、入ってない壁を探す方が難しいぐらい。天井にある蛍光灯は殆ど割れ果てて埃まみれで汚く、割れていない蛍光灯を見つけても電気なんかもちろん通っていないため何の役にも立たない。なんとみすぼらしいんだろうか。建物内の片隅には瓦礫を取り除いた跡があり、そこには何も知らなかった頃のアニメグッズ類が紙袋に入って物寂しく壁に立てかけてあった。
そんな廃墟に、おろしたての制服姿で私はひとり立ち尽くす。
外はまだ薄明るい。その明かりに誘われ、本来なら窓があるであろう長方形の額縁に虚しさと孤独と静寂を背中に感じながらゆっくりと近寄り、何の変哲もない退屈な空を仰ぎ見た。
涙が零れそうだった。




