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一章

 私はあの夢を見てから、とても気分が良くなった。鬱屈(うっくつ)した毎日とは別れを告げ、新しい自分として今日目覚めた。

 今朝の口づけもあって、朋枝から距離を置かれたが、そんなことは気にもしない。今なら、なんだってできそうな気がする。

 さあ、今日から私の本当の物語が始まるのだ。誰にも操られられないためにも、この物語を書くのはあくまで私自身。

 さて、何から始めようか。いや、考えるまでもない。物語を書くのが好きであるなら、作家になればいい。そのために寝る時間を削ってでも、ほぼ毎日夜中に書いていたのだから。

 しかし、作家になるにはどうすればいいのだろうか。もちろん出版社に持ち込むのが一番だが、以前何度か持ち込んだとき、どれもろくに読まれずに突き返されてしまった。そう、何度か突き返されたせいで、私は物書きになろうという勇気が持てなくなってしまっていたのだ。

 だが今なら、何度突き返されようが、へこたれないだろう。もちろん、良いものを書いた前提での話だが、それでも女、況して女学生という理由で読まれないという事態は避けなければならない。ちゃんと読んでもらうには、どうすればいいのだろうか。

 そんなこんな、学校の帰り道一人で歩きながらいろいろ考えていると、ふと私の前を歩く二人の男女に目が留まる。一人は背の高い髭を生やした軍人。そしてもう一人は、その軍人の腕を掴んで身体を引き寄せるドレスを着た若い女性。髭を生やしている雰囲気や立ち振る舞いから見ても、男のほうはなかなかの地位であるように思える。

 私はこれを見て、思わずニヤリとしてしまう。そうだった。男とはこんなにも単純であることに、なぜ今まで気づかなかったのであろう。女を武器に男を惑わしてしまえばいいのだ。出版社で働いてる大半は男たち。だからこそ、女を武器に上手く交渉すれば、私の小説が文芸誌に掲載されるかもしれない。

 だが果たして、私は男を手玉に取れるほど、魅力のある女なのだろうか。こんな風に言うと自惚れだと言われかねないが、私自身、同じ学校の女生徒の中では、顔立ちが整っているほうだと思う。まあ、言い寄ってくる歳の近い男子もそれなりにはいるので、それは間違いないと思うのだが、それでも、女好きの男の大半を魅了するような、そんな女としての魅力を、私は備えているのだろうか。

 いや、悩んでも仕方がない。取り敢えず試してみて、それで駄目なら他の方法で考えるまでだ。では早速始めよう、と、言いたいところだが、まずは女として、最低限度の振る舞いというものを身につける必要がある。だがそれは、学校で学ぶ女としての教育ではなく、男を手玉に取る女としての教養。女学校では決して学ばない、女の裏作法なるものを、自分で見つけて学ばなければならないのだ。

 私はそれからというもの、学校が終わると街を歩き、女を連れ歩いている男のあとをつけた。特に地位の高そうな男に的を絞り、どういった会話をしているだとか、怪しまれないように気をつけながら、可能な限り観察した。

 そして家に帰れば、以前働いて貯めていた少ない金を持って貸本屋に行くと、色恋ものの小説を読んで、学校帰りの観察と照らし合わせながら、男と女双方の心理や弱点を徹底的に研究していった。

 それからひと月が経ち、これらを続けてみた私の結論を述べると、男の大半は私の想像した通り単純であることがわかった。つまり、はっきり言ってしまえば、馬鹿であることがわかったわけである。少しでも猫撫で声で甘えたり褒めたりすれば、男たちは途端に満足そうな笑みを浮かべ調子づく。これを本能的にやっているのか、意識的にやっているのかわからないが、女たちは顔を出さずに上手く男に取り入っているように思える。

 しかし、男の中にも、なかなか手強い人物も少なからずいた。こういった者は身なりや振る舞いから、特に地位の高い者のように感じられる。軍人や巡査(じゅんさ)などがまさにそうだ。こういう力を持った立場にいる者は、女は意見をするなと言わんばかりの荒くれ者も少なくない。街中で人目を気にせず女を引っ叩くところを見るのは、決して気持ちの良いものとは言えない。

 そう、女には権利がないのだ。結局のところ、女という生き物は男の奴隷みたいなもの。いや、西洋でいうところの奴隷よりもタチが悪い。(あるじ)が守ってくれないばかりか、ひどければ乱暴に扱い、身籠れば厄介者として最悪捨てられてしまう。

 男と女。このひとつの違いで、こんなにも生き方に違いが出てしまう。だからこそ、私は今の世の中が嫌いなのだ。私は今まで自分の気持ちに正直ではなかった。今までの私は、女としての生き方に、嫌々ながら従ってた節がある。だが、それももうお終いだ。こんな世の中のことなんか真っ向から否定して、男とか女とかそんな鳥籠から抜け出し、自由な生き方がしたい。

 しかし、私は女の身体を持って生を受けた。心持ちとしては男と女といった性別関係なく、あくまで私なのだが、女として生まれたことは変えようがない。皆も当然私のことを女として見ているだろう。だからこそ、私が思い描くような形で自由な生き方ができないこともわかっている。でも少なくとも、ある程度は自分の好きな生き方はしたい。女だからといって、それが許されないなんて、もう私は絶対認めない。必ずやる。しかし、女である以上、正攻法では駄目だ。そのためには男を手玉に取る方法を学び、そして這い上がらなければ。

 そんなことをいろいろ考えながら、借りてきた小説を読みつつノートを取っていると、私の部屋に母が入ってきた。

「いすゞ、ちょっといいかい?」

「何?」

「あんた、卒業したらこの先どうするの?」

「どうするって、う〜ん、まだ特に何も決めてないけど」

「いすゞ、お友達とかみんな、今頃働き場所見つけたり、お嫁に行くことが決まってたりしてるんじゃないの? あんた、そんなんで本当に大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。学校での成績は一番だし、言い寄ってくる男もそれなりにいるから、そんなに心配ないんじゃない」

「いすゞ、そんな甘いこと言ってたら駄目よ。女なんて聞き分けが良くて価値あるものなんだから、少しは母さんの言うことも聞いて……」

 ああ、もう本当にめんどくさい。卒業まで半年もないこの時期、母は心配してか、時々こうやって話しかけてくる。お母さん、あなたの言うことはわかるよ。だからこそ、今まで勉強も頑張ってきた。でも、そんな私とはもうおさらば。あなたの願う理想の娘はもうどこにもいないのよ。

「わかったよ、お母さん。そのためにも、ほら、こうやってお勉強頑張ってるんだから、邪魔しないでもらえる」

 こう言ったものの、母は立ち去る気配がない。

「もう一度言うよ。ほら、邪魔だから、向こういって! これじゃ、勉強できないんだから」

「あんた、進学する気なの? でも……」

「進学するしないにしても、学校の成績は重要でしょ? だから、ほら、向こう行って!」

 邪険な扱いをしたものの、母は私に対して怒るような素振りを見せず、相変わらず心配そうな表情を保っている。だが母も諦めたのか、不服そうに部屋を出る。

 母が部屋を出たあと、私はため息が出た。こう何度も心配されては集中できない。確かに、今こうしてる時間もそんなに残されていないだろう。早くこの先の身の振り方を決めなければ、恐らく近いうちに先生にも言われる。だからこそ、そろそろ実行に移さなくては。

 私はノートに何やら書く素振りを見せ、顎に手を置いた。

 いや、いきなり実行に移すのは、いくらなんでも難しいだろう。知識から得たものを理解することと、実際にできるかどうかはまた別の話だ。少なくとも、何度か練習が必要になってくる。さあ、どうしたものか……。

 そしてその翌日、昨日の夜からずっと同じことを考えていた学校の帰り道、前を見ると朋枝の後ろ姿が見えた。私が玄関先で口づけをしてからというもの、私のことを避けて、まったく話しかけてこなくなってしまった。だからといって、私のことを周りにも言っていない模様。

 朋枝の後ろ姿をじっと見ていると、何を思ったのか、気がつけば朋枝の腕を引っ張り、人気(ひとけ)のない神社へと連れて行く。朋枝は驚きながらも、私に抵抗することなく、簡単に腕を引っ張られて連れてこられた。

「やあ、朋枝。久しぶり」

「なんのつもり? 久しぶりって、いつも学校で会ってるじゃない」

「学校では顔を合わせてるけど、以前のように一緒に学校に行ったり、こうやってお喋りすることがなくなったからさあ」

 どことなく怯えた表情だ。恐らく警戒している。

「もしかして、あのとき、わたしが口づけしたことを気にしてる?」

 朋枝は黙ったまま、こちらを見ている。なんとなく、さっきよりも頬が赤く染まったように感じる。

「……どうしちゃったの?」

「うん?」

「どうしちゃったの? いすゞ……」

「どうしたって……」

「だって、おかしいよ! どうしちゃったの一体? 女同士で口づけするなんて。もしこんなことがバレたら、わたし、わたし、もうまともな暮らし送れないわ」

 朋枝は取り乱した様子で涙目になる。今の言葉の最後のほうから察するに、私のことを心配しているようで、本当のところ自分のことしか心配していないのだろう。わたし、わたし、と最後言っていたところだ。そう思えると、なんだか腹も立ってくる。ここなら本来、彼女を落ち着かせるのが最善だが、私はなんだか悪戯したくなってきた。

 私は視線を逸らしている朋枝のそばまで近寄ると、いきなり朋枝の頬に両手を当てて口づけをした。朋枝は最初とろけたような表情を見せるが、数秒後、私を後ろに突き飛ばす。

 私は倒れないように踏ん張ると、朋枝の顔を見る。恐怖と恥ずかしさで顔が完全に赤くなっている。

 朋枝が私に背を向けて逃げようとしたが、急いで捕まえて背後から羽交い締めにした。抵抗されそうになったが、私はすぐさま朋枝の耳元に息を吹きかける。すると、朋枝は身体を小刻みに震わせながらも、金縛りのような状態となり身動きが取れなくなってしまった。私はそれをいいことに、服の上から胸など朋枝の身体の至るところを触っていく。私は優しく触りながらも、どこをどう触れば朋枝がどんな反応をするのか、じっくりと確かめていった。

 しばらくするうちに、段々と朋枝の息が荒くなっていく。もしかして、感じているのか。私はさらに追い討ちをかけるかのように、首筋を舌で舐めていく。首筋を舐めたその瞬間、朋枝はほんの一瞬大きな声を出して身体を大きく揺らした。ふふふ、可愛い反応。朋枝の身体が火照っていくのを肌で感じ取る。

 こうなってしまえば、もう私の意のままだ。(ほう)けた顔をしている朋枝の頬に両手をおいて、私は再び口づけをする。舌を絡ませて、朋枝の温もりを感じながら。

 ああ、いい香りだ。男と違って臭くない。男を知る前の処女特有の、程好(ほどよ)い香りなのだろう、これが。

 口づけを終えて顔を離すと、朋枝はすっかりうっとりとした表情となっている。この様子を見ていると、実はかなりの好き者なのかもしれない。

「どうしたの、朋枝? うっとりした顔をして」

 朋枝は感じすぎたせいで、まだ息が荒く、私の言ったことにまだ上手く答えられないようだ。

「本当はこういうことするの、好きなんじゃなくて?」

 私は声色を変えて、台詞じみた喋り方で訊いてみた。

「そんなことない……そんなことないわよ!」

「あらそう。では、なぜ途中から抵抗しなくなったの?」

「……」

「本当は好きなんじゃない? こういう、そう、濡れ事みたいなの……」

 朋枝は顔に赤みを保った状態で、顔を背けた。否定しないところをみると、どうやら嫌いではないようだ。恐らくだが、多少は女同士の艶事にも興味があるのかもしれない。

 私はふと、いいことを思いつくと、思わずニヤリと笑ってしまう。

「ねえ、朋枝……」

 私は朋枝の背後に立つと、両手をそっと肩の上に置いた。

「ねえ、朋枝。あなたさあ、確か、近いうちにお見合いするとかなんとか言ってなかったっけ?」

 私はそう問いかけたのだが、朋枝はまだ(だんま)りを決め込む。私はそんな朋枝に再び耳元に息を吹きかける。すると、一瞬身体を大きく揺らした。

「ねえ、どうなの?」

 私の質問に朋枝は声を震わせながらも、なんとか声を出そうとする。

「……もう、二回会ったわ……それで、明後日、また会うことになってて……正式にお付き合いするかどうかは、そのとき決めることになってる……」

「二回も会ったってことね。じゃ〜あ、もうこんなことや、あんなこと、やったのかしら?」

「……こんなことや、あんなことって?」

「うふふっ、もうわかってるくせに。さっきまでわたしたちがやってたことよ」

「えっ⁉︎ そんなことやってないわよ!」

「あらそう。じゃ〜あ、今度そのお相手と会うとき、わたしも一緒についていくから」

「えっ⁉︎」

「安心して、あなたのお相手と直接会うわけではないから」

「……」

「ただね、今度あなたの殿方とお会いするときに、わたしの指示通りに動いてほしいのよ。私は隠れてその様子を見ててあげるから」

「えっ⁉︎ 指示通りって、一体何させる気なの?」

「まあ安心しなさい。そんな悪いようにしないわ。わたしはただ、女がどのように振る舞えば殿方を喜ばせることができるのか、ただそれが知りたいだけよ」

「なんであなたの言うこと聞かなきゃなんないの! そんなの絶対嫌よ!」

「別に断るなら断ってもいいけど、じゃあ、あなたとのこと、わたし他の人に喋っちゃおうかな」

「えっ、それって⁉︎」

 私は再び朋枝の胸を服の上から弄る。耳元に息を吹きかけて、さらには首筋を存分に舐めていき、朋枝の身体で嬌音(きょうおん)を奏でる。

「いすゞ、あなた正気じゃないわ! こんなことみんなに知られたら、もうまともな生活送れなくなるわよ。わかってるの?」

「うふふっ、わたしは至って正気よ。別にこんなことばれたって怖くはないわ。ね〜え、朋枝。そんなに色っぽいこと命令しないからさあ、少しはわたしの言うことも聞いておくれよ。ほら、わたくしたち、お友達でしょ?」

「お友達って……」

「えっ、ばらされたいの? ここにいる朋枝という娘は、お友達である少女と濡れ事を楽しんでいると」

「別に楽しんでなんか……」

「えっ? じゃあ、なんであんなにもとろけた顔してたのかしら? 朋枝にいきなり口づけされたって、みんなに言っちゃうけど」

「それはあなたが……」

「おだまり。もうこれ以上反抗的な態度を取ってたら、本当にみんなに言いふらしちゃうからね。あなたの性癖とか、嘘も交えながら大袈裟にいろいろと言いふらしてやるかも……だからもう、あなたはわたしの言うことを聞くしか道は残されてないのよ」

「そんなあ……」

 朋枝の絶望的な表情を横から見て、思わず口元が緩んでしまった。なんて可愛いのだろう。友達をこうやって脅すことは傍から見れば最低なことだろうが、使えるものはなんだって使ってやる。それがたとえ私の友人であろうと。

「じゃあいいわね。どういうことをしてもらうか、あとでまた声をかけるから。それじゃ、またあとで」

 私はそう言うと。朋枝を残して神社をあとにした。

 あれから二日後、今私は朋枝がお相手の男性と会っているところを、大勢の人影に隠れながらこっそり見ていた。相手は坊主頭で眼鏡をかけた若い男である。紺色の着物を羽織っているが、痩せていて冴えない感じ。小さい着物屋の二代目とのことだ。

 街中歩く二人のあとを、お相手に気づかれないようにつけていく。朋枝には決して悟られないように念を押したが、どことなく不安そうな顔がはっきりと見て取れる。

 朋枝はいつもの服装とは違い、上質ではないもののそれなりに見栄えのする着物を着ていて、いくらか華やいでいる。まあ、私と比べればだいぶ劣るであるだろうが。

 二人で連れ立って街を歩き、洋食屋や甘味処で食事をしたり、服屋に立ち寄ったりなど、私が観察してきた男女の行動と、今のところ特に変わったところはない。ただ、唯一違うことがあるとすれば、それはやはり、自信があるかないかということだけであろう。

 男にはわからないかもしれないが、女は表立って自信があることを見せることは少ない。特に男の前では。しかし、ひとつひとつの言動をよく見ていれば、次第にその女の本性というのが見えてくるもの。それがわかるのも、私が女であるからだ。

 他の女どもと比べて、朋枝はどう見ても不安な様子が丸わかりだ。時々きょろきょろしたりするので、なんだか私のほうが不安になってしまう。私がどこにいるのか探しているのだろう。この感じで、果たして彼女が私の言う通りの行動ができるのだろうか、見ものである。

 そうこうするうちに日が暮れてきて、二人はとある大きな公園の長椅子に腰掛けていた。私は茂みの中から、こっそり二人の様子を観察する。さあ、ここからが本番だ。

「あの、朋枝さん。もしかして、今日楽しくなかった?」

「えっ?」

 朋枝は驚きと不安が入り混じった様子で、お相手の男を見た。まあ、当然と言えば当然だろう。あれだけ不安そうにきょろきょろとした様子なら、そう思われても仕方あるまい。

「……えっ……今日、とても楽しかった……です、よ」

「そんな風には見えないけど」

 相手の男の真摯な表情に、朋枝は思わず顔を背けてしまう。

「本当は僕と一緒になるの、嫌なのではないですか?」

 男の言葉に朋枝は動揺して、再びきょろきょろしてしまう。その際に、茂みに隠れていた私と目が合った。私の言う通りにしなければ、良からぬことを言いふらされてしまうと、不安が頭に(よぎ)ったのか、朋枝はもうどうしようもないといった顔になっていた。

「そうですか……そんなに僕と一緒になるのは、嫌ですか」

「いえ、そんなことは……」

「もういいんです。朋枝さんの気持ち、今日見ていてよくわかりましたから。お家まで送りますから、早く帰りましょ」

 男は立ち上がって歩こうとする。もう朋枝の顔を見る素振りすら見せない。

 この様子を見ていて、つくづく男は馬鹿だなと思った。まるで乙女心をわかっていない。なぜそう言えるのか。それは朋枝が相手の男と夫婦(めおと)になりたい、その気があることを本人から聞いたからである。今日の行動を見ていても、朋枝が相手に好意を抱いているのは明らかなのに、この男といったら、完全に嫌われていると誤解しているようだ。

「……待って」

 朋枝が急いで立ち上がったその瞬間、朋枝は体勢が崩れてしまい転びそうになる。そして、自分に背を向ける男に倒れかかり、ふたりして長椅子に倒れ込む形となる。

 朋枝と男、お互い顔が近い状態で目が合う。朋枝の顔は恥ずかしさと泣きそうな感じで、顔が真っ赤となっている。そして、このふたりのうち、先に口を開いたのは朋枝のほうであった。

「……ねえ、喜助(きすけ)さん……わたし、こんなにも喜助さんのこと、お(した)い、してたのですよ……」

「……」

「……わたし、臆病なんです。だからその……わたし、本当の気持ち、なかなか言い出せなくて……」

「朋枝さん……」

 朋枝は振り返ると、私のほうへ一瞬視線を向ける。それから、着物をわざとはだけさせると、顔を赤くし涙を浮かべながらも、男の顔に向かって徐々に顔を近づけていく。

 少しやけくそな感じはするものの、朋枝は男と口づけを交わす。男のほうも朋枝を求めるかのように、身体を強く抱きしめた。

 私が思い描いた筋書きとは多少違うとはいえ、結果的には私はもちろんのこと、朋枝にとっても良い方向へと物語が進んだ。

 この光景を見ていて、私と同じ年頃の女子であるならば、誰もが羨ましく思い、同時に嫉妬する光景でもあったであろう。だが、私自身はそういう気持ちになることは決してなく、それどころか、こういった男女の濡れ事を隠れて見るのは、思った以上にとても楽しいものだという風に感じた。

 どうやら、朋枝と喜助のふたりの関係は、上手くいったようである。あれから私は、朋枝を脅したり指図することは一切なく、彼女の様子をそっと見守った。

 それからというもの、私は他の女学校に通う女子の弱みを徹底的に調べ上げ、朋枝と同じく、私の命令に従う形で、相手の男と次々と濡れ事紛いな行為をさせていく。その中には上手く成功する者もいれば、失敗する者たちもいた。私に目をつけられ、あとで大泣きする結果となった女生徒の数はそれなりに多いが、私は彼女たちに同情することは一切なく、観察していって、どうやって男に色仕掛けをしていけば良いのかを、彼女たちの犠牲を基に学んでいった。それから月日は経ち、ようやく私が実践する日が訪れた。


 某日、私は以前原稿を持ち込んだ出版社を訪れていた。朋枝の助けを借り、朋枝と夫婦(めおと)となる喜助から着物をもらって、化粧で顔を整えてからここまでやってきた。

 小汚い出版社の中に入ってしばらくすると、以前私の書いたものをろくに読まずに突き返した、編集者の立川(たちかわ)という男が姿を現した。

「やあ、お嬢ちゃん。どうしたんだい? そんな喪服のような格好をして。誰か亡くられたの?」

 喪服? 花柄が入っているだろう、ちゃんと。相変わらず年端(としは)もいかない娘だと馬鹿にしてるようだな、この男は。この立川は洋装を着た痩せ型の男で、いかにも学があると言わんばかりに眼鏡が似合ってる。ほんと嫌味な感じな男だ、まったく。

「いいえ。今日はわたしの書いたものを読んでもらおうと思って、ここまで来たのです」

「どれどれ、それじゃ読ませてもらおうかい」

 立川の部屋のところにふたりして行くと、私はそこで原稿を渡した。立川はそれを机の上に置くと、順番に読んでいく。

 読む速度がとても速く、まともに読んでいるとは思えない。そして、数分も経たないうちにすべて読み終わってしまった。

「読ませてもらったけどねえ、これじゃあ、文芸誌には載せられないよ。まるで物書き気取りの飯事(ままごと)だよ、これは」

 この男は、娘っ子だと完全に馬鹿にしている。予想していた通り、今回もまともに読んでもらえなかった。

「うちは人気な作家を何人か抱えてるから、それなりに良いもの書いてくれないと載せられないわけよ。お嬢ちゃん、これじゃ載せられないから、また別の書いて出直してきなさい。でも、良いものが書けたらの話だけど。まあそんなことより、お嬢ちゃんよく見たらなかなかきれいだから、他のことであれば付き合ってやってもいいよ。例えばお茶飲みにいくとか。ははははっ!」

 女子供だからと、まともに読んでもらえず軽くあしらわれたことに、以前の私であればひどく落ち込み、そして激怒していたことであろう。しかし以前の私と違って、なんの準備もなくここに来たわけではない。

「ね〜え、立川さん。ちょっとこちらも見てくださいよ」

 そう言って、私は一枚の写真を机の上に置いた。そこには料亭で愛人と淫らな行為に及んでいる立川の姿が写っていた。

「こ、これは⁉︎」

「ねえ立川さん、わたくし、立川さんのことはいろいろと調べてきましたのよ。ずいぶんとこの愛人に入れ込んでるようですね。隠し撮りされてるのも気づかないなんて」

 私はそう言いながら、思わず口元が緩んでしまう。実はここに来るずっと前に、写真館の主を色仕掛けで口説き、事前に調べていた立川がよく愛人と訪れる料亭で隠し撮りさせたのだ。

 立川はそれを手に取ると、紙屑になるまで徹底的に破っていった。

「無駄ですよ。他にも写真を撮ってますので」

 立川はそれを聞くと、ぴたっと動きが止まる。

「そういえば、立川さんのところって、恐妻家(きょうさいか)でしたよね。とてもとても怖いんですってねえ。いいんですか、他の写真、奥様に見せますけど」

 私はニヤリと笑いながら言った。立川は私の言葉を聞いて、こめかみから汗がどんどん流れていく。

「……おれを、おれを脅す気か? 何をさせたいんだ?」

「ですから、わたしの書いたものをちゃんと読んでほしいのです。さっきのように、適当に読むのではなくてね。それと、わたしの書いたものを、あなたのところでちゃんと載せてもらいます」

「いや、ちゃんとおれは読んだ。その上で、これだと載せられないって判断した。うちにも載せるだけの基準ってものがある。だから、基準を満たさないと載せらんないよ」

「嘘おっしゃい。そう言って、本当は適当に読んでるくせに。それじゃあ、わたしがさっき見せた原稿の中身について、一から話してみなさいよ」

 立川は私にこのように言われて、まったく言葉が出ない。

「どうやら図星のようね。そうやって女子供だからと馬鹿にしてるんでしょ? 妻から尻に敷かれてるくせに。本当に駄目な男よ、あなたは。恥を知りなさい」

 女学生に弱みを握られここまで言われてしまうと、流石にこの男もまいったようである。

「いいわ。あなたが言うことを聞かないなら、それでも構わない。その代わり、残りの写真の数々、すべてあなたの奥さんに見せるから」

 私はそう言うと、部屋から出ようとした。しかし、立川から腕を掴まれてしまう。

「離してくれませんか。痛いので」

「まっ、待ってくれ。ちゃんと……ちゃんと読むから……それに、うちで載せられるよう、上手く計らう……計らうから。原稿で駄目なところがあれば、ちゃんといいものになるよう、こちらもちゃんと指摘するから。だから……」

 振り返ると立川はひどく焦った顔になっていた。余程妻が怖いとみえる。今まで私を馬鹿にしてきたこの男の無様な姿を見るのは、なんとも気分が良い。

「……ふぅ〜、はい、わかりました。あなたがそこまで言うのなら、奥様に写真を見せるのはやめますよ」

 この言葉を聞いて、立川は安心したようにため息をついた。

「ただし! 今後、わたしのことを裏切ることがあれば、そのときはわかってますね」

 私がそう言って微笑むと、立川のこめかみから再び汗が流れる。立川はあわてて頭を縦に振ると、私は立川に近づき頭を撫でる。

「そうそう、いい子ね。よくできました」

 立川の汗の匂いが鼻につんとくる。朋枝や他の女子とは違い、なんとも臭くて嫌な匂いだ。

「そうやって、わたしの前で常にいい子にしてるのよ。そしたら、わたしはあなたの嫌なことはしないから。それに……」

 私はそう言ったあと、立川の頬に両手を添えて顔を近づけていく。口づけをすると舌を絡ませ、立川を快楽の海へと誘う。唇を離すと、他の者と同様とろけた表情を見せた。

「こういうのも、悪くないでしょ? あなたが良い子にしてたら、あなたの愛人とやってたような、あんなことやこんなこと、いっぱいさせてあげるわ」

 立川の目は大きく開き、ごくりと唾を飲み込む様子が目に入る。

「はっ、はい。あな、あなたに、従います」

 この男が完全に堕ちてしまった様を見て、私は思わず笑みがこぼれた。

「……お嬢、いや、そういえば、あなたのお名前、わたくし知らないのですが、伺ってもよろしいでしょうか?」

 私は立川の言葉に、本名ではなく、夢に出てきたあの名を口にした。

「夜羽……夜羽真紅よ」

 私はそう言うと再び笑みを浮かべた。


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